2013年8月29日木曜日

「孤独力」で”ひとりがつらい”が楽になる 水島広子 さくら舎





♪ここにあなたがいないのが悲しいのではなくて、ここにあなたがいないと思うことが悲しい

「あなたと居ると素晴らしい人生だと感じることが出来る」は正しいが同時に、
「あなたが(現実の存在としてココに)いないと最悪の人生になってしまう」というのは正しい生き方とはいえないような気がします。










 

◇はじめにーー「ひとりでいること」が不安なあなたへ


「ひとりでいると、寂しい人だと思われるのではないか」「性格的に問題がある人だと思われるのではないか」という思いから、本当はあまり好きではない人とでも一緒に行動してしまい、行きたくないところに行かされたり、つまらない思いをしたり傷つけられたりする、ということもあります。


つまり、「ひとりにならないこと」を中心に生きてしまうと、いろいろな犠牲を払わなければならなくなるのです。


「つながっている人の数が少ないと恥ずかしい」と感じる人は少なくありません。
ネット上でつながっている人の数が、本人の魅力や人気、どれほど他人から関心を抱かれ必要とされているかを示すように思われてしまうからです。
そのため、つい必死になって「つながっている人の数」を増やす努力をしてしまいがちになるのです。
そのために払う時間的・精神的犠牲も、また大きなものです。

本文で詳しくお話ししますが、そうやって「目に見える『つながり』(一緒に行動できる相手がいる、つながっている人の数が多い)」にとらわれることは、人生を豊かなものにするどころか空虚で不安定なものにしてしまいます。
本書では、「目に見える『つながり』」を必要としないで生きている力、「孤独力」についてもお話していきますが、それは「ありのままの自分と一緒に居られる力」と言っても良いのです。









 


◇2章 孤独を感じたら、与えよう





■孤独を「何か」で満たそうとしても、「もっと、もっと」になってしまう

何かと「つながっている」という感覚を持つとき、自分の心が開いているときです。
開いた心しか、つながりを感じられません。
つまり、孤独を感じているとき、私達の心は閉じているのです。
特に「自分はどう見られているだろうか」と思うとき、心は警戒感を持って閉じています。
心を開き、つながりを得るためのコツは、何かをするときに、「自分はここから何を得られるか」に目を向けるのではなく、
「自分は何を与えることができるか」に目を向けることです。
私達は、何かが得られないから孤独なのだと感じ、「何か」を求めようとします。
しかし、「何か」で孤独を満たそうとすると、余計に孤独になることが多いものです。
物理的には人と一緒にいても、ありのままの自分が「つながっている」という感覚を持てないと余計に孤独になる、ということを前章でお話しました。
人から認められたり愛されたりすれば孤独でなくなるはず、と多くの人が考えますが、そのために自分を「作って」しまうと、結局は満たされないのです。
それよりも、「本当の自分を知られたら嫌われてしまう」という恐れが芽生えてしまい、常に緊張するようなことにもなってしまいます。





■「何か」に依存していく心は、罪悪感や「自分嫌い」を膨らませるだけ

人以外にも、孤独を紛らわすために、私達はさまざまな「何か」を求めるものです。
食べ物、アルコール、買い物、仕事、などなど。
これらは、維持知的に寂しさを麻痺させてくれるものの、決して安心を提供してくれることはありません。
孤独感の本質的な解決などにはならないのです。
そういう「何か」で孤独が満たされるのかというと、そんな事はないのです。

せいぜいが、「一時的に自分の孤独感を麻痺させる」というくらいで、
本質的な解決にはなりません。
なぜかというと、「何か」が手に入っても、ありのままの自分が「つながっている」という感覚を持てない限り、孤独は続くからです。
そして「もっと、もっと」となっていきます。

孤独はありのままの自分が「つながっている感覚」を持たない限り解消されません。
「何か」に依存している場合には、さらにお金を遣ってしまった太ってしまった、また飲みすぎてしまった、と罪悪感を抱え込むことになります。
そしてそれらの結果、ありのままの自分をより否定する(自分を嫌いになる)ことになってしまい、孤独感はかえって募って感じられる、ということも多いものです。



■「何を得られるか」ではなく「何を与えられるか」

孤独を感じたら、何かを得ようとするよりも、与えることを考えたほうがよい、ということになります。










 

◇おわりにーー「孤独力」を基盤にして、よい人間関係を作ろう


心を開いてつながることのできるよい人間関係をもっている人はストレスに強いですし、孤独感の強い人は、ストレスに耐えることがそれだけ難しくなります。

「孤独力」は、良い人間関係を作る基盤となります。
なぜかというと、「ひとりになりたくないから」という動機がなくなるからです。
「人生を豊かにしてくれる人」は、やはり「孤独力」の高い人になるでhそう。
ただベタベタと依存して群れるのではなく、きちんと相手のことを尊重して、必要があれば共に行動してくれる人であるはずでうs。
「ひとりでいるのも楽しい、一緒に居るのも楽しい」という、自立に基づいた共生の姿勢が、これからますます必要になるのだと思います。

2013年8月25日日曜日

人間として当たり前の感覚を取り戻す(育てなおす)






◇失わされた自己感覚(ある意味で自分)を取り戻して人間としての当たり前を取り戻す



暴力を長い間受け続けてきた母子は、つらさに耐えるために、
自分の身体の感覚や感情を鈍くして身を守る傾向にある。
子どもは、抑えつけた悲しみや怒りを、他者への暴力の形で表現することも少なくない。
マインドフルネスで「今ここにある」感情や感覚に気づき、言葉で表現できれば、抑圧してきた心が徐々に解放される。
同時に物事に冷静に対処する力が少しずつ身についてくる。

(2012年8月22日 読売新聞 医療ルネサンス、より抜粋)

















ーー症例 梅野さんの場合




大手企業で受付をしている梅野さんはいつもにこにこしている美人でした。
当然、色々な人からデートに誘われました。

普段はにこにこして「困ります」などと断っていましたが
「デートをしてくれないと自殺する」と強く迫ってきた人のことは断りきれず、デートをすることになりました。
その彼は万事を自分のペースで運びたがり、梅野さんが少しでも応じないそぶりを見せると本当に恐ろしい怒り方をしました。
それでも、梅野さんは
ずるずると彼から言われるがままに交際をすることになりました。
付き合うようになると
ますます彼の一方的なところはエスカレートし
梅野さんを「ブス、頭が悪いんじゃないか」などと言葉で虐待することも
多かったですし、時には暴力を振ることもありました。
それでも梅野さんは彼と別れずに関係を続けていました。




****



客観的に見れば大企業の受付をしていて
にこにこした美人である梅野さんが男性関係に困ることなどは
まず考えられず
なぜ、こんな相手との交際をやめられないのだろうか、
ということは不思議だと思います。
しかし、子ども時代に虐待を受けている梅野さんにとって
「別れたら自殺する」と言ってくれる彼は
唯一の確かな存在と感じられるのです。
そもそも、梅野さんがいつもニコニコしていることもそんなトラウマを反映しています。
一人でいるときにはむしろ暗く沈んでいることが多いです。


人といる時にも決して明るい気持ちでニコニコしているわけではありません。
梅野さんは常に「周りの顔色」を指標にして生きてきました。
周りの顔色をうかがうことが、梅野さんの知っている唯一の「安全に生きる道」だったのです。

相手の機嫌がよいことが、唯一の「望ましい結果」でした。
ですから、自分がどう感じているのかが分からなくなることが多かったのです。
そして、そんな空虚な自分を見破られるのも不安で、ますますニコニコするということになりました。


彼が一方的なペースを押し付けてきたときに
そのまま巻き込まれたのも梅野さんに「自分」というものがなかったからです。
相手に合わせるということばかりを続けてきた梅野さんは
自分にとって有害だという事を感じる力もそこから自分を守る力も育てることができなったのです
そして、結果として自分を傷つける相手との関係に巻き込まれ、
トラウマ体験をする、ということになっていきます。

相手に合わせてばかりいる梅野さんの場合、
明確に脅威を排除しようとしている桜さんのような人とは異なり
「脅威のセンサー」は働いていないようにも見せますが実際は違います。


「相手に合わせる」という行動は「脅威のセンサー」が働いた結果としての自己防衛策だからです。
そして、「脅威のセンサー」が過敏に働いているのは梅野さんの場合も同じです。


梅野さんの場合はどんな相手に対してもニコニコしていますが
実際にはニコニコしていなくても大丈夫な、
危険ではない相手はたくさん居るはずです。
しかし、あらゆる人に「脅威のセンサー」が作動してしまうので
結果としてはいつもニコニコする、ということになってしまうのです。
桜さんのケースは「脅威のセンサー」が働くと「正当防衛」としての攻撃をする例で
梅野さんの場合は「脅威のセンサー」が働くと
 やはり防衛として相手に合わせる例です。
これらのパターンは人によって完全に分けられるわけではなく1人の人に、
桜さんのようなパターンと梅野さんのようなパターンが混在していることの方が多いものです。








■「相手の問題」と「自分の問題」の区別がつかない



梅野さんもそうなのですが、対人トラウマを持つ人の場合、
「誰の問題か」という境界線が上手く引けない人が多いです。
特に梅野さんのように子ども時代に虐待を受けている場合、本来は100%大人側の問題であるはずのことを、かなりの程度自分の問題のように思っていることが多いものです。

「自分を虐待した大人が異常だっただけで、自分には何ら問題がない」と割り切れる人はなかなかいないでしょう。
そして、虐待者も、「お前が俺を怒らせたのだ」「どうしてお母さんをイライラさせるの」などと、
あたかもそれが子ども側の問題であるかのようにいうことが多いのです。
性的虐待という悲惨なケースであっても、子供が誘ったなどということを平気で言う人がいるのが現実です。


梅野さんは相手の顔色を読むことで今まで生き延びてきたわけですが
これはまさに相手の問題を相手の問題を自分の問題として
引き受けているということです。
境界線がきちんと引けている人たちは
顔色を読まれることを不快に感じるものです。
いちいち自分の顔色を読まれて相手が反応する、ということそのものが
重苦しい束縛感をもたらすのです
何と言っても「読まれること」は正確ではない場合が多いからです。

ところが、梅野さんの恋人のように
自分の問題を相手が引き受けるのが当たり前だと思っている人は
梅野さんのような人と相性がよくなってしまいます。
梅野さんの恋人は
まず「デートをしてくれなければ自殺する」と言っていますが
これは明らかに境界線を踏み外した言い方です。
デートをしてもらえなければ哀しいものですが
 そのうえで自殺するかどうかを決めるのは自分の問題です。
「デートをしてくれなければ自殺する」と言っている時点で
自分の領域のことにまで梅野さんに責任を取らせようとしているのです。

付き合い始めてからの彼が梅野さんを虐待するのは
自分の機嫌の悪さが梅野さんの責任だと思うからです。



本来は自分の問題として考えて改善策(梅野さんに協力してもらうことを含めて)を
検討すべきなのですが「そもそも自分の機嫌を損ねた」梅野さんが何とかすべきだと感じているのです。


いかにも境界線を逸脱したものの考え方です。



境界線の問題は「相手の問題を引き受けている」という形だけではありません。
自分の領域なのに相手に踏み込ませてしまう、という形でも起こってきます。

トラウマの結果として「自分への信頼感」がない人は
「自分はこうしたいから」「自分はこう感じるから」と
自分の領域を守ることが出来なくなってしまいます。

梅野さんも「ぶす」などと言われて本当は不快なのですが
「私は不快だ」とはっきり思ったり言ったりすることができないのです。



勇気を出して「ブスなんて言われると哀しくなっちゃう」と控えめに
言ったことはあるのですが相手から「それくらいの事で気にするなんて、人間が小さいよ」と言われ
相手の言っていることのほうが正しいような気になってしまいました。


本当は「ブスと言われると不快だ」ということは
相手からとやかく言われる筋合いのない、尊重されるべき自分の感じ方です。
 相手が何と言おうと自分がそう感じたことは事実だからです。

そこに相手が「不適切な感じ方」と土足で踏み込むことを
許してしまうところも、境界線の問題だと言えます。


他人の感じ方は自分の感じ方とは違う、ということが事実上分からなくなっている人も居ます。
当事者は何とも思っていないような出来事でも
自分がひどいと思うのであれば
「あんな目に遭うなんて本当にかわいそう」と感情移入してしまうのです。















ーー治療


梅野さんの治療はまず、自分にとって不快を感じられるようになることからはじめました。
ずっと人の顔色をうかがって生きてきた梅野さんには
「自分はどう感じるか」という視点が決定的に欠けていました。
「こういうことは、ふつう、不愉快に感じるものだ」
「こういうことをされたら怒りを感じてよい」ということを伝えながら
梅野さんの気持ちを少しずつ育てていきました。

梅野さんは
感情的な負荷がかかると解離しやすい傾向にありました。
本来は動揺するような状況でも解離する結果として「たいしたことはない」という捉え方になってしまうのです。


そういうところも
「これだけの扱いを受けたのだから、感情的にはかなりの負荷がかかっているはず。
 それなのに大した事はない、と捉えている事自体が解離症状かも知れない」という
見方をすることによって
本人も、だんだんと自分の症状に気づいていきました。



特に彼がひどいことをしたときには
「それは本当にひどいことだ」という認識を共有することによって
少しずつ「彼から離れる」という選択肢を考えるようになりました。
また、「そうやって彼を見捨ててしまったらかわいそうだ」という感じ方も
強かったのですが、それも
「本来は彼自身が引き受けるべき問題。
 梅野さんはこうして治療の中で少しずつ自分の回復と成長を感じているのだから
 彼もいずれ自分の問題をそういう形で扱えると良いと思う」
という認識をだんだんと共有していきました。
梅野さんは

「たしかに、私が何でもいう事を聴くことによって彼は自分の問題を見ないで済んでいるのかもしれない」
ということに気づいてきました。


彼と別れることは一筋縄でいかず
何度も進んだり戻ったりをしましたが
その中で、梅野さんはだんだんと自分の感じ方が分かるようになり、
また、彼との関係の限界にも気づくようになってきました。
そして、少しずつ「彼と別れた後の将来」について
希望も感じられるようになってきたのです。





*****






梅野さんのようなケースの治療にはそれなりに長い時間が必要となります。
小さい頃から一度も「自分への信頼感」をもたれたことが無く
それを「取り戻す」というよりも「初めて育てる」という形になるからです。

時間は長くかかりますが基本的な考え方は同じです。
自分の感じ方を大切にすること、
それを指標にして自分にとって少しでも快適な環境を作ること、
助けてもらえる人を見つけて助けてもらうこと、
トラウマが自分にどのような影響を与えているのかを知ること
トラウマ症状を認識し
症状との折り合い方を学ぶこと、
自分のトラウマを悪化させるような人たちからは距離をとること、などと
こつこつと続けていく中で梅野さんほどの生涯にわたる問題でも
着実に前進していくものです。
人を信頼するなど
本来は発達上ふさわしい年齢で達成しておくべきであった課題でも
後から取り組むことは可能です。
ただし、そのような課題を共有できる人(治療者など)は必要だと思います。
「自分への信頼感」が全くない、という状態では
「この人はきちんと成長できる」ということを信じている人が
近くにいないと
なかなか前進する力を得ることが出来ないからです。
だんだんと「自分への信頼感」を取り戻していけば
自分でも自分の力と可能性を
感じられるようになってくるものです。

2013年8月18日日曜日

「怒っている人」に対する恐れ、についての考察









○M子さんの主張「怒っている男性が怖い」についてのプチチャット



 女の人が怒っているのは、まあまあ大丈夫なの??



M子:こわいけど・・なんとなく男のほうが・・・


 そっかーお父さんが怖い人なのかな?きっと


M子:そうでもないけど..小さい時から激しい夫婦喧嘩沢山聞いてきたからなんとなく怒られるの怖くなっちゃたかな


 そうなんだ。それだと機嫌が悪い人が怖いってのはなんとなくわかるかも


M子:でも男が不機嫌だと何か怖いじゃん・・


 うーん、確かに嫌なんだけど「怖い」っていうのは、あんまりいないと思うんだよね
「なにあいつ、勝手にキレてるの?バカじゃないの」っていうくらいなのが普通だと思うんだけど「怖い」って感じるのはちょっとトラウマっぽいよね



M子:ゲームして悔しいから「あーもう!!!」みたいなこというやん?それだけでも無理(´・ω・`)男で普段怒らない人が言うと特に・・


 そっかそっか。自分が怒られていないし自分が怒らせたわけでもないけど、怖いんだね。


M子: うん。


 それは辛いね。
 いつかはカウンセリングみたいなのに通えるといいね


M子 通話とかでしらない人で怒ってても無理\(>_<)/


 そっかそっか、だから通話苦手なんだね





*****








子どもは客観性を持たない。


世界が自分を中心に廻っていると疑いもしない。
大人になれば何にでもなれると思っているし
家まで石を蹴って帰る事ができれば、素晴らしい出来事が起こると信じている。

客観性を持たない、それゆえに幸せなのである。

私達が大人になっていくにつれ人生が辛くなっていくのが客観性が嫌でも身につくからである。
そして、現実(大人のルール)を学び、生きていかなければならない。
逆に言えば、客観性(≒大人のルール)を知ることもなく縛られることもないから子ども時代というのはとても幸せな時代なのである。


しかし、客観性がないゆえに悲劇もある。
身の回りの出来事を全て自分が主人公であると思って受け止めてしまうことだ。


子どもは全ての出来事の中心に自分がいると信じている。
心理学的には自己関連付けと呼ばれるものである。


客観性がないから身の回りで起こることすべてに自己関連付けをしてしまう。
たとえば、「お父さんがリストラされたのは僕が歯を磨かなかったからだ!」
「お母さんが事故にあったのは僕が良い子にしてなかったからだ」
などなど、子どもの全く関与しようが無い場所で起こったことも全て自分にひきつけて考えてしまう。
そうすると、どうなるか。
上記を例にとれば、両親がケンカをしているときに、
大人だったら、「何か揉め事があってケンカしているんだろうな、私は関係ない。うるさいけど終わるまで待とう」と思うことが出来る。

しかし子どもはすべて自分に関連付けて世界を捉えるので、この場合「私がいい子にしていないから二人はケンカしてるのかな?私の事嫌いだからケンカしているのかな」というな受け止め方をしてしまう。
これが夫婦ゲンカが子どもに悪影響を与えるといわれるゆえんであると思う。


愛するお父さんお母さんが仲が悪いということだけでも子どもの心には大きなショックであるのと同時に、
子どもとは全く関係の無い原因でケンカしていることでさえも子どもは「私が悪いんだ」と受け止めてしまうのである。




これは何も夫婦ゲンカだけではない。
両親の家庭内別居、アルコール依存の両親を持つ、病気持ちの両親、などというときも、
子どもに落ち度はないのに家庭内の空気が悪かったり、子どもとしての甘えたい気持ちを受け止めてもらえない状況において、
子どもは「大人側に余裕がないから仕方ない」などと捉えることはできず「私が悪い子だから、両親は仲が悪かったり、愛してもらえないんだ」と捉えてしまう。

下手をすれば、お父さんが機嫌が悪いまま帰宅してなんとなく不機嫌だとすると子どもは「私、何かパパを起こらせることしたかな?」と、すっごい不安になるものである。
あるいは、病気の両親がいた場合にも「病気だから子どもに愛情を与えてあげる余裕がないんだな」などと大人な見方はできず、
「私が悪い子だから、愛してもらえないんだよね。私ってダメな子なんだ。」と感じて大きな傷を心に残すことになる。
この「愛してもらえない感覚」は生涯に渡って彼女達を苦しめることになるだろう。





子どもにとって、世界(身の回りで起こる出来事)は全て、自分に関係することなのである。
このことを大人がしっかり子どもに接しないと、子どもに「罪の無い罪悪感」を背負わせることになってしまう。




「夫婦ゲンカはたくさんしたけれど、子どもには一切危害を加えてません!」などと自信満々に弁解したところで、子どもの心は大いに傷ついているのである。

こんな環境で幼少期を過ごしてしまうと、自分の身の周りでおきたことをすべて自分にひきつけて考える感覚が残ったまま大人になってしまう。
関係の無い場所で起こっていることでも自分に関連している(責任を取らされる)という感覚が根付いてしまう。

子ども特有の感覚(=自己関連付け)を大人になっても採用してしまうのである



このような「他人の領域の出来事なのに自分の領域の事として扱ってしまう癖」あるいは「自分の事なのにあたかも他人のせいにしてしまう癖」を私は「境界線問題」と呼んでいる。
境界線問題を抱えいていると、上記のチャットの例のように、「自分の全く関与しない場所で他人が怒っていても、それを自分に関連していることだと思ってしまう」ということもおこるし、
「暴力を振るったのは私の態度がいけなかったからだ」と恋人の自制の効かなさをカバう形でDVの被害者になりやすくなることもある。

『元彼からのDV紛いの行為や、モラハラは、当時あまり嫌だと感じなかった。わたしが悪いからだと思ってた。』とはあるDVおよびAC女性の語りである。







そして、このような幼い頃に根付いた感覚を大人になっても私達はどこかで是正が入らない限り続けていく。
疑うことなく、続いていく。
子どもの頃に染み付いた感覚というのは想像以上に根深いものである。
境界線問題を抱えている事に気づかずに大人になってしまうと、非常に生きづらくなってしまう。

下記を読み進めてみて、少しでも境界線問題から脱するヒントになれば幸いである。
「私、なにか悪い事したのかな?」と不安になったときには「これは境界線問題のせいでおこる感覚なんだ。私は関係ないんだ悪くないんだ」というふうに思えるようになってもらえたらこんなに幸せなことは無い。





























○「自分の問題」と「他人の問題」を区別する


心の病になる患者は他人との「境界線」の問題を抱えた人が多い。

何か問題に直面したときに、それが自分の問題なのか相手の問題なのか区別できていないということです。


たとえば、夫の機嫌が悪いとき
「仕事で何かあったのかな」と思えばストレスにならないが
「自分が何か悪いことをしたに違いない」ととらえると大きなストレスになる。
つまり、夫の機嫌が悪いという同じ現象に直面した場合に、それを「相手の問題」ととらえるか
「自分の問題」ととらえるかによって、受け取るストレスがまるで違ってしまうと言うことです。

心の病になる方は多くの事を「自分のせい」と受け止めてしまいまし、うつ病などになると、そういう傾向がますます強まります。


「相手の問題」と突き放すのは冷たいのではないか、と思われるかもしれませんが実際には「相手の問題」としてとらえたほうが
私たちは優しくなれます。
「自分のせいではないか…」と思い込むとき実は私たちは自分のことばかり考えています。

「自分は何かまずいことをしただろうか」「自分は相手に嫌われたのではないか」というような
ことばかりを考えてしまい、意識が相手に向かなくなり結果的に相手の立場に立って考えてあげることが出来なくなってしまう。
また、自分自身の悩みを話したら、相手が「私のせいね」と反応する、
というのも、かなり重苦しい状況です。
いちいちそんなふうに反応されてしまうと、相手に気を使わなければなくなり、悩み事など相談できなくなります。








 




■親の境界線の問題


このような問題を抱える人はどのような環境で育っていることが多いのでしょうか。
第一には親も「境界線問題」を抱えている、というケースがあります。
親も境界線の問題を抱えていることが多い。


自分自身が「境界線」問題を抱えていると往々にして同じ視点を子どもに求めます。


「あの人の機嫌が悪かったのは、あなたが何かしたからではないか」
というようなことを言われ続けて育つ子は、当然のこととしてそのような視点を自分でも身に付けていきます。

一方、「あの人は不機嫌で辛そうね。何かあったのかしらね」と親が言うのであれば、子どもも同じようにとらえるようになります。
また、何か言うたびに親が「お父さんのせいだと言うのか?」
というふうに自分に関連付けて反応してしまうような環境では、
子どもは常に「こんなことを言ったら相手にどう思われるだろう」と心配するようになります。
つまり「自分の発言」ができなくなるのです。

治療の中で患者さんに自己表現の練習を始めてもらうと、練習相手である家族が
「そんなふうに受け取られるなら、もう何もいえない」と逆切れしてしまうということが時々あります。

これも実は「境界線」問題です。

患者さんがどう感じたとしても、それが患者さんの気持ちなのです。
家族が言ったことを患者さんが誤解したのであれば誤解を正せばよいだけです。
最初から相手に正確に理解して欲しい、と思う人はまさに「境界線」問題を抱えています。

親子でも、夫婦でも、他人なのですから、受け止め方は違っていて当たり前で、それを調整するためにコミュニケーションがあるのです。

よくDVや虐待の加害者が「相手が自分を怒らせた」という言い方をしますが
これも「境界線」問題の顕著な例の一つです。
自分を怒らせないように気を使うのは相手の責任、というような考え方は
まさに「境界線」の深刻な障害であると言えます。
暴力の加害者にも関わらず「お前が怒らせたせいだ」と言われてしまうと、
本来自分の責任ではないことまで自分の落ち度だと感じてしまい、自尊心が低下します。
そして、「相手を怒らせないように気をつけなければ」と
境界線の引けないコミュニケーションパターンを続けてしまうことが多い。


 

 




 

■顔色を読んであげないといけない親




第二のケースは、大人の顔色を常に読まなければならないような環境です。
親が「言わなくても自分の心を察して欲しい」というタイプの人だと、子どもは顔色を読むようになります。
また、親が感情的に怒るようなタイプの人でも、子供はやはり親の顔色を読むようになります。

「自分が何をしたか」で叱られる子供は、自分の価値観と自尊心を育てることができますが、
「親の機嫌がどうか」で叱られる子供は、相手の顔色を伺うようになります。
それしか判断の基準が無いからです。

親がアルコール依存症というような場合も同じです。
親がどのくらいアルコールの影響下にあるかで反応がガラリと違うからです。
いつ地雷を踏むかわからないので、常に親の顔色を伺いながらビクビクしていなければなりません。


大人の顔色を読まなければならない環境で育つと、
なぜ境界線を引くことが難しくなるのでしょうか。
それは「自分が相手にどうして欲しいかを表現するのは自分の責任」という考え方が身につかないからです。


相手の不機嫌が本当に自分のせいだったら、相手がそれを伝えるべきなのです。
うまく言えない人もいるでしょうがそれはその人の問題で、その人自身の課題として努力していく必要があるのです。
それを「自分が読み取ってあげなければならないこと」と思うことは相手の成長の機会を奪うことにもなります。
また、そのように考えがちな人は他人にも同じように求めます。
自分がどうして欲しいかを表現しなくても相手は察するべき、というふうに思ってしまうのです。
そして、そうしてもらえないと「相手は自分をないがしろにした」と感じてしまうのです。
これもまた大変ストレスのたまる受け止め方で対人関係のトラブルにつながります。

本人がいくら他人の顔色を読んでいるつもりであっても、実際には正しく読めていないことのほうが多いものです。

他人の顔色を読むタイプの人に多いのが、
「自分は正しく相手の顔色を読んでいる」という思い込みです。
これが相手の実際の気持ちとずれていると相手が求めていないものを押し付けることにもなってしまいますし、
役割期待のずれが広がっていきます。
相手の気持ちは相手に聞いて見なければわからない、という当たり前のことが
「境界線」問題を抱えてしまうと分からなくなってしまうのです。

以上に見てきたように、子どもの「境界線」感覚を育てたければまずは大人が自らを振り返る必要があります。
「言葉で言わなくても察するのが日本の文化」と思われるかもしれませんが
「相手が察してくれるはず」と言えるほどのコミュニケーションを日頃から積み重ねていない、
ということも頭に入れておく必要があります。

境界線をきちんと引くことによって、
「自分が思い込んでいる相手」ではなく「本当の相手」と向き合うことができますから
より人間らしいつながりを作っていくことが出来ると思います。)












 


■友達親子は親が自分を優先した怠惰


親の中には「境界線」の問題を抱えた人も居ます。
境界線問題とは何かというと、それが「自分の問題」なのか「相手の問題」なのかがわからない、ということ。
例えば、過干渉というのも「境界線問題」の1つです。
ある程度のリスクを引き受けて試行錯誤するのもその人の人生なのに、
「失敗させてはいけない」と相手の領域に踏み込んで色々と行動を支持するのが過干渉だからです。


「子どもに嫌われたくない親」という存在。
だから子どもと「当たり障りのない関係」しか持てない。これは結構深刻な問題のような気がした。
「子どもに嫌われたくない」の場合、主役は明らかに子どもではなく大人だから。

子どもの正しい生育過程には大人が壁になってくれることが必要なんだけど、親が子どもの過程ではなく自分自身の立ち場を気にしていると壁になれない。
おかげで子どもは正しい反抗期を通過できない。親が子どものニーズ(反抗期)ではなく親自身のニーズ(子どもに嫌われたくない)を優先してしまうと、
子どもは正しい反抗期を送れずに大人への生育過程をきちんと行えずに心が病んでしまったりあるいは20代30代になってから反抗期が現われる、という時代になってしまうのである。

親が自分が悪者になるのを恐れて子どもが通るべき過程を妨害してしまうのは最悪。
その最悪は、「自分自身の事ばかり感ガル段階を卒業できていない人間が親になったこと」に起因するのではないでしょうか。




 

 

■「境界線問題」の連鎖を断ち切ろう


こうしてみてくるとわかるように、「境界線問題」というのは、
本来、自分がコントロールできない、あるいはコントロールすべきではない「相手の領域」を
コントロールしようとする姿勢のことだといえます。

中には、境界線を守ろうとする意思が全くない人とも居ます。
それは多くの場合、自分自身が、境界線意識のない育てられ方をした人です。


例えば、親から虐待されて育った人は、親から常に「相手の顔色を読みなさい」というメッセージを受けながら生きてきています。
虐待というのは、単にその人の機嫌が悪くなれば起こるもので、そこに客観的なルールはありません。


虐待されるのを防ぎたいのであれば、
一生懸命顔色を読んで、大人を怒らせないようにするしかないのです。

また、虐待されたわけではなくても、「相手の顔色を読みなさい」というメッセージを受けて育ってきている人は
案外たくさんいます。
言葉でのコミュニケーションが少ない家庭に育った人に多いものです。
そして、それに従って相手の顔色を読み、
また、自分の顔色を読ませる(きちんと伝えずに気持ちをわかってもらおうとする)生き方をしていると、
それがまた子供に伝わっていくことになります。
境界線問題はそんなふうに連鎖するのです
しかし、自分が意識することで、その連鎖を断ち切っていくことも可能です。


 

 

 

 


■「つい怒ってしまう」ときは、境界線問題を見直す


境界線問題を抱えていると、「つい怒ってしまう」ことが多くなるはずです。
なぜなら、「子供には子供の成長プロセスがある」「子供には子供の感じ方がある」
ということを認めるのが難しいから。

これは、子供との間に境界線が引けていない、という状況です。
子供をまるで自分の所有物のように扱ってしまう、という人には
そういうタイプが多いものです。

子供との間に境界線が引けていないと、
子供が自分の「でき」を示す通信簿のように感じられてしまうこともあります。
子育ての出来がまるで、自分の成績のように思われてしまうのです。

成績がよければ誉められたのと同じように、
子供が「いい子」に育っていると誉められる、というような感覚です。
これは、子育てのためにキャリアを断念した、などというときに
強く見られる場合もあります。
「あれだけの仕事の断念したのだから、立派な子に育てなければ」などと
思ってしまうのですね。

このように子育ての「でき」に目が行ってしまうと、
子供の現在を離れることになってしまいます。
「どういう子に育つか」というところばかり見てしまい、
現在子供が何を思っているのかに関心が向かなくなってしまうからです。

また、「こういう人間になってほしい」という思いが強すぎると、
子供に対して非現実的な期待を押し付けることにもなってしまいますし、
現実とのずれに、つい怒ってしまったり、子供を萎縮させたりして、
子供が本来持っている力すら発揮させられなくなってしまうかもしれません。

そもそも、子供の現状は親の「でき」を示すものだと考える必要などないのです。
子供が持って生まれるものを親は決めることができませんが、
その子がどういう人生を歩むかは、かなり多くの部分が「持って生まれたもの」と関係しています。


生まれた後も、特に子供が家庭外で過ごす時間が長くなってくると、
親は子供が「何を体験するか」をコントロールできなくなります。
家庭内の体験でさえも、子供本人の捉え方は親の捕らえ方と違いますから、
本当のところ、子供が「何を体験するか」を
親がコントロールする事はできないのです。








■言われていないことは、なかったことにする

それぞれの「領域」ということを考えてみると、「自分の領域」のことを知って伝えることができるのは、本人だけです。
何を考えているのかわからない人、というのは、「自分の領域」に責任を持って表現していないと言うこと。

「本当のところ何を考えているのだろう…?」と疑心暗鬼になっていくと、どんどん「コントロール感覚」が揺らいでいくものです。


それよりも、「何も言わないということは、今本人は何も言いたくない、あるいは何も言えない、あるいは何も考えていないということ」という現実を
受け入れてしまったほうがラクです。
それ以上を追求すると、相手の「領域の侵害」にもなってしまいます。
また、何も言わない人の顔色を読むようなことをしていくと、ますます本人は「自分の領域」に責任を持たない人になってしまいます。
関係性というのはすでにできているものではなく、育てていくもの。
「言わない限り、なかったことにするよ」という方針を貫いていくことは、お互いの「領域」を尊重し合える、豊かな関係性を育てることにもつながっていきます。






























○怒り(叱責)に打たれ弱い人の生育環境の特徴


少し脱線してしまいますが、怒りに関係するテーマで「怒り(叱責)に打たれ弱い人」についても触れておきます。
ざっくり言えば自己肯定感の低い人は「仕事のスキルの否定」と「人格の否定」を一緒くたにして考えてしまう傾向が強いです。

たとえば、会社でミスをして怒られる。
このときに上司が怒りをぶつけているのは仕事の出来不出来についてだけです。
仕事のスキルが上司が要求する水準に到達していないだけなのです。
そうしたときには、仕事のスキルをアップさせることだけに気をつければいいはずなのですが、どういうわけか、
「私そのものを否定されてしまった」とある意味で勝手に傷ついてしまう人たちが若者を中心に増えていて、精神論で乗り切ってきた世代の上司達は「近頃の若い人たちは打たれ弱くて指導できない」と居酒屋で嘆いているわけです。

このことは、核家族化が進んだことや共働きが増えて、子供が幼少期に自己肯定感を育ててもらいにくい環境と大いに関係すると僕は思います。
そして、この先も働くことに余裕のある時代は戻ってこないでしょうから、自己肯定感の低い人たち、つまり打たれ弱い新入社員が増えていくのは避けられない流れのように思えます。

人間は小さいときには何も出来ません。
何も出来ないときに愛してもらってこそ「私は無力でも生きている価値があるんだ」という感覚を自分の中に根付かせることができるのです。
そして、何も出来なくても価値があるという感覚が根付いてこそ「仕事のスキルの否定」を「人格の否定」と受け取らずに上司の叱責をスキルの向上の糧にできるのです。

自己肯定感の低い人すなわち、「何か価値のある行動をしないと認めてもらえない」という感覚が根付いている人たちにとっては、「仕事のスキル=何かを達成する」を否定されてしまったら、「何も達成していない自分自身の価値そのもの」を否定されたような感覚に陥ってしまい、
ひどいショックを受けてしまうのです。

なので、怒り(叱責)を受けたときに「仕事のスキル」ではなく「私の価値そのものを否定された」とイチイチ感じてしまうような自己肯定感の低い人は、
なかなか社会で生き抜くのは厳しくなるのではないでしょうか。


そして、本物の自己肯定感というのはほとんど幼少期にしか根付かないと聴きます。
だからこそ、幼少期に子どもに愛を与えらない親に育ったことはある意味で不運なことなので、「弱いのは自己責任」という現代社会の論調にはどうしても賛成しかねるのです。


自己肯定感を「何かの達成(テストの点数、部活動の成績、良い大学、良い会社、いい人になる、相手の要望を優先する、などなど)」で補わなければならない人にとっては、どうしても、
「スキル」と「人格」との区別が難しく、スキルの足りなさを指摘されただけでも「人格そのものを否定された」と感じてしまう。

自己肯定感が既存しやすい時代は加速していく。
だからこそ、本物の自己肯定感を与えてもらえた人だけが、社会を生き抜き、自己実現に向けて走っていけるのではないかと思います。







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まとまりがありませんが、怒りの受け止め方も自己肯定感のあるなしで、その人にとって有益なものになるか有害なものになってしまうのかが決まってしまうというのは、
人生とは運ゲーだなぁ~となにやら寂しさがこみ上げてきました。




「疲れる人間関係」の特徴


あなたは「疲れる気づかい」をしていませんか?
そう尋ねられて、「そんなの当たり前のことでしょう」と思った方が多いのではないでしょうか。
「気づかい」は気疲れ、と思っている人も少なくないと思います。
気を使うのだから、エネルギーを消耗するのは当然の事。
疲れない「気づかい」なんてあるわけがない、と感じられるかもしれません。
気を使う人と一緒に居た後に一人になったり、気の置けない人たちだけになったりしたときの解放感は大きいですよね。
それほど、「気づかい」で消耗していたと言うことなのでしょう。

実際に、気を使うというのは疲れることが多いものです。
「相手はどう思っているのだろうか」「どうすれば喜んで暮れるだろうか」などと相手の顔色をうかがうのも疲れますし、
相手に合わせて自分のやり方を変えるというのもエネルギーを使います。

いわゆる、「空気を読む」のも、気の抜けない緊張感をもたらしますね。

「自分はこの場でうまく振舞えているのだろうか」ということが気になり始めると、
落ち着かなくなり、余計なエネルギーを消耗します。

いずれも、疲れて当たり前です。

 

 

 


○「疲れる気づかい」のエネルギーは「不安」



 

■「疲れる気づかい」=「自分がどう思われるか」を気にする心

「疲れる気づかい」をしている人は、実は「自分が相手からどう思われるか」を気にしています。
相手からよく思われたい、相手か嫌われたくない、相手を怒らせたくない、などという思いがそこにあるのです。


ですから、「疲れる気づかい」をしているとき、実はそこで気にしているのは「相手」ではなく「自分」のことだと言えます。



なぜ疲れるのか、という理由の一つがここにあります。

「気づかい」で消費するエネルギーは、単に相手のために使われるのではなく、
「自分はどう思われているのだろうか」と相手の顔色を読むことに使われるからです。


また、「自分が相手からどう思われるか」というタイプの「気づかい」では、相手の反応によって大きな影響を受けます。
相手が喜んでくれればほっとしますが、そういう様子が見えなければ、
「はずしてしまった」と自分を責めたり、「怒らせてしまったのだろうか」と不安にとらわれたり、
あるいは「感謝の気持ちが無い」と相手を責めたりすることにもなります。
相手の顔色によってこんなに気分が乱高下してしまうようでは、疲れてしまいますね。

 



 





■「不安」をエネルギーにすると疲れてしまう


「自分がどう思われるか」ということを気にする心は、基本的に「不安」です。
「こんなことをしたらどう思われるだろうか」「これで大丈夫だったのだろうか」「相手はどう思っただろうか」
というのは、いずれも「不安」の思いです。

不安をエネルギーにして「気づかい」をすると、間違いなく疲れてしまいます。

不安に取り付かれているときの私達は、心配な点にばかり目がいくものです。
これは、不安がどういう感情であるかと考えれば当たり前のことだと言えます。
人間の感情には、それぞれ意味があるのですが、不安と言うのは「安全が確保されていないこと」を知らせる感情です。
ですから、不安にとりつかれてしまうと、「安全」ということが確認できるまで、「安全でなさそうなところ」を次々とチェックしていくことになります。
「どう思われただろうか」「もしかしたら、はずしてしまったのではないだろうか」
など次々と不安な思いがわきあがってくるのは、そのためです。

そんなふうにチェックばかりして不安に思い続けていたら、疲れてしまいますよね。
また、単に不安を抱えるだけでなく、不安な点を埋めようとして、さらなる「気づかい」をしなければ、と思う人も居ると思います。
それもまた、疲れにつながっていきます。






 


■気づかいで疲れてしまう人は、自分を粗末にしている人


「疲れる気づかい」の中には、「相手を操ってやろう」と思って打算的に行うタイプのものあります。
これは一見、自己犠牲というよりも目標達成型の「気づかい」にみえるもので、「疲れる」どころか「元気になる」ものに感じられるかもしれません。
実際、打算的な気づかいが成功すると、短期的には元気になったよな気がすることもあると思います。
しかし、長い目でみれば、これもまた一つの「自分を粗末にする形」であり、自分を疲れさせるものなのです。

 



■他人を操ろうとする「気づかい」は自分を幸せから遮断する


どういうことかというと、相手を単なる「操る対象」として見るとき、
私達は人との関係から得られる貴重な温かさを感じることができないのです。


人と関わる中で、「こんな自分の事も受け入れてくれるんだ」と感じたり、
「自分のことをそんなふうに気にかけてくれていたんだ」と感じたりすると、
私達の心はじんわりと温かくなります。

また、本当に一生懸命生きている人を見ると、
「なんて愛おしい人なんだろう」「人間って素晴らしいな」と心が温かくなります。
そうして人との関わりの中で得られる温かさは、元気の元、生きていく力になるものです。
そして、自分を愛する気持ちにもつながります。
癒されていない傷がある人は、この温かさから癒しを得ることができますし、
自分に自信がない人は、この温かさから自分の力を感じていくことができます。

人と関わることで得られる最も価値の高いものが、この「温かさ」で、
それをどれほど体験できるかが人生の質を決めるといっても過言ではないほどですが、
他人を操ろうとして「気づかい」をしているときには、
自分をそんな幸せから遮断していると言うことになります。

つまり、自分を粗末に扱っているのです。

自分のスムーズな循環が取り戻せて、かつ、自分を大切にできる。
それが結果としてよい「気づかい」になるのであれば、こんなお得な話は無いと思いませんか??





 

 

■「疲れる気づかい」は周りも疲れさせる


「疲れる気づかい」が疲れさせるのは、「気づかい」の相手だけではありません。周りにいる人たちも巻き込まれ、消耗してしまいます。
「相手を喜ばせなければ」という思いは、完ぺき主義につながります。
すると、自分だけでなく、周りの人もそれに協力すべきだという気持ちになってしまうのです。

自分の「気づかい」に協力しない人、自分の「気づかい」を台無しにしそうな人にはイライラしますし、
協力を要求することにもなります。
「おべっか使い」の人の知覚に居ると疲れることが多いですが、
それはその人がうまく「おべっか」を使えるようにと、周りも巻き込まれるからです。



また、「目上の人にはぺこぺこしているけれども、目下の人には横柄」と言われるようなタイプの人は、
まさに「疲れる気づかい」の典型例だと言えます。
「横柄」と言われる言動の中には、単に「気づかい」がない、というものもありますが、
自らの「気づかい」にあうように、目下の人たちを振り回す、ということも含まれるでしょう。