2015年1月28日水曜日

子どもの承認欲求は誰が満たすのか。(編集中)


 


■SNS台頭で大人の承認欲求が終わらない


承認欲求の時代。
SNSによって人々の承認欲求がひらっきぱ無しの時代。

大人たちもひらっきぱなし。
本来、承認してあげる側にあるはずの大人たち。
大人たちが承認を求め続ける。

そうなると、子どもは誰に承認してもらうのだろう。
成長という意味において大人より自己を形成する段階にある子ども達にこそ承認は必要だろう。


承認欲求というのは大人になる段階である程度隠しながら、ここまではやってきたのだと思う。
解放する機会がなかったから隠すことが出来ていた部分は大きいだろう。

しかし、いま、大人たちはSNSという機会を得て承認欲求を隠せなくなっている。


 

 

■成功の必要のない承認が子どもには必要だ。



子どもに必要な承認欲求はありふれた承認だ。

何も世間にインパクトのあるようなものでなくて良い。
ほんのささいなお風呂掃除をしたとか友達に順番を譲ったとか、ほんの小さなことでも承認してもらい心を形成していく。
何千ものリツイートやフォロワーは必要ない。


その小さな承認は、ごく身近な大人たちが与えるべきである。

しかし、与える側のおとなたちが止められない承認欲求を抱き続け、求め続ける。
渇いている人が渇きを癒すことは難しい。
それを求め続ける大人は子どもにそれを与えられない。

子どもの方が本来的にそれを切実に求めていて必要にしている。

身近な大人がそれを与えなかったら子どもの欲求はどこに行き、どういう形で昇華しようとするのか。

世間的に承認されるようなことを遂げられる子は良い。
SNSがその子のそれを承認してくれるだろう。
ただ、ここで述べているのは普通の子が普通に承認される機会についてだ。


大人たちが渇きを抱き続ける時代に子どもの承認欲求は誰が満たすのか。
そして満たされなかった場合に、それをどういう形で満たそうとするのか。
この当たりに若者による現代的刑事事件の発生が起因しているように思えてならない。





SNSの渇きはSNS含むネットが埋めてくれる、と楽観することも出来る。
LINE、ツイキャス、ニコニコ生放送などなどが承認を得る場になりえる。
が、ここで得るためには、ある種の才能が必要だ。
誰しもが承認を得られる場ではない。





うまく結論までまとまらない。




SNS時代は多くの人に「承認の渇き」を提供している。

競争は世界を豊かにしてきたが、承認を得るための競争は豊かさを生むだろうか。
能力への承認ではなく、ごく小さな何気ないこと。
幼少期~少年期に誰しもが必要な承認がSNSによって奪われているような気がしてならない。



SNS時代台頭においておきていること。
承認されるような業績を追い求め続ける大人たち。

そして、大人たち成功が必要な承認を求め続ける結果、
成功の必要が無い承認すなわち子どもたちが子ども時代に当たり前に受け取るべき承認がどんどんか細くなり続けているのではないか。
そんな懸念を結語にす。


大人が欲しがり続ける社会なんて豊かなはずが無いよね。

2015年1月15日木曜日

フェミニストに美人は居ない




 

 

■女性専用車両のあの人たちは女性性を憎んでいる。



女性性を上手く活用すれば社会で生きやすくなる。
自分が女性であった場合、有効に使うチャンスがある。

しかし、何らかの理由で有効活用できていない過去・現状がある。

有効活用できない自分に気づかないように、女性性そのものに怒りが向けられる。

怒りは自分よりも女性性に向けたほうが心は守られる。

 女性性を上手に使っている人をみると怒りが湧く。

私にだって微笑んで欲しかったのに…と。






フェミニズムの本質は、
女性性を上手に使えない人たちから上手に使っている人たちへの嫉妬だ。


「私は特にどこでもいいです」側に渡れなかった人たちの恨みと嫉妬。


大人は嫉妬している自分に気づきたくない。
嫉妬をフェミニズムという活動の蓑を被り今日も嫉妬が続いていく。