2015年11月28日土曜日

心配というコントロール



心配という言葉で子供を操る親。
心配という言葉で子供の自由を奪う親。

親から心配されたら心配させないようにしようとするのが子供。









■心配=私の思い描いたあなたでいなさい

母の価値観の中から少しでも出る行為に対しては容赦のない罵倒を私に浴びせました。
時には容赦のない暴力も受けました。








「親を好きにならなければ」
「すべては自分が悪いんだ」


親を大切にしなければならないと言われていますが、一番大切なのは自分の心です。親の為に自分を追い詰める必要は全くありません。世の中には「子供のため」という言葉で子供をコントロールする親がたくさんいます。


虐待していた親を許すということは、自分が虐待されていた状況を許すということです。自分は虐待されても仕方なかったんだと認めることです。
そんなことはできません。私も、ほかの誰だって、世界中の誰だって、虐待されて当然な子どもなんていません。
だから、私たち虐待を受けたものは、「親が未熟だったのだ」「親が間違っていたのだ」というところから、自分の価値観を見直す必要があるのです。


2015年6月7日日曜日

人には間違える権利がある


■失敗を許さない大人たち


人には間違える権利がある。
自分自身の体験(=失敗)から実感してこそ意味がわかることがある。

「健康は宝」
「人生に意味は無い」
「愛より金」

人生のピークを終えた老人たちがさもシタリ顔で吐くセリフ。
教訓めいて若者に説いてみたところで、若者にはまったく響かない。
なぜなら、言葉の意味に伴うような経験を若者はしていないから。


ご老人たちは、親切心で自分自身の経験から学んだことを教えてくれようとしているのかもしれない。
しかし、だ。
言葉というのはある人の経験値によって染み渡る深さがまったく違うことを老人は理解すべきだ。


「だからあのとき、俺が言ったじゃないか。
 なぜ言ったとおりにしなかったんだ」


人間には間違う権利がある。
たとえダメージを負うとわかるような場面においても。


経験が伴わない有難いお言葉を老害と呼ぶのだろう。

2015年4月24日金曜日

緊張して欲しい病

 


■年下が緊張していると安心する年上



大人は子ども(青年)に緊張して欲しいのではないかと思う。
年下の奴らが緊張を覚えることで、大人はある種、己の大人としての権威みたいなものを確認でき、自己肯定感を充足しているのだと思う。


愚かな生き物だ。
もっとほかの、自分自身の達成によって充足させればいいのに。



テレビのインタビュー。
「いまの子たちはカメラの前でも物怖じしないで堂々としていますよね」

企業の新入社員。
「部長の前でも堂々として居られるなんてすごいな」

スポーツ選手のルーキー。
「ルーキーなら緊張して良い場面なんですけど、堂々としていますね」

…年下が堂々としていると、大人たちは面白くないらしい。





大人たちと付き合うとき、バカを演じる努力って恐らく一生続いていくのだと思う。

2015年4月22日水曜日

寂しさを感じにくい人ほど激しい寂しさに襲われる。(仮)



>>
久々の休みをどう過ごすか?
回答は、「1人で過ごす」or「友人と過ごす」のどちらか。

こちらは、法律評論家・堀井亜生先生の質問です。
寂しがり屋の人は、誰かにかまって欲しくて嘘をつく傾向にあります。他人とコミュニケーションをとりたいがために嘘をつく可能性があるということですね。
上記の質問に則して言えば、「友人と過ごす」を選んだ人は、嘘をつきやすい傾向にあると言えます。コミュニケーションを円滑にするために、会話をおもしろくしようとお話を盛ったり、本心と違ったことを言う傾向にあるんだとか。
<<
http://aguri.blog.jp/1023307704



■寂しさがり=人間関係の摩擦の中にいたい


寂しさを感じない。
寂しさがあると嘘を付いて相手との摩擦を起こそうとする。
寂しがりではないから、他人には興味ない。
他人と摩擦を起こしたくない。
摩擦は快でも深いでも関係ない。
摩擦が起こっているか中にあることが寂しさを紛らわせる時間。

本当は研究職のようなものが向いているはず。
しかし、そこまでの学力と知識がない。
残念な人生だ。


寂しさを感じないからこそ寂しさ=人との深いつながりが薄い人生になっているのだと思う。

寂しがりだから寂しいのかと思っていた。

2015年2月27日金曜日

子育てにおける男性の最大の使命はお金を稼ぐこと



■夫に稼ぎしか求めない妻は優秀

女性コミュニティを上手に活用できる妻ほど、夫に稼ぎしか求めない気がする。
それ以外の事には寛大でいられる気がする。


夫に子育てを求めるのは妻の女性コミュニティへの帰属が脆弱だからじゃないだろうか。

不自由しない稼ぎを獲得している夫はそれだけで夫と父親の責務を果たしている。
お金に困らなければ、女性は女性同士のコミュニティを活用して子育てを楽しめるはずなんだ。


本来的に、子育てに男性の出番は無い。
父親は象徴でしかない。
生活するための資源を供給してくれる象徴でしかない。
象徴は滅多に実在しなくても構わない。


女性コミュニティへの参加が脆弱な場合、稼ぐこととは真逆の作業を家庭で求められ夫は疲弊していく。
仕事に影響が出る。
家に帰りたくなくなる。

2015年2月26日木曜日

なぜ40代男性と20代女性のカップルの結婚は上手くいくのか

 

■女は男に完成品を、男は女に未完成を


男性には成熟感が求められる。
女性には未成熟感が求められる。

成熟=社会的地位、社会的経験値、立場、お金寛容さ、包容力、などなど
未成熟=若さ、幼さ、素直さ、従順さ、低い経験値、弱さ、などなど。


知能レベルの高い年齢層高めの男性は未完結感のある女性を応援したい。(40代男性)
知能レベル低めの女性は完結感のある(男性)を応援したい。(20代女性)


>>
心理評論家:植木理恵によると

●ももクロのファンは知能レベルが高め

社会性、倫理観、知能レベルが高い男性は、、
今後 伸びそうな(未完結感)子を応援しらくなるモノ
完結感があるモノには知能が低く、若い女性が惹かれやすい
<<
http://honmadekkatv.myblogs.jp/tag/%E6%9C%AA%E5%AE%8C%E7%B5%90%E6%84%9F/



>>
男はプラモデルが好きでさ、女はお人形が好き。 
女は男に完成品を求めるけど、男は女に未完成を求める。
で、女は男が完成するとずっと抱きしめてたくなるけど、男は女が完成すると退屈になる。
<<
http://matome.naver.jp/odai/2139156072949998501

2015年2月21日土曜日

「医学モデル」というアセスメント


明日の記憶という映画がある。
渡辺謙さんが若年性アルツハイマーに罹患しその進行と支える家族(妻- 樋口可南子)の姿を描いた作品だ。

その中のハイライトシーンで渡辺さんが樋口さんを食器で殴るシーンがある。
殴ってしまった渡辺さんは混乱し(自己コントロールを失っている自分に狼狽している感じ)樋口さんは「だいじょうぶだいじょうぶ、あなたのせいじゃない。病気のせいだから」と慰める。

この樋口さんの言動こそが「医学モデル」でありカウンセラーあるいは人間同士の間でも行われるべき「アセスメント」なのだと思う。

確かに妻を殴った最低の夫である。
殴ったのは事実であり、たとえどれだけ口論をしていようとも食器で妻を殴るなど許されない。
しかし、自己コントロールの欠如を渡辺さんの「人間的な欠陥」ではなく「病気を持っている病人として自己コントロールを失っている結果」としてアセスメントすることで、
殴ったのは渡辺さんだとしても、そこに渡辺さんの意思が反映された結果の行動ではないという「医学モデル」が完成されている。
(もちろん、樋口さんの演じる人が医学モデルを知っているかどうかは不明ですが。いや名医のミッチーに教えてもらっているかもしれない)





****


医学モデルとは「病気の症状として不適切な行動を取ってしまったとしても、それはその本人の人間的欠陥ではなく、病気によって操られている」とみることで、
本人の罪悪感や周囲の怒り失望を軽減させる効果がある。

「病を憎んで人を憎まない」
この精神こそが医学モデルを体現しているし”お互い様”の精神があった日本人には定着しやすいのではないだろうか。


ちょっと違うが、小さな子供が公共の場で泣いているとき、特に老人たちは「うるさい、だまれ!」などと叫んでいる場面に遭遇して老人に対して、哀愁が湧いてくることがある。
小さな子どもに大人のような「公共の場では自分の感情をコントロールし迷惑をかけないように行動」できると思っているのだろう?
子どもとは「うるさくて、迷惑など顧みない元気な振る舞いをする存在」というアセスメントをすることができれば多少の不快を感じたとしても、
「だまれ!」などと小さな子どもに対して言い放つことは無いんじゃないかと思う。

「その人にとっての状況を考えれば、たとえ不適切な行動を取ったとしても、それはしかたがないことであって悪意があってやっているわけではないし本人のコントロールが及ばないところで起こっていることなのだ」
というアセスメント。

医学モデルというプロセスのアセスメント、これなしにお金を払う価値のあるカウンセリングなど成り立たないのではないだろうか?と思うのだが現状では、
アセスメントの無いカウンセリングが横行しているような気がしてならない。

虐待を受けたら人間が怖いし自己肯定感は大きく毀損しているだろう。
子育てをしているなかで、言葉が通じない赤ちゃんと正対していれば「殺してしまいたい」と思うことだって、当然あるだろう。

そんな、「自分は人間として欠陥品である」あるいは「社会的には許されない感情だけど盛ってしまった感情」などを「個々人のプロセスから見れば当たり前の事だ」として、感情を肯定していくことで役割の変化を乗り越えていくことをアセスメント型カウンセリングと呼びたい。

人間は、正しい行動をするためにも間違った感情をしっかり発散して肯定してもらっていいんだ。そして、行動は行動で正しいことをしていけばいいんだ。

そんなことを思っています。

2015年2月17日火曜日

女性は愛を拒否されることが許せない



 

 

■「愛を受け取ってもらえて当たり前」は子育てには極めて重要だけど…

 


女性の方が「愛は受け取ってもらえるもの」という感覚(錯覚)が強い気がする。
愛を受け取らなかった相手を悪者にするのは女性の傾向に思える。

これは、赤ちゃんを産み慈しみ育む役割に起因しているのかもしれない。

子どもは子どものうちは与えた愛を100%受け止めてくれる存在だ。



本来的には女性はいつも愛される側だ。
だからこそ、たまーに自分から愛してしまった場合、それが無碍に扱われ否定されることにきわめて強い怒りを覚えてしまうのだと思う。


「この私からの愛を受け取らないってどういう神経なの」くらいに。



子供が愛情を否定しない存在ということにいつまでも甘え、
子どもにいつまでも自分の愛を100%受け取って欲しい受け止めて欲しい。
思春期を邪魔し、大人への自我の成長を阻害する。
これがまさに毒親でしょ。
愛はいつか重くなるんだよ。

2015年2月12日木曜日

チョコレートの質は告白の成功率を左右しない

 



■プレゼントの質で順位があがるのは女性の中だけ


人は、自分の物差しで世界を見ている。


女性は男性からのプレゼントの質で男性を序列する。
だから、男性も(同じ人間なのだから)女性からのプレゼントの質によって女性の序列があがるのではないかと考えてしまう。

しかし、残念ながら、男性にこのルールは概ね適用されない。
なぜなら男性は、女性からのプレゼントの質によって女性の順位が左右されることはないからだ。



女性は男性からのプレゼントの質(主に値段)によってその男性からの愛を計ったり男性の順位付けだったりを行う。
もしかすると、プレゼントの質によって、全く圏外だった男性の順位が急上昇する可能性がある。
圏外から一気に彼氏候補にまで上がる可能性も秘めている。

その意味で、男性から女性へのプレゼントというのは男性にとってそれ以上ないアピールとなる。
「どれだけ与えてくれるか?」で愛を計り順位を付ける女性に対しては有効な戦略だ。


男性はどうか。
プレゼントの質によって女性の順位があがることは、まず無い。


男性の場合、女性から(物質的に)与えられるの大小でその女性への愛に変化は無い。



よって、バレンタインデーのチョコレートの質、値段だとか手作りだとか、そういうものは告白の成功率をアップしてはくれない。


チョコレートを作ることで告白を先延ばしにしている、あるいは、
チョコレートの質が悪かったから、告白が実らなかった、という言い訳を拵えているのではないだろうかとさえ思えてくる。




男性から女性への場合、
10万円の指輪よりも1000万円の指輪の方が成功率が高まるかもしれない。

女性から男性への場合、
10円のチョコでも1000円のチョコでも、成功率は高まらない。

2015年2月4日水曜日

女性は自分の稼ぎを男性に分配することは無い(編集中)



キャリア男はモテるが、キャリア女がモテないのは、男は女や家族のために稼いでるけど、女は自分のために稼いでるから、ある意味、当然なんだよ。キャリア女も男のために稼げばモテる。キャリア女は若い男の子を養って大学院とかに行かせてあげて。 http://www.gentosha.jp/articles/-/2908
https://twitter.com/kazu_fujisawa/status/543253315102855169




■女性が財産を分け与えるのは子どもとペットだけ


女性が自分の財産を分け与えるのは子どもとペットだけ。
女性から分け与えられている男性、それは本質的な意味での男として扱われていない。

ペットか子どもとして扱われている。


未来ある若い男性に投資する女性など居ない。
せいぜい甥っ子。
甥は男として扱わない(場合が多い)。

高給キャリア独身女性のペット率の高さもその証左だ。
男が面倒なのではなく、貧乏な男を養う自分が許せないし、そもそも本能的にそのようなプログラムが女性には組み込まれていないのだろう。


旧石器時代。
メスはオスからの食糧を巣で待っていた。
オスから与えら生きてきた。
子どもも育てた。

オスに与えることは無かった。
その習性は現代になっても色濃く残っている。

女性が働き男性と遜色のない月給を手に入れたとしても、オスに分配するような機能は組み込まれていない。
もし男性に分配、つまり養うような関係があるとしたらそれはその男性は男として扱われていない
子供かペットと同じ地位の扱いだ。


もちろん、愛には色々な形があり、ペットへの愛情も愛情と言えば愛情だ。

格差結婚が成り立つ殆どが男性がお金持ちで女性が貧乏。
これが逆は人間的にも動物的にも本質的にありえない。

女性のお金持ちと貧乏の男性では
女性は男性を動物的な意味で愛することは出来ない。
人間的な愛、というのはあるのかもしれないが。

そして、このケースの場合、男性のほうも女性を愛せないだろう。
女性に養ってもらうことに葛藤を何も無く生活できている人はごく稀のように思う。

与えることの出来ない男性(オス)は自分の存在に怒りさえ覚えるだろう。



専業主夫というのはたしかに存在する。
が、その夫は妻から男として扱われていない。
男性として扱う必要はあるにしても、夫を男として見る必要が在るのかどうかという議論もあるが。



女性メスは与えられる生き物。
与えれてくれる相手だけを本質的に男(オス)として認識する。

女性から与える相手、与えたくなる相手、
そこには子どもやペットに対するある種の弱者に対する配慮が根本にある。

人間的な愛でその男性を愛せるのかもしれないが、
本質的にはその男性を愛してはいないだろう。







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藤沢 人間の脳は、旧石器時代までにほぼ完全にいまのような形、機能になり、それ以来、ほとんど進化していません。旧石器時代は、数十人単位の集団で狩猟採集生活をしており、そうした環境に人間の脳は適応しています。
https://cakes.mu/posts/7291



藤沢?東京で、少子化が進んでいるのは、社会性動物の分業体制だという話もあります。ミツバチの世界では、働き蜂はメスで、巣を守るために一生独身で闘うわけです。今の日本社会も、高学歴の女性が東京でたくさん働いて税金を納め、田舎のヤンキーみたいな人たちの子供を養うっていう社会なんですよね。東京なんて出生率1を切ってて、日本でいちばん低い。田舎のヤンキー夫婦は子供をたくさん作り、東京の人たちは必死こいて働いているんですよね。恋愛って動物でもしていることだから、逆にあまり学校で勉強していない人の方が得意だったりしますよね。
はあちゅう?高学歴のプライド高い女性たちも、どこかでやっぱり子供を産まなきゃっていう気持ちはあると思いますよ。アメリカのトップにいる女性は、子育てと仕事の両立がある種のステータスというか、ブランディングになっているし、「仕事だけに生きよう」って割り切れる人はほぼいないんじゃないでしょうか。
http://www.gentosha.jp/articles/-/2908









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藤沢数希ツイート集☆ @Fujisawa_bot 
  ・   1月18日   
日本は「将来安泰」の一神教で、その三行が学歴、正社員、結婚です。これらをこなすためにみんな超必死。この三行を直接的又は間接的に脅かす発言や行動は必ず炎上するのです。“@kazu_fujisawa: 学歴、会社、結婚。これが日本の三大宗教です。”

https://twitter.com/Fujisawa_bot


藤沢数希ツイート集☆ @Fujisawa_bot 
  ・   1月8日   
浮気ばっかりして、家にあんまり帰らないけど、お金だけはしっかり入れてくれる男は、世の中の97%の男たちより優れている。決して手放してはいけない。ほとんどの男は家事もせず金も稼げず、少ない金を風俗で散財。残念ながら、僕の言ってることが正しかったことが分かるのは、手遅れになった後だ。


Kazuki Fujisawa @kazu_fujisawa 
  ・   1月31日   
家事は外注、飯は外食、職場には歩いていける距離に住む。これが高度に発達した市場経済では基本。


Kazuki Fujisawa @kazu_fujisawa 
  ・   1月31日   
月に2万もあれば家事は外注できると言ったら全国からそんなのは無理だという感情的な非難が寄せられた。いや、できるから。あと、もうひとつバラすと、毎日深夜まで残業したり、会社に泊まるサラリーマンとか医者なんていねーよ。浮気してるんだよ。


Kazuki Fujisawa @kazu_fujisawa 
  ・   1月29日   
むしろ、いま一番苦しいのは有名大卒とか院卒の下位層だよ。誰でもできる仕事はむしろ増えてるけど、そういう簡単な仕事や、頭使わない接客業で、高学歴の人は雇えないんだよ。Overqualificationなのよ。

Kazuki Fujisawa @kazu_fujisawa 
  ・   1月14日   
僕の仮説は、日本の大学受験システムは、低賃金の仕事をする人たちのレベルを上げる、だ。全員参加できるから、下層の学力はかなり上がる。さらに模試で数字で結果が出るから、自分ができないことがわかるので「身の程」を知る。だから素直で従順な労働者を大量に作れる。従順こそが最も大切な資質。

Kazuki Fujisawa @kazu_fujisawa 
  ・   12月25日   
脳のワーキングメモリは限られているから、不必要な科目を勉強すると、専門分野の能力は確実に落ちる。たくさんの科目を勉強させたいのは、教員の雇用対策で、それ以上でもそれ以下でもない。

2015年2月3日火曜日

貧乏な男性が原発に反対する意味がまったくわからない件



■女性(メス)は外の世界を知る必要がなかった



女性と富裕層が原発反対なのは理解できる。

しかし、それ以外の、お金持ちじゃない男性が原発に反対するのはなぜなのだろうか。
日常の豊かさを求めないのだろうか。


旧石器時代。
女性は巣で子どもと自分の安全を守っていた。

その場から動かない。
動かないで安全を守ろうとしたら、外の世界で少しでも危ない何かが起きている時に拒絶反射が起こるのは当然だろう。
そして食糧はほぼ男性の狩猟に頼っていた。
外の世界がどのようにして回っていて、どのようにして自分達の生活の糧を得るかということについて考えることが出来ない。
いや、考える必要が無い。

生活の糧(主に食糧)は男性が勝手に持って帰ってきて分け与えてくれる。
女性は巣を守り子供を守るのが仕事。
巣の中が女性の社会。
外の世界という意味の社会で糧を得るための仕組みやサイクルなど本質的には理解できないのだと推測できる。


そう考えると、主に経済的な理由としての原発推進は女性にとっては意味のないものになる。
むしろ、たただた身に振りかかる危険が増えるように感じてしまう。



お金持ちも原発が止まることより光熱費があがることなど生活に何の支障も無い。
だからこれも原発を危険なものとして扱う割合が増えることも理解が出来る。





問題は、裕福でない男性だ。
お金持ちしか冬にエアコンが使えなくなってもいいのか。

下っ端の仕事が光熱費の高い日本からなくなったら、仕事なくなっちゃうよ。

下っ端=能力が無くても誰にでもできる仕事。
知識や技術の下積みが浅くても働くことが出来る。

こういう社会的弱者が働ける場所が無くなったら、どうするのだろう?
エアコンが贅沢品になってしまっても良いのだろうか。

安全というのは少しのお金でも寒さ飢えをしのげる生活が通津湖となのではないのだろうか。


社会的弱者でもせめて最低限度をちょっと越えた生活を維持したいと思わないのか。





社会的強者にならない限り、男性は原発に反対すべきではないと思う。

男性の役割は富を得ること。
それ以外に、存在価値なんて無いんだから。

2015年1月28日水曜日

子どもの承認欲求は誰が満たすのか。(編集中)


 


■SNS台頭で大人の承認欲求が終わらない


承認欲求の時代。
SNSによって人々の承認欲求がひらっきぱ無しの時代。

大人たちもひらっきぱなし。
本来、承認してあげる側にあるはずの大人たち。
大人たちが承認を求め続ける。

そうなると、子どもは誰に承認してもらうのだろう。
成長という意味において大人より自己を形成する段階にある子ども達にこそ承認は必要だろう。


承認欲求というのは大人になる段階である程度隠しながら、ここまではやってきたのだと思う。
解放する機会がなかったから隠すことが出来ていた部分は大きいだろう。

しかし、いま、大人たちはSNSという機会を得て承認欲求を隠せなくなっている。


 

 

■成功の必要のない承認が子どもには必要だ。



子どもに必要な承認欲求はありふれた承認だ。

何も世間にインパクトのあるようなものでなくて良い。
ほんのささいなお風呂掃除をしたとか友達に順番を譲ったとか、ほんの小さなことでも承認してもらい心を形成していく。
何千ものリツイートやフォロワーは必要ない。


その小さな承認は、ごく身近な大人たちが与えるべきである。

しかし、与える側のおとなたちが止められない承認欲求を抱き続け、求め続ける。
渇いている人が渇きを癒すことは難しい。
それを求め続ける大人は子どもにそれを与えられない。

子どもの方が本来的にそれを切実に求めていて必要にしている。

身近な大人がそれを与えなかったら子どもの欲求はどこに行き、どういう形で昇華しようとするのか。

世間的に承認されるようなことを遂げられる子は良い。
SNSがその子のそれを承認してくれるだろう。
ただ、ここで述べているのは普通の子が普通に承認される機会についてだ。


大人たちが渇きを抱き続ける時代に子どもの承認欲求は誰が満たすのか。
そして満たされなかった場合に、それをどういう形で満たそうとするのか。
この当たりに若者による現代的刑事事件の発生が起因しているように思えてならない。





SNSの渇きはSNS含むネットが埋めてくれる、と楽観することも出来る。
LINE、ツイキャス、ニコニコ生放送などなどが承認を得る場になりえる。
が、ここで得るためには、ある種の才能が必要だ。
誰しもが承認を得られる場ではない。





うまく結論までまとまらない。




SNS時代は多くの人に「承認の渇き」を提供している。

競争は世界を豊かにしてきたが、承認を得るための競争は豊かさを生むだろうか。
能力への承認ではなく、ごく小さな何気ないこと。
幼少期~少年期に誰しもが必要な承認がSNSによって奪われているような気がしてならない。



SNS時代台頭においておきていること。
承認されるような業績を追い求め続ける大人たち。

そして、大人たち成功が必要な承認を求め続ける結果、
成功の必要が無い承認すなわち子どもたちが子ども時代に当たり前に受け取るべき承認がどんどんか細くなり続けているのではないか。
そんな懸念を結語にす。


大人が欲しがり続ける社会なんて豊かなはずが無いよね。

2015年1月15日木曜日

フェミニストに美人は居ない




 

 

■女性専用車両のあの人たちは女性性を憎んでいる。



女性性を上手く活用すれば社会で生きやすくなる。
自分が女性であった場合、有効に使うチャンスがある。

しかし、何らかの理由で有効活用できていない過去・現状がある。

有効活用できない自分に気づかないように、女性性そのものに怒りが向けられる。

怒りは自分よりも女性性に向けたほうが心は守られる。

 女性性を上手に使っている人をみると怒りが湧く。

私にだって微笑んで欲しかったのに…と。






フェミニズムの本質は、
女性性を上手に使えない人たちから上手に使っている人たちへの嫉妬だ。


「私は特にどこでもいいです」側に渡れなかった人たちの恨みと嫉妬。


大人は嫉妬している自分に気づきたくない。
嫉妬をフェミニズムという活動の蓑を被り今日も嫉妬が続いていく。