2014年2月21日金曜日

メンヘラちゃんの心の器




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■感情を溜めておくべき心が育っていない 


メンヘラちゃんは心が小さい。
だから一度、感情が溢れ出したら止められずに感情の通りに行動してしまう。

理性がないわけではない。
ただ、感情を溜めておける器(=心)が色々な理由によって育たなかった。
それゆえにたとえ、普通の人と同等の感情をせき止めてくれる武器(=理性)を持っていたとしても、器自体が小さいので、理性という防波堤を軽々と突破してしまう。

対処法としては時間にませる。
つまり、本人のダメージ処理能力があがるのをただただ待つしかない。

なぜなら、心という器は、10歳を過ぎたらもう大きくならないから。


感情を溜めおく場所(=心)が大きくならないのならば、感情がわきあがるのを穏やかにしてもらうしかない。つまり、ダメージ処理能力の向上によって負の感情が生まれてくるのを軽減してもらう。

そういう意味でも、身近なメンヘラちゃんと付き合っていくには忍耐力が必要。






心は感情を溜めておく器のようなもの。
メンヘラちゃんは心の器が育っていない。
だから、心に溜めて置ける感情分が少ないから、あふれ出すのが常人より早いし、早いから衝動的に行動してしまう。


理性は溢れ出しそうになる感情を制御してくれるかもしれないけれど、
溢れ出したものを戻してはくれない、と思います。

2014年2月15日土曜日

優しさで満たされた時、子どもから大人へ


 


■「両親から受け損ねた優しさ」が”重たさ”を産む



「優しくされたい」って、なんなんだろうねー。


そんなものが与えられるのを、いつまで待つんですか、と。
来ないバスを待っていませんか、と思ってしまう。



そもそも、20歳を越えて、大切に思う人に「優しくしてあげたい」という能動的な方向に気持ちが動かないのが理解できない。
いつまで両親に与えて欲しかったものを、両親じゃない人に求めるんですかと。





いつから優しく「されたい」と思っていたんですか。
小さい頃じゃないですか?


それがずっと満たされてこなかったから、他の人より優しく扱われたい願望が強烈で他人である恋人に非現実的な優しさ(まるで親が子どもを愛でるときの無償の優しさのようなもの)を求めてしまった、二人とも幸せになれていないんじゃないですか。










人間は心が満たされれば、能動的に人と関わって行こうと思える。能動的とは何かを与えるってこと。
何かを人に与えたいと思った時に大人の仲間入りが出来る。

子供のとき人間は極めて受動的だ。子供の時はただただ愛して欲しいと願う。自然なことだ。

じゃあ、子どもはいつ大人になるのか。
いつ、受動的に愛を受け取る側から愛を与える側にいけるのか。

それは愛で心が見たされれた時。
優しさをたくさん受け取ったとき。抽象的な言い方で言えば愛と優しさが心を満たし、育てる。

愛で満たされた段階で人は誰かに愛と優しさを与えたくなる。
愛をねだる子どもから、愛を与える大人へと成長する。

逆に言えば、人の心はやさしさで満たされない限り、大人に成長できない。
優しさで満たされなければ、いつまでも子どものままで、優しさや愛を求め続ける。
しかしながら、両親以外の人間は他人なので貴方に無償の愛を注ぎ続けることは出来ない。
結果、いつまでも誰かからの非現実的な優しさを求め続ける。
受け取る喜びも与える喜びも分からない、子どもでもない大人でもない何かになってしまう。








子どもと親で言えば、子どもは愛を受け取る存在で親は愛を与えるだけ関係は成り立つ。
しかし他人同士ではどちらかが受け取るだけ、どちらかが与えるだけの関係なんて成り立たない。



もしも、20を過ぎて、ただただ愛して欲しいと渇望する側の子どもだった場合、その人は虐待やイジメ、あるいは愛を与えられない子どもに育てられた人なのかもしれない。




そうであるならば、あなたに必要なのは誰かに優しさを注がれるのを待つのではなく過去を見つめなす作業、たとえばカウンセリングに通うなどをするしかない。
過去を整理しなければ、易しさで心が満たされる快感を味わうことは永遠に出来なくなってしまうから。

2014年2月12日水曜日

「メダル獲得は日本人として誇らしい」への違和感




他人の功績で自分が高まった気分になれないのは悲しい性分なのかもしれない。





■あなたは何も成し遂げていない!


なぜ、他人の実績で自分が高まったように喜べるのか。
国際的なスポーツ大会やワールドカップ、あるいは甲子園なんかの時期に、いつも思ってしまうこと。



誰かを応援したくなる気持ちは分かる。
その人が活躍すればこちらも嬉しくなる気持ちも分かる。

ただ、その人が活躍したからって応援している側の人間は何も成し遂げていないはず。
それなのに、なにか、自分自身さえ何か実績を残しているかのように騒げる人たちが羨ましくもあり蔑んでみたしまう部分もある。


もっと、自分自身に帰属した事柄で充足感を感じればいいのにと思ってしまう。



日本人だから、出身校が一緒だから、地元が一緒だから、移籍する前に地元チームに在籍していたから…
そういう人たちが実績を上げれば、なんとなく親近感を持って応援したくなる気持ちまでは理解できるが、
その人たちの実績に応援する側の人たちがプライドみたいなものを預けてみても、応援する側の人間は何も成し遂げていない。

そういう偽物の達成感に自分自身を預けている限り、永遠に誰かの実績に乗っかってしか自分を満たすことが出来なくなってしまっていて、
そういう意味でスポーツが生活に欠かせないものになっているとしたら、何て悲しいことなのだろうと思ってしまう。

2014年2月6日木曜日

なぜ薄毛の男性老人は週2で床屋に行くのか



○要諦

ずっと前から疑問だったこと。
開店前の床屋に髪の無い男性老人が列を成している風景。

このことについて漠然と考察していて、昨日、合点がいった。


要するに老人達は触れ合いを求めているのだと



 




■寂しさを悟られない方法で人肌を求める孤独老人




床屋は…

自分は寂しいのだという事を相手に悟られずに、
コミュニケーション能力がなくても、
夜のお店なんかよりも格段に安価で、

触れ合いを得られる場所なのだと思った。







ある病院の医師から「おじいちゃん、おばあちゃんは触れられに来るんだよ」
という話を聞いた。
高齢になると人に触れられるという経験が減るのだそうだ。
(収監~僕が変えたかった近未来~ 堀江貴文 朝日新聞出版)







 癒されたかったら美容師ごっこがオススメ!? (印象・重田)
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   女性が男性にされたい行為⇒頭をポンポン
   鏡越しに自分は構われてる⇒凄く癒される
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http://shinzui.blog75.fc2.com/blog-entry-642.html











男性老人が床屋に行く理由、女性老人が病院に行く理由の共通点は「触れ合い」。
金銭的なコストパフォーマンスは悪くないし触れ合いを得られる。


そして健康な女性老人がこぞって病院に通っていることも保険診察と言う触れ合いを求めているのだろうとも思った。
(待合室という井戸端会議という意味もかなり含まれていると思うが)





もう少し、老人達が心のケアをし合えるような関係になったり場所を提供したりしないと床屋は売り上げがあがるからいいけど病院は税金が投入されているのだから、
老人の心の貧しさをケアするために税金を投入し続けるのは馬鹿馬鹿しすぎる。




床屋は週2で3000円。
診察は週2で1500円(再診料だけで済む場合もあるし高齢者なら1割だから500円で済むかもね)