2013年3月30日土曜日

「しょせん、他人事」と思っていた自分を忘れるな



◇「ダウン症の啓発運動」で感じる怒りの対処法



「ダウン症や発達障害は誰が悪いのでもなく、誰にでも起こり得ることなので、出来損ないとか病気じゃないんです。そういう中傷や誤解をしてもらいたくない」と言っていたお母さんがいた。



その方のお子さんはダウン症らしかった。確かに言いたいことは分かる。
誤解や中傷で母子共に傷つけられる場面を幾度となく経験してきたのでしょう。


だけどね、お母さん。
あなたがそういうことが誤解だと気づいたのはお子さんがダウン症だったというキッカケがあったからですよね?
そのキッカケがなければ、あなたも「誤解する側」の人間のままだったんですよね?だとすると、「誤解する側」の人間が「誤解し続ける」事に怒りを感じるのは適切でないと思いませんか?







誤解をしている場合ではないくらいに強烈な出来事を他人事としてではなく自分事として体験しなければならいくらいのキッカケがなければ、「誤解する側の人間」で居たであろう自分を棚にあげて、「理解を示さない貴方達は人権を侵害していることに気づかないのですか!」みたいな怒りをぶつけるのは、愚かな行為なんですよ。


だって、他人事だったときには見向きもしなかった自分が居たでしょ?
そういう自分に啓発をしていると思って下さい。

簡単に理解を示して上げれると思いますか??







周囲の無理解に怒りが湧いたときには、他人事だったときの自分を思いだしてみてください。
見下していたり親の不手際だと思っていたんじゃないんですか?


自分事ではない他人事には関心を寄せなかった自分を棚に上げて、「誤解し続ける人」に理解を求める啓発運動を
行う権利はあっても、誤解を改めようとしない人たちを責める権利はないんですよ。


なぜなら、自分事として捉えない限り、到底理解など出来ないし理解したくもない事柄というのは世の中に溢れているんですから。




「伝わらなくても伝え続ける」くらいの意識で啓発を行わないと自分が燃え尽きますよ。
怒りを感じた相手に理性的に啓発を行うことは無理ですし、なにより、怒りは自分を滅ぼす 
のです。

「簡単には伝わらないのは、しかたないことだな」くらいの心構えで無いと、「無理解な周囲の人」たちに向けた怒りによって「あなた」が滅びてしまって、やがては子どもへの怒りに変わったり子どもが貴方の異変を感じて混乱してしまうかもしれませんよ。



怒りからは何も生まれないんですよ。


祖父母の甘やかしに困ったら




◇子どもの未来を共有できるかどうか



育児の手助けをしてもらう人は、子育てをしている親と心が通い合っているのなら、
祖父母はもちろん、ご近所の知人や友人でも構わないので、
子どもを親以外の人間と接する機会を恐れないで下さい。

親以外の人間と接することで、子どもは親とは異なる愛情や社会的な規範を自然に学ぶと同時に、
価値観の多様性を肌で感じることができ豊かに発達していくことに有益です。






 





■未来に責任を持たないからこそできる愛情


愛情の持ち方が両親と祖父母では、違ってくる。


親は誰よりも我が子の将来を幸福にしたいという気持ちが強いものです。
極端な言い方をすれば、子どもの将来の幸福のためには、
現在の幸福を多少犠牲にしてもいいという気持ちで接しています。


箸の持ち方や挨拶、あるいは感謝の言葉ごめんなさい、オモチャは順番で使いなさい、野菜を食べなさい、などなど。


「今は理解できないかもしれないけれどあなたの将来を思って意地悪な事を言うのよ」
というような、将来を考えた愛情の注ぎ方を両親はするものです。



ところが、祖父母の愛情はそうではありません。

孫の将来が同でも言いと思っているわけではなりのですが、
それよりも、自分の目の前にいる孫を幸せにしたいのです。

言い換えれば、いまここにいる孫の慶ぶ顔をみるのが祖父母のいちばんの悦びなのです。
だから、ときには孫を喜ばせるために、親の躾をじゃましてしまうことがあるのです。



孫の将来よりも今、笑顔を見て、祖父母も幸せな気分になりたいと思っているです。

だから、お菓子やオモチャを親が頑張って我慢させようとしているのに、簡単に買え与えてしまって、
「おばあちゃんは、お母さん達と違って優しいんだよ!」などと、困ったことになってしまうのです。



そんな事を考えていくと、親からみれば、優しさとは厳しさなのです。
しかし、子どもと祖父母からみれば優しさとは「欲求を満たす」ことなのです。

ここに、ギャップがうまれて、両親がしたいしつけを邪魔してしまう土壌があるように思われます。











■親のしつけに理解を示してくれるかどうか



なので、これはどうすればいいかということを具体的に考えてみる。


祖父母たちの気持ちを充分に肯定した後に両親の方針を話してみれば良いと思うのです。
(ただし、両親の以降を話したところで耳を貸さないか理解を示さない自己中心的な祖父母は必ず存在しますので話が全てのケースで通じるとは思わないことです)


「祖父母さんたちが、孫をかわいがりたい気持ち、孫を笑顔にしてくださることには本当に感謝しています。
 ただ、この子の将来を考えると親としては、我慢をおぼえさせたいと思っています。
 なので、この子の幸せを願う気持 ちが私達と一緒なら、どうか、我慢を覚えさせると言う愛情も一緒に注いでいきませんか?」


などなど、相手を肯定し、自分達の要求に祖父母を巻き込んでみてはいかがでしょうか?




ただ、前述の通り、「孫との今」を楽しみたい欲求を優先してしまう人たちは一定数居ると思うので、
あまりにしつけの邪魔になる振る舞いしかできない祖父母であると感じたなら、それなりに距離をとっていかないと、
導きたい方向に子どもを導けないことになりかねないので、「親との縁を切手でも子育ての方向性は邪魔させない」というくらいの覚悟は必要になってくるかもしれません。


2013年3月28日木曜日

パーソナリティ障害と境界線問題




「自分がされて嫌なことは相手にもしないようにしましょう」と
小さい頃から教えられる。

確かにその通りなんだけど副作用もある。





それは何か。

「自分がされて嫌なことは相手も嫌に違いない」という思考が出来上がると
「自分と他人とは別人格であり、考え方も感じ方も違う生き物なのだ」という他人との境界線が引けずに大人になってしまうかもしれない。

自分がされて嫌なことは相手にとっては望んでいることかもしれない。
そこにすれ違いがうまれる。



自分が嫌だと思っていることは相手も嫌に違いない=自分と同じような価値観考え方を相手も持っているに違いない
という罠に注意しなければならない。










■自他の境界線が引けないパーソナリティ障害者たち


(境界性、自己愛性)パーソナリティ障害の最も特異的な部分は「自他の区別が付かないこと」だと読んだことがある。

自分の事は自分が一番分かっているのであれば、「他人(自分)が私の望むことを察しないで満たしてくれないのはおかしい」というような境界線問題が主題なのではないだろうか。



「自分の不平不満を言葉ではなく態度で示せば即座に誰かが満たしてくれる」「自分の不快さは他人(自分)が取り除くべきだ」という生き方は赤ちゃんの時期だけなのが人間のあるべき発育段階なのだと思っている。
で、だんだんと「他人は役に立たない、言わなきゃ分からないし言ってもわかってもらえない」ということを学ぶはずなんだけど、どこかでストップしてしまった人たちの一つの行き先がパーソナリティ障害なんじゃないかと。


これが逆だとDVを受ける側になっちゃう。
「相手が不機嫌で暴力を振るうのは自分に落ち度があるからだ」というような「他人の事も自分の責任として受け止めてしまう」という素地がDVを甘受するようになってしまう要因だと思われる。



境界線問題は本当に厄介で俯瞰的に自分のコミュニケーションパターンを観察できない限り、一生続けていくことになってしまうので、自分の境界線問題に気づくことは本当に難しいことだと思っている。











■社会では有能だが人間関係はボロボロ


天気が雨だとする。
遠足を楽しみにしていた小学生の男の子はがっかりするだろうが、農家のおじいちゃんにとっては恵みの雨かもしれない。小学生が残念がるのは分かるし、おじいちゃんが喜ぶのも分かる。雨に良し悪しはなくて、個々人の状況によって受け止め方が違うし違って良いはず。

なのに世の中には、雨が降って喜ぶ人を許せない人が居る。


「自分と他人は別の価値観を持っている別個の生き物だ」ということがわからない人、すなわち、境界線問題を抱えている人たちだ。



自分が雨を嫌っているのに他人(自分)が雨を喜ぶなど、境界線の人たちにとっては耐えられない出来事なのである。




ちなみに、自己愛性パーソナリティ障害傾向を持ったほうが社会的に成功する確率が上がるらしい。
相手(部下)が自分と違う考え方を持つことを許さずに自分の信じている方向に家事を取れる経営者は、経営者として備えておきたい素晴らしい資質だ。
そういう「自分が正しくてそれ以外の意見を絶対に認めない」という生き方は社会的には有能で利益を産む能力には優れているのでしょう。


だけど、人間関係というのは「自分と違う考えの人間をそれぞれ尊重しあう」ことが肝要なはずなので、当然、パーソナリティ障害群の人たちは、
社会的な肩書きがなくなれば人間関係が無になっているのである。




そして、いくら社会的に成功を収めても満たされることがないのでお酒には待ったりお金に物を言わせてプライベートでも機嫌を取ってくれる人を引き寄せたりしている。
ただそれらは結局虚しさを産むだけである場合も多い。












■自己愛の蔓延する家庭



心理学的には依存症の人間と自己愛人間とは共通点が多い。

まず、どちらも問題の多くは家庭で育ちやすい。

依存症の人間を産み出すーつまり自己愛人間を作り出すー育児には共通点がある。
一貫性がなく、境界が設定されておらず、熱心な世話と怒りが繰り返されて子どもを混乱させる。


態度がころころ変わり、信頼性に欠け、
子どもに共感を持って対応できない親は健全な自己ーーあるいは健康な脳ーーをつくる材料を子どもに十分提供できない。



主な養育者が乳幼児の感情に波長をあわさず、情緒の負担をやわらげず、
とくに母親と離れていたあとの気分の低下にうまく応じられないと神経の発達を妨げ、
衝動を抑制できない、欲求不満の許容量が低いといった欠点をもたらす。

乳幼児期に社会化の機会が奪われ、ストレスが加えられれば
激しい感情を調節する脳内の化学物質に永続的な変化をもたらすと思われる。
脳の発達がピークを迎える練習期の始まりと終わり(生後10ヶ月~1歳と1歳4ヶ月~一歳半)に
共感に満ちた世話がなされないと、脳の重要な領域が未熟で未発達なままに残される。




激しい感情を自力で調節できない人間は
「補助の調節装置」として化学物質に頼るのかもしれない。
発達しなかった神経回路を補う。

薬物は自己愛の幻想と誇大感や全能感を誘発し、
恥や抑うつから解放してくれる。


自己愛人間が恥の回避という方法を見つけたように
依存症の人間も脳の発達の重大な欠陥を補う方法を見つけたのだ。


言動に一貫性がなく、境界意識もなく、自分のことに夢中で
子どもから必要とされるときに応じられない親は子どもの道徳意識の発達も妨げる。

善悪を判断する手本となる断固たる、しかも愛情に満ちた態度が示されないためだ。










■健全な自己愛とは


健康な自己愛とは
あらゆる感情を感じられ、他者の感情も共有できる能力であり、
夢見る力を持ち続けながら現実と幻想を区別する知恵であり、
激しい自信喪失に陥らずに夢の実現を積極的に追い求めて楽しむ才能である。

健康な自己愛は真の自尊心の上に成り立つが、概して自己愛人間はそれが欠けている。






 

 

■相手を自分の一部とみなす


他者は彼らの要求を満たすために存在し、
要求を満たさないなら存在しなくて良い、と考えている。

自己愛人間は自己感の発達に重大な欠陥を持つ。

その欠点のために彼らは自己と他者との間に境界があり
他者が別個の存在であって自己の延長でないことが理解できない。




 

■他者他の境界が無い


自己愛人間は、自己と、欲求を満たしてくれる養育者とが分離した存在だと認識できる前に発達が止まった人たちだ。
彼はすべての愛情を注いでくれる全能の養育者といまも心理的に融合しており、
その交流パターンの対人関係にも影響を及ぼしている。





■他人を平気で利用する


自己愛人間は
恥の意識と怒りや攻撃性を爆発させる性向によって、
他者の気持ちや欲求に共感する能力はもちろん、それらの認識する能力さえ発達させられない。


情緒の発達にかんしていえば、彼らは1、2歳児の発達段階に固着している。
他者は分離した存在ではなく自己の延長であり、自分の命令に従うためにある。


それが、未発達の良心とあわさって、他者を利己的に利用する傾向が生まれる。



 

 

 

 


■自己愛の肥大した母親


妊娠前でさえ、幻想の中の子どもは自己愛の延長であり
自分が特別な気分を味わい、他者からの賞賛をうながす手段となる。

わが子を完璧とみなすにしろ密かに失望するにしろ、
彼女は幻想の中の理想的な子どもほどには現実の子どもに強い絆を持たない。


彼女たちは妊娠と言う局面に無関心か夢中になりすぎるのどちらかだが、いずれにしろ、
最大の関心ごとは生まれてくる我が子ではなく自分自身の体験だ。


いまさら親を変えようとしない。
いつか親と相互関係を結べると言う希望は捨てる


「面倒くさいヤツ」にならないために



 


■「面倒」とは他人に認定されるもの


「こいつ、面倒くせーなー」って思う場合の「面倒くささ」は2種類あると思っていて、その種類は「面倒くさい」と”思う側”の事情が反映されると思っている。


「人間はそれぞれの意思で行動を決めていくべきだ(あるいは他人に乗っかりたい)」と考えている人が「面倒くさい」と思うのは「自分の意思がない人間」に対して。


一方で「なるべく自分の都合のいいように他人を動かしたい」と考えている人にとっては「意思のある人間」を「面倒だな」と思うでしょう。




そんな事を考えていくと、たとえばブラック企業と呼ばれるところの社長と社員は、実は
相性が抜群なんじゃないかと思ってしまう。



自分の意思のない人(あるいは自分で決断をしたくない人)は「なるべく自分の都合の言いように他人を動かしたい」と考えている人(ブラック企業の雇い主みたいな人)と相性が良いのだ。








■面倒なやつ認定をされない場所に辿り着け


「自分の意思を反映させて生きたい」と思っている人間は、個人の判断に権限と責任がある場所に行かないと「面倒なヤツ」と思われるだろうし、
「自分の人生を誰かに預けて自分の決断に対して責任を負いたくない」と思っている人間は、歯車の一部として活躍できる場所を選べいい。



自分に相応しいのが「自由だけと責任を負うことになる場所」なのか「窮屈だけど自主性とは無縁の場所」なのか?ということを間違って選択してしまうと、/みーんなが不幸になってしまうように思える。



どうか、行きやすいと感じられる場所にたどり着くことを諦めないで欲しいし、苦しい場所に留まっていても誰も認めてくれないんだよ。

2013年3月25日月曜日

背負わされた罪悪感を捨て去る考え方



ある日お母さんの機嫌が悪かった。

お母さんが機嫌が悪いのは子どもが悪い子なのでも悪さをしたのでもない。

旦那とケンカしたとか生理中とか仕事がうまく行かなかったとか、
お母さん側の原因でお母さんは不機嫌なのだ。


だけど、境界線問題がある家庭では、
お母さんの不機嫌さを全て子どもの責任として背負わされてしまうのだ。















◇境界線問題を乗り越える


たとえば、虐待。たとえば、父親がアルコール依存症。

こういう家庭で育った場合、ある意味で、大人になって一般的な家庭の話を聞いたりみたいすれば自分の育った家庭の異常さに気づくことが出来る。あるいは、子ども時代でも友達の家に遊びに行ったときに「自分のうちとはぜんぜん違う。これが”家族”か」というように、自分の育った家庭への違和感を持つことができる。




ただ、問題は、何をされた(暴力とか暴言)か?ではなく、
”与えられるべきものが与えられなかった”場合である。


本来、親が子どもに与えるべきものが与えられない場合、その”失われた幼少期”を自覚するにはかなりの時間を要することになる。
(異常な家庭というのは虐待や暴力など、何か危害を加えられたことを言うのだと認知されているからだ)



しかし、たとえば、安心や共感、温かい雰囲気の家庭で安心して子どもとして過ごせる、などの”子どもとして与えられるべきもの”が与えられていないと、大人に近づくにつれ、なぜか人生が猛烈に辛いと感じるようになってしまう。






その最たるものが、境界線問題だと思っている。



境界線問題で受けるダメージとは、一言で言えば
「背負うべきでない罪悪感を植えつけられてしまう」ということだ。


育った家庭で背負うべきでない無力感や罪悪感を感じるように育てられてしまうのだ。



わかりやすい例としては、ある日お母さんが機嫌が悪かった。
お母さんが機嫌が悪いのはあなたが悪い子なのではなく、旦那とケンカしたとか生理中とか仕事がうまく行かなかったとか、お母さん側の原因でお母さんは不機嫌なのだ。


だけど、境界線問題がある家庭では、お母さんの不機嫌さを全て子どもの責任として背負わされてしまうのだ。
それこそが”間違った罪悪感”の根源なのだ。











 

■境界の混乱



境界とは、自分が他の人とは別の独立した存在であることを保証するものです。
機能不全家庭では、多くの場合、境界のゆがみや混乱が起こっていたり、はっきりした境界が存在しません。

それは見捨てられ体験を引き起こす元にもなります。




境界の混乱はたとえば、次のような形で現われます。






・親が子どもを仲間として扱う


親が子どもと、まるで友人や仲間であるかのような関係をつくることがよくあります。
そして、その危険性は、子どもの年齢にふさわしくないことまで知らせてしまうのです。


不適切な情報を与えられた子どもは重荷に感じ、罪悪感さえ味わうこともあります。
これはフェアではありません。


10歳の娘に「あなたのお父さんは浮気をしたのよ」と話すことは、子どもの安全を損ないます。

母親はそのことを誰かに話す必要があるかもしれませんが、
その相手はおとなとしての能力があって適切なサポートや助言が出来る人であるべきです。

8歳の息子に職場でのポストを失う不安について話すことは、
親は弱すぎて子どもの自分を守れないと思われるだけです。











・親が子どもに責任を負わせようとする


親が自分の感情や考えや行動に責任を持たず、子どもにその責任を負わせようとすることがあります。

これは親子の境界がねじれた状態です。

たとえば、結婚がダメになったのは子どもが悪い子だったせいだと言ったり、子どものせいでストレスがたまるから酒やドラッグが必要なんだと言うのは、
子どもの責任ではないことを子どもに背負わせ、不可能な事をやらせようとすることです


実際、こうした親は、子どもが実際に持っている以上の力を持っているかのように言い聞かせ、子どもを無謀な努力と、力不足にうちのめされる体験へと駆り立てるのです。










・親が子どもに自分と同じで居るよう求める

親が子どもを自分とは別の独立した存在としてみることができないというのは、
つまり子どもの境界を認めないということになります。

親と同じものを好み、同じような服装をし、同じように感じろと言うわけです。


これは特に十代の子どもにとってはつらいことです。
その年代は自分自身を見つけるための手段として、親とは別のこうどうをとろうとするものですから。
けれどこれを思春期には良くあることだと理解できずに、親の生き方や価値観への面と向かっての侮辱や挑戦と受け取る親がいるのです。

そんなとき、子どもがどんな形であれ親と違った考え方や行動を取ると、
あえて親に拒絶される危険を冒すことになるのです。














■境界があるかどうかで体験の意味が違う


親が子どもの境界線を尊重せず、境界に侵入するとき、
子どもには一人の人間としての価値がないというメッセージを与えている事になります。

親が子どもの境界を認めないということは
「あなたは親である私のニーズを満たすためにここにいる」
「あなたより親の私が優先だ」あるいは「あなたが自分なりの感情やニーズを感じるのはよくないこと」
というメッセージを与えているのと同じです。

そしてそこには、他人の求めに応じて自分を放棄せよという意味も含まれているのです。

すると子どもの中でこんな信念が形作られます。



「人とは別のニーズや感情を抱いてしまう私はいけないんだ」「ありのままの私には価値がない」。

同じような場面を体験しても、子どもの中にしっかりした境界がつくられていれば、体験の意味はまったく違ってきます。つまり、誰が何に責任を負うのかが区別できれば、自分を傷つけるメッセージを信じ込む代わりに、拒否することができるのです。





・境界が無いと見捨てられ体験は決定的な痛みを産む


リンダは、彼女がうまれたときにはすでに家族はめちゃくちゃで、不安な毎日を送っていました。
彼女の最初の記憶は、両親が言い争いをしているのを聴きながら台所のテーブルの陰に隠れて「どうか見つかりませんように」と心の中でつぶやいていたことです。

彼女はいつも、自分の気配を消そうとしていました。

「私の家族には争いの種があふれていて、不幸ばかりで、それに何度もあちこちに引っ越していました。
 私は4人きょうだいの末っ子で、間違って妊娠して生まれた子だったんです。
 私がとても小さな頃から、母は私に、子どもは3にんでたくさんだった、4人も要らなかったのにと
 話して聞かせました。私は自分を傷つける言葉と視線を浴び続けて、身を守るための盾が必要な気分でした」


リンダのように子ども時代を生き延びるだけで必死だったとしたら、自主性や、他人とは別の自分と言う感覚を育てる余力はほとんど残されていません。

リンダはいつも見捨てられていて、感情の境界の侵害にさらされ、その結果「私はいてはいけない存在だ」という恥に満ちた自己否定感を体験し、それを心に焼き付けたのです。





子どもは、もともと、親が間違っているとか、親の行動は正しくないといったように考えないのです。
子どもは、自分にとってどうしても必要な存在である親を拒否することはできないのです。

その代わり子どもは、自分が間違っていて、悪いんだと言う重荷を背負いこみます。
そうすることで、親の誤った行動をなかったことにし、少しでも安全を感じようとするのです。



その奥で本当は何が起こっているのかと言えば、外側の安全と引き換えに、心を危険にさらしているのです。



自分の価値を育てていくはずの時期に、見捨てられ体験にさらされ、しかもその子が自分の中に境界を確立するチャンスがなければ、見捨てられたことがすなわち、「自分に価値がない」と言い聞かせることと同じになるのです。


それは自己否定感と、恐れを作り出します。
この事実は、何度も確認しておく必要があります。
なぜなら、それが私達の痛みの根っことなっているからです。


私達が今、知っておかなければならないのは、見捨てられ体験も境界の侵害も、決して私達の欠点が原因ではないし、
私達が無価値だからでもないということです。
そうではなく、私達を傷つけた人の間違った考え方や、誤った信念、不健康な行動がそこに現われているのです。
それでも、その傷は子どもの心と思考に深く刻まれて、私達は今もその痛みを感じています。
癒されるためには、心が傷ついた原因を理解し、受け入れることが必要です。
それをしない限り、痛みは去らず、おとなになってからの人生を引きずり回すものとなるのです。












 

■子ども時代に大人のスキルを学んでしまう



問題を抱えた家庭に育つ子どもは、実際のところ、かなりのスキルを身に付けます。
彼らはしばしば、他の子供が学ばないようなスキルを学ぶのです。

ほんの小さい頃から料理ができるようになる子どももいます。
感情をコントロールするのが非常に得意な子どもも居ます。
周囲の様子にとても敏感になり、人の心配ごとや嘆きを聴いてあげるのが取り分け上手になる子どもも居ます。


どうにか工夫して問題を解決し、何でも人に頼らず自力でやったりもします。
まるで大人のスキルを持っているのかのように数々の状況に対応してきたわけですが、
それでも私達は、子どもだったのです。


あいにく、家族の問題状況の中で学んだスキルや行動は、年齢からすると早すぎたし、怖れや自己否定感を土台にして身に付けたものです。

こんな場合、自分がニセモノを演じているかのように感じるでしょう。
それに、こうしたスキルは自分からすすんで学んだものではなく、目の前の必要に迫られて選択の余地なく身に付けたもの。


そんなわけで、そういったスキルがあっても柔軟性はないのです。

何をやるにしても、切迫した感じになります。
「このことを片付けてしまわなければ、きちんと正確にやっておかないといけない。間違いはおかせない。ミスをしてしまったら、何かまずいことが起こるだろうから」というように、せき立てられてしまうのです。















○回復策

 

■コースを変える

私達は大人になっても、かつてのルールを自分に課しています。
自分の感覚を信じず、裏切られないようにと身構え、口を閉ざしてこらえているのです。

古いルールに従うだけの生き方を、自由に語り、信じ、感じる生き方へと帰るには、どうしたらいいのでしょう?
世代を超えて引き継がれてきたルールのもとをたどり、それを問い直し、あなた自身の新しいルールをつくればいいのです。

そして、同時に、過去の出来事なのに今もあなたを傷つけているものに向き合って、悲しみを癒す作業が必要です。



子どものあなたがその体験から「自分には価値がない」「私が悪いんだ」と信じ込んだとしても、
それは真実ではありません。
あなたは決して、悪くなかったし、無価値でもなかった、そして今だってそうです。
私は、いつかあなたが心からいえることを願っています
「私は素晴らしい。私はこれでいい。私には価値がある」と。






■過去の喪失を探る


回復を始めるにあたっては、過去について語ることが重要です。
多くの人は、話すことにわくわくすると同時に怖さも感じますが、
中にはなぜ過去を語る必要があるのだろうと訝しむ人も居ます。

過去を思い出すことが「嫌な話を蒸し返す」ように感じられるとしたら、その体験にはまず間違いなく未解決の痛みがともなっていて、今も貴方に影響を及ぼしているのです。


はっきりさせておきますが、過去について語るも目的は、それをきちんと過去のものにするためです。
それは、親を責めるという意味ではありません。

実際、過去に立ち戻って調べてみてわかったことを親とは共有しないと言う選択も出来るのです。

人が過去を探るのは、それを誰かのせいにするためではなく、真実を発見し、認めるためです。


非常に多くの人が大人になってもまだ、子ども時代に形作られた信念によって動いています。


過去に起きた特定の出来事を振り返ることは、物事の見方を大きく転換させるきっかけになります。
たとえば、もし親が怒って私達を叩いたとしたら、子どもの見方からすれば「自分が何か悪いことをやったか」あるいは、「どこか至らなかったために、親を怒らせたんだ」と思うでしょう。


おとなの目で見直してみれば、親は自分自身に腹を立てていたのかも知れないし、生活上の何か、たとえば失業したことで頭にきていたのかもしれないと考えることができます。

子どもはか弱く矛先を向けやすいからぶたれてしまっただけで、ぶたれた理由は私達が思いこんでいたものとはまったく違うかもしれないんの出酢。





こうやって得ていく新しい気づきというのは、自分について前向きな考え方を育てていく決め手となります。

過去に戻り過去を語ることの目的は、否認を破って真実を話せるようにすることです。








 

■古い間違った信念→新しく置き換えた信念



「イエス」と言わないと弱いと思われる→「ノー」と言っても強い人間で居られる

遊んでいる時間はない→遊ぶ時間は大切だ

間違うのは私ができそこないだからだ→間違うのは、私が人間だからだ

他人の要求に応じなければならない→いつでも要求に応じる必要はない

他人の意見に従わなければならない→自分で判断して意見を言える

他人が察してくれるのを待つ→自分の望みを言葉に出来る

近づいてくる人とすぐに恋に落ちる→どれだけ親密になるか自分で決められる

間違うことを許されない→間違いから学ぶことができる

親の夢をかなえるよう奨励される→自分の価値観を育てられる

嫌なのにさわられる→望まないときはさわられるのを拒否できる




2013年3月20日水曜日

「誰かを救いたい」≒「自分が救われたい」




◇相手の「感謝」を求めすぎるのは危険


誰かを救いたいと言う思いが強くなるとき、それは残念ながら自分が救われたいという思いが強くなる時である確率が高い。

そして、そういう”SOSのサイン”と使命感とを混同すると、みんなが傷つくことになる。





誰かを救うことで、低い自己肯定感を補おうとするのは良い面もあるけれども、危険性もある。
それは自分が相手に尽くした結果、相手が自分に感謝してくれないと「怒りが湧く」からである。


相手を自分を満たすための道具として扱ってしまうと非常に危険だ。



誰かを救うことで自分の役割を見出そうとしているのであれば、
その役割が達成されなかった(相手から感謝されない、あるいは患者さんが良くならなくて退院できない)時に、
自分の存在価値がわからなくなってしまう危険性があるのだ。


そして、必死に命を駆けて患者さんを救うと言う役割を全うしたつもりなのに、患者さんが良くならなかったら、「無力な自分」を感じて、燃え尽き症候群にたどり着いてしまうかもしれない。



だから、「私が救ってあげるんだ!」という使命感は素晴らしいモチベーションになるんだけれど、
そのモチベーションは、ときに、あなたを苦しめる危険性を孕んでいるんだという事をどうか、覚えておいて欲しいんだ。












 

 

■働き始める前に、どうしても読んでおいて欲しい書籍


対人援助職の燃え尽きを防ぐ
http://www.amazon.co.jp/%E5%AF%BE%E4%BA%BA%E6%8F%B4%E5%8A%A9%E8%81%B7%E3%81%AE%E7%87%83%E3%81%88%E5%B0%BD%E3%81%8D%E3%82%92%E9%98%B2%E3%81%90-%E6%A4%8D%E7%94%B0%E5%AF%BF%E4%B9%8B/dp/4422320602


忙しいだろうけれども、働き始める前に、読んで欲しい。


患者さんの価値観や考え方を許せなかったりするのは、どうしてなのか?ということが、
その理由から対処法までしっかり記載されていて、きっとあなたが病棟勤務にて患者さんに怒りを感じたときに、サポートしてくれることでしょう。








 



■本当に救われたいのは誰?


救いたいという思いは、案外簡単に暴力につながります。


彼女は可愛そうな人だ。
だからぼくは救わなければならない。
ぼくがいなければ彼女は生きていけない。
そういう風に思うのは、他人を支配したいという欲求があるからなんです。



そういう欲求が、
「ぼくがいなければ生きていけないくせに、あの態度はなんだ」と言う風に変わるのは時間の問題なんですよ。


他人を救いたいという欲求と、支配したいと言う欲求は、実は同じです。

そうしてそういう欲求を持つ人は、その人自身も深く傷ついている場合が多いんです。

http://blog.goo.ne.jp/kunkun-mei/e/2cb3a5263fa37fbc54cae2028224406f




 




■投影同一視(投影同一化)


自分に向き合おうとすると、どうしても見たくもない都合の悪い感情と向き合わざるを得なくなりますので、そういう不愉快な事態を避けるために、他人という鏡に自分を映し出して、そこに自己愛を注ぐのです。


つまり、極端な言い方をすれば、他人の人格や個性などはどうでも良くて、
あくまでも自分の延長としての存在としてしか他人を理解しないのです。


これはたとえば弱者の救済という形で表現されることもあります。
救いを求めている自分自身を、他人という鏡に映し出すのです。


そして、そこに映し出された哀れな自分を、必死になって救おうとするのです。
表面的には弱者を救済しようとしているように見えるのですが、本当に救おうとしているのは他でもない自分自身なのです。
しかし、実際に自分で自分を救おうとすると、「見捨てられた自分」という、苦痛に満ちた心理的現実と向き合わなけれ
ばならなくなるのです。


ですので、このような苦痛を避けるために、他人という鏡に自分を映し出して、そこに映った自分を救おうとするのです。

そのために、利用できそうな都合のいい弱者を探し出すのです。

http://homepage1.nifty.com/eggs/iryou/gihou/projectiv_id.html

自分が我慢した人は、我慢しない人を許せない




◇どうしてそんなに子どもを叱るの?虐待かしら?


 

・主治医とお母さんの会話①


先生、私、また娘を叩いちゃって。
平手打ちをしたら、娘が転んで頭をぶつけ、
それから顔を打って、鼻血と頭が、血だらけになって…


ええ、そりゃ大変だ


娘はワーワー泣いて、
ママ、ママ、って…抱きついてくるんで私またイライラしてしまって、
あんたがわるいんでしょ!って、言ってしまったんです。


これは虐待ですよね…


まあ、そういうことが続くと、そうなっちゃいますよね


私、どうしても娘にイライラしちゃうんです。
幼稚園から帰ってきたら、まず着替えなきゃいけないのに、
「ママあのね…」といってしゃべいたがります。
ちょっと我慢すればいいのに。
娘は我慢が足りないんです。



待てないんですね。


ええ、わがままで、我慢が足りないんです。
私、そういう娘をみていると
ついイライラしてしまって…


許せないんですね。


そうなんです…


お母さんも忙しいからね。パンパンになっていますか?


ええ、もうパンパンです。


頑張っているんですね


いえ、頑張りが足りないんです。


そうなんですか


ええ、もう少し我慢して、頑張らないといけないんです。


我慢が足りない?


そうまだ我慢が足りない、頑張らないとダメです。


そうやって、頑張ってきたんですね。
よくやってきたじゃないですか


ええっ!?


あなたがよく頑張ってきたといったんですよ


私が、ですか?


そう


(急に勢いを失って黙ってしまった。そして)
頑張れないんです


そうですね。よくやってきたから疲れたんですよ。
こういうときは少し休んだらいいですよ


でも…



お母さんがあんまり頑張りすぎると頑張れない真美ちゃん(娘の名前)のことを
もっと嫌いになっちゃいますよ


ええッ!?










 

■娘の中に「許せない自分」を見る



頑張れない自分は嫌いだ。
わがままを言ってしまう自分は嫌いだ。
娘の中にその嫌いな自分をみてしまうから、娘に怒りが止まらなくなる。
自分は「そんな時はいつも」我慢してきたはずなのに、私の娘は我慢がきかない…。許せない。


子どもに感じる親の怒りは、自分への裏返しなのだ。


虐待を受けて育った母親は自分の子を虐待する、という連鎖がそこにある。

虐待を耐え忍んで生き延びた母親こそ、自分の子の甘えやわがままを許せないのだ。







 

・主治医とお母さんの会話②


先生に前回、私の子どものころのことを言われて
いろんなことを思い出しました。
私、親の言うことを聴いて、顔色見て、こうしちゃいけない、ここは我慢しなくちゃいけないって
思って生きてきたんですね。
小さい頃から母には自分のことをあまり言わなかった。
何か言うと母はキーってなってしまうんです。
何倍か返される。
だから、自分でできることは黙ってやる子になったんだと思います。


そうですね、あなたはよく我慢して、よく頑張ってきたんですよ。


それで、ちょっとのことで甘えてきたり我慢できない娘をみると、すごくイライラするんですね。
娘がかわいそう…
(お母さんは涙ぐんでいた)
















 

■「人間は我慢するべきである」というスキーマが苦しみを増幅させる


「人間として当然こうあるべき」というスキーマ(認知)が染み付いている人は、
我慢していない人間を観ると怒りが沸いています。


自分の中にある「人間は我慢するべき生き物」という正義の逆を行く人を否定しないと、
自分が壊れてしまうと思うからです。







話が長い上司以外にも、世の中には色々な人が居ます。

意見を求めておいて、まったく聞き入れない、人の話しをきかない人。
行きたい場所、食べたいものなど自分で決められず、何でも他人任せにする人。
人から助けてもらっても「ありがとう」の一言が言えない人。
「うらやましい~」「いいな~」が口癖になっている、羨望体質の人。
「だからダメなんだよ」など、常に上から目線でものを言ったり、すぐに怒鳴ったりする、偉そうな人。
こういう人たちは、多くの人をイライラさせていることでしょう。
イライラは「自分が困った状況に置かれている」ことを知らせる感情だという事をお話しましたが、
このような人たちを見たときに、仮に直接自分が言われたわけでなくてもイライラするのはなぜでしょうか。

それは「どしてあなたはそんななの?「どうしてそんな言い方をするの?」という気持ちになるからです。

つまり、あなたが「人間として当然こうあるべき」と思っている姿と、現実の相手がずれている、ということです。

2013年3月19日火曜日

断ることに罪悪感を感じたら



◇「断れない人」と「気分変調性障害」



水島先生の『対人関係療法でなおす 気分変調性障害』の冒頭に、
気分変調性障害の人の考え方の特徴が書かれています。



「本書を読んでいただきたいのは、こんな方です」という見出で、

・自分は人間としてどこか欠けていると思う。
 ・他の人は苦しいことにもしっかり耐えているのに、自分は弱い人間だと思う。
 ・自分は何をやってもうまくいかない。
 ・自分は何か、為すべき努力を怠っているような気がする。
 ・人が「本当の自分」を知ってしまったら、きっと嫌いになるだろう。
 ・「○○したい」というのは、わがままなことだと思う。
 ・自分が何かを言って波風を立てるくらいなら、我慢した方がずっとましだ。
 ・自分の人生がうまくいかないのは、自分が今までちゃんと生きてこなかったからだ。
 ・人生は苦しい試練の連続であり、それを楽しめるとはとても思えない。
 ・これから先の人生に希望があるとは思えない。

http://www.ipt-clinic.com/case/post_3.html








 




 

■自分が相手に伝えていること、を知る



ーー症例

主婦のハコベさんは、しばしばうつ病を繰り返しています。
娘の学校のPTAの役員を毎年やらされるので気が重いのです。
「今年こそはやりたくない」と思って向かった昨年の会合の
実際のやりとりは次のようなものでした



>>
今年もハコベさん、お願いできますか?


あの、私は毎年本当にできが悪いので、
今年はもっとおできになる方に代わっていただいたほうが良いと思います。


ハコベさんは毎年とてもきちんと仕事をしていただいて皆頼りにしていますよ。


いえいえ、困ります、今年こそ大失敗して皆さんにご迷惑をおかけしてしまうと思います


そんなことにはならないから大丈夫ですよ。
では、ハコベさんにはお引き受けいただけそうなので、他の役員に移りますが…
<<








…このやり取りの中では、ハコベさんの「やりたくない」という意思が一切語られていません。



自分の出来がどうかという判断を周囲に投げかけるような形になってしまっており、
結果としては「大丈夫ですよ」と、ハコベさんの望まない結論になってしまっています。


確かに一方的な人事ですがハコベさんが本当はやりたくないのだということを知らなければ
毎年やっているし、仕事も慣れているのだから引き受けてもらいたい、と思うのも無理はないかもしれません。



また、自分の出来が悪いと言うことが主題のハコベさんの言い分を聞くと単に
「出来が良いから大丈夫ですよ」と言ってもらいたいだけではないか、とも思えるかもしれません。


そもそも、
「私は毎年本当に出来が悪いので、今年はもっとおできになる方に代わって頂いたほうが良いのではないか」と言われて「はい、わかりました」と言うのも角が立ちますし、
「今年こそ大失敗して皆さんにご迷惑をおかけしてしまうと思います」
と言われて「そうですね」ともいえないでしょう。


相手の立場に絶ってみれば、まあこうするしかなかったのかとも思えるやりとりです。



ハコベさんが「やりたくない」と明確に言えなかったのはそれがとても「わがまま」なことだと思えたからです。



また、どんなことであれ「ノー」ということは相手との間に波風を立てることになるということも恐れています。


しかし、その姿勢を続ける限り、毎年役員を引き受けることになり、
二重うつ病の再発も防げなくなってしまいます。


今年こそは役員を引き受けないようにしよう、と治療の中で
ハコベさんと話し合いました。





そして、そのための作戦を立てていきました。
ハコベさんが「やりたくない」ということをどのようにして伝えるか?ということを話し合っていきました。


ハコベさんはどうしても「やりたくない」などというわがままはいえない、と言いました。



なぜいえないのかということを尋ねていくと
「自分が周りの迷惑に配慮できない人間だと思われてしまう」というのがその理由でした。


実際には、何年も役員を引き受けていて周りの迷惑に配慮できないも何もないのですが
ハコベさんのその感じ方は尊重することになり、それも表現するすることになります。



最終的に、ハコベさんは
「皆さんにご迷惑をかけないように本当は引き受けたらよいと思いますが
 何年も実力以上の仕事を続けてきたので少々疲れております。
 今年は勘弁していただけませんか?」ということになりました。



また、
どんなふうに翻意を求められても
「そういっていただけるのは光栄なのですが、ごめんなさい、
 今年はどうしても出来ません」と応え続けることになりました。





ハコベさんは当日、かなり緊張したそうですが
練習どおりに言うことが出来ました。

すると誰も翻意など求める人などおらず「それもそうだ」と受け入れられ
「よく何年もやっていただけましたね」と感謝すら表明されたそうです。

今まで不可能だと思っていたことがあまりにもすんなりと実現してしまったので
ハコベさんは拍子抜けすると同時に自分にも何かの力があると感じられたそうです。



それは、コミュニケーションによって事態をコントロールするという力であり
ハコベさんがそれまでに感じたことも無い力でした。







 





■安全で分かりやすい伝え方をする


気分変調性障害の人が重要なことを伝えられないのは
それが当然の権利だという感覚がないのも一つの理由ですが
「伝えたときに起こる事が怖い」ということも大きな理由です。


自己主張をしたり、自分の不快さを表現したときに
相手がどう反応するかという事を考えると
伝えないほうがまし、という結論になってしまうのです。


ここでは、その心配を解消するために、安全で分かりやすい伝え方について
整理してみたいと思います。



まず、人はどういうときにムカっとするかということですが
それは、自分自身について何か決め付けられるようなことを言われたときです。
自分の事情は自分にしか分からないのに、
それについて何かを決め付けられると不愉快に思う、というのは当然の心理です。


ですから、相手を不愉快にさせずに何かを伝えたければ、相手について決め付けるような要素を
排除すればよいのです。



具体的に言えば「自分の気持ちを伝える」ということに専念すればよい、
ということになります。


たとえば、先ほどのハコベさんが成功したコミュニケーションも、
自分の気持ちを伝えることに専念した形になっています。


同じテーマでも、もしも「あなたたち毎年一人の人間にばかりやらせて、悪いと思わないのですか」
などと攻撃的な言い方をしたら、場の雰囲気は全く違ってしまっていたでしょう。
「よく何年もやっていただけましたね」という感謝の言葉も出てこなかったと思います。



「あなた」を主語にすると、どうしても相手への決め付けになってしまいますが
「私」を主語にして、自分の気持ちを語っていくと言うことが最も安全な話し方なのです。













■「自己主張=わがまま」という苦しいスキーマ


実は、気分変調性障害の人は、そのような話し方をあまりしたことがありません。
なぜなら、自分の「欠陥」を見破られないように、
自分を隠しながら生きているからです。
「私」を守護にして、自分の気持ちを伝える、
などというリスクの高いことは避けてきたはずです。




しかし、ここでみてきたように「私」を主語にしてじぶんのきもちをかたることが
実は最もリスクの低いことなのです。


リスクが低いどころか、他人とのつながりを感じ、ハコベさんのように
自分自身の力を感じる機会にもなります。



このようなチャンスを逃し続けてきたことが
現在の状態に繋がっている、ということにもだんだんと気づいていくと思います。


もちろん、チャンスを逃してきたことは病気のためにしかたがなかったことであり本人の責任ではありません。
ですから、こうやって新たなパターンを試していくことを「治療」と呼ぶのです。

なお、気分変調性障害の人は自分の気持ちを伝える代わりに
あいまいで間接的なメッセージを伝えてきたことが多いと思います。
ハコベさんもその良い例です。
本当は「役員を引き受けたくない」ということを伝えたいのに、
実際には「自分のできが悪いので迷惑をかける」という言い方になっています。







 

■「相手が本当に言いたいこと」を知る


気分変調性障害の人は、自分から相手に肝心なメッセージをほとんど伝えていないだけでなく
相手が本当のところ何を言いたいのかということもほとんど確認していないものです。



これも、気分変調性障害の症状を反映したものです。



物事を自分にとってネガティブに捉えてしまう人にとって
「何かを確認する」ということは、希望よりも絶望や不安を感じさせるものだからです。




しかし、相手は何故そんな事を言ったのか、相手は本当にそういうことを言いたかったのかという事を確認するのは
相手から役割期待を知るために不可欠なことです。


ネガティブな結果を予測してしまう気分変調性障害の人にとって、相手の言いたいことを確認するのは
とてもハードルが高いことです。

けれども、治療者か、あるいは信頼できる身近な人に支えてもらって、一緒に検証して行けると、
ハードルはぐっと下がります。


実際に治療の中では、相手とのやり取りをじっくりと検証し、わかりにくいところを
質問してみると言うようなことも勧めていきます。

気分変調性障害の人は、もともと、ほとんど最悪の受け止め方をしてしまいますので、
確認作業は通常成功体験になります。



確認してみたら楽になった、ということを身体で感じていく中で、
だんだんと、気分変調性障害の症状に足を引っ張られながらも、
確認してみようとする習慣がついてくるのです。


















ーー症例

気分変調性障害を持つ女性会社員フキさんは、会社の同僚が
雑用をフキさんにばかり押し付けてくることを不満に思っていました。
同世代の動力に過ぎない彼女は、上司でもないくせに、
コピー取りや食器洗いをフキさんに命じてくるのです。
彼女は万事「上から目線」で、フキさんのことを場回にしたような
言動もよくとっていました。

フキさんは、自分の不満を感じていましたが
決して彼女に逆らわず、事態は変わらずに続いてきました。

面接の中で、このパターンを何とか帰られないだろうか、
という話し合いをしました。








 

・コミュニケーション分析


上司でもないのにコピーを命じるなんて、おかしいですよね。

…そうなんですけど…彼女はそういう人なので。

彼女は他の人に対してもそうなんですか?

いいえ、相手を見るんだと思います。上司にはおべっかを使うし。

では、なぜフキさんに対してはそんな態度をとるのだと思いますか

私は、何も言い返さないし、人望もないから、扱いやすいんだと思います。

なるほど、ちなみに、フキさんはなぜ言い返さないのだと思いますか?

波風を立てたくないんです…それに一つひとつは大騒ぎすることではありませんので。
ちょっとコピーをとったり食器を洗ったりすればよいだけのことだからです。
いちいち大騒ぎするのも大人気ないかと。

ああ、なるほど、そう感じるんですね。
上司でもない人から一方的にあごで使われたら普通は問題にすると思いますが
慢性のうつ病をお持ちだから、そういうふうに自分に厳しいものの見方をされるのですね。
コレは今までにも話してきたことですよね。

…はい。でも、本当にそうなのでしょうか?コピーをちょっととってあげるくらい、
大人なら文句を言わないでやるべきではないでしょうか?

もちろん、対等な関係の中であれば、ちょっと頼まれたらやってあげてよいかと
思いますが、フキさんと彼女との関係はあまりにも一方的ですよね。
たとえば、彼女が他の人にそういう態度を取り続けていたら、
その被害者の人に対して、フキさんは「大人なら文句言わないでやるべき」と突き放すようにいいますから?


…まさか


そういう人に対して、どうすると思いますか??

何かと状況を変えてあげたいと思いますが…私は、はっきりいえないと思うので、誰かが指摘してくれたらいいかなと思いながら
その人を手伝ったりすると思います。

そうですよね。それが普通の感覚ですよね。
何とか変えてあげたい状況ですよね。
フキさんは、それだけ理不尽な目に遭っているのであって
大人なら文句を言わないでやるべきなどではないのです。
でも、そう感じてしまうのは、病気の影響なのだ、ということを見てきましたよね。


はい


さて、病気によってそう感じさせられているとしても
そのままにしておいてたらフキさんのストレスが積み重なって、病気はよくなりませんから
少しパターンを変えて生きたいと思います。
彼女は、いつもどんな風に命じてくるのですか?

ちょっとこれコピーとって、と、上司みたいな口調で。

そうするとフキさんは堂思いますか?

手が空いているときにはまだましなのですが…本当に忙しいときとかは
「えっ?今?」と思います。

そうですよね。それで実際に、彼女には何と言っているのですか?

…「はい」と。

「はい」だけなんですね。

はい

それで、そのときに忙しくてもやってあげるんですか?

はい。

それは大変ですよね。
本当はやってあげる筋合いが無い話ですから。
普通に断っても良いくらいですが
それでは抵抗が強すぎるでしょうね。


…ちょっと無理だと思います。

では、どうでしょうか。
本当に忙しいときには断る、というところからはじめてみるのは。
コピーそのものを断るのではなく今は忙しいという事を伝えてみるあたりから。

そうですね…それなら、まだいえるかもしれません…自信はないですが…。

どういうところが心配なのですか?

…彼女が怒ってし合って、ひどいことを言われたり、他の人に悪口を
言われたりするのではないかと…。

そういうことをしそうなひとなのですか?

…わりと感情的な人なので、怒らせるとちょっと面倒かな、と。

そうですか。では、怒らせないような言い方を考えて見ましょう。
「ちょっとコピーをとって」といわれたときに、忙しくて手が離せなかったら
どう言いましょうか?


…「ごめん、今どうしても手が離せないの」…?

いいですよね。「ごめん」と言っているので、相手への配慮も感じられますよね。
どうですか、こう言われたら怒ると思いますか?

…わかりません。普通の人だったら怒らないと思いますが、彼女の場合は…

そこは大切なポイントですよえん。
どんなに誠意を尽くされても怒る人はいますよね。
それはその人の問題ですよね。色々な事情があって、うまくふるまえないのでしょうから。

…はい。

でも、そのレベルだったら、少なくとも職場のほかの人たちはフキさんの味方になってくれる
のではないでしょうか。
自分の本来の仕事が忙しくて、他人からひょいと頼まれたコピーが取れないことを
「ひどい」と思う人は居ないと思いますよ。

ちゃんと配慮のある言い方をしているわけですし。


…はい。

「ごめん、今どうしても手が離せないの」と言って、相手が
「じゃあ、いつならできる?と言ったらどうしましょか」

そのときは、仕事のきりのよいところで、と言います。

そもそも断っても良い話だと思いますが
そのくらいはやってあげたいですか?

はい…出来ることなら


そうですか、でも、同じコピーをとるのでも、相手が言ったときに
自分が無理をしてでもやるのか、それとも自分にとって良いタイミングやるのか、というのは大違いでしょうね。

はい。

一言「今どうしても手が離せない」ということによって
物事を自分のペースで進められれば、大きな進歩ですよね。やって見られそうですか?

…努力してみます。







****




実際に、フキさんは、かなりの勇気を出して「ごめん、今どうしても手が離せないの」
と言ってみました。相手はちょっとびっくりしたようだったそうです。

しかし、恐れていたような事態にはならず、
相手は不快そうな顔をしたものの怒り出すこともなく
その後はフキさんに何でもかんでも命じると言うパターンに明らかに変化が起こりました。


それまで、この不健康な関係性を維持していた一因は明らかにフキさんが
「ノー」といわないことにあったことがわかります。



「コピーをちょっととってあげるくらい、大人なら文句を言わないでやるべきことではないですか?」
という疑問に象徴されているように
「不満を感じるなんて大人気ない」という思い込みによるものでした。

この思い込みをひっくり返すために「他の人に同じことが起こったら」という視点で見てもらいました。
その人にも同じように「不満を感じるなんて大人気ない」というだろうか、
と考えてみれば、この状況をより客観的にみることができます。


そんなふうに自分の怒りを肯定する際には
「他の人に同じことが起こったら」という状況を考えてもらうとうまくいくことが多いです。

2013年3月18日月曜日

どうか彼女達が自分を許せますように



◇「頑張れない自分を許せない」彼女達に救いと支えを




いろいろ不調で死にたい。やばい。体調悪いとメンタルも悪くなる。

死にたい。やばい。メンタルがどん底すぎる。

ほんとは1年くらい休みたいです。


どこでも浪人、留年してないからずっと止まってない。



Twitterにもリアルにもハイパーな友達が多い。
私はクズ。そういう感情自体が、病気なんだけどね。自分に価値が見いだせない。死にたい。これも病気。




****





誰か彼女を救ってあげてください。
もうどれだけ頑張ってもがんばり足りないんです。自分を許せないのです。



どれだけ何を達成しても自分を許せない状態なんです…





とは言うものの、悲しいことに彼女を救うのはタイミングしかないのだろう。頑張れない自分を許してあげること、身体が完全に動かなくなること。このどちらか2つのタイミングが訪れるまでは、彼女は辛すぎる毎日を走り続けることでしょう。

どうしようもない場所までたどり着かないと分からないことがあるんだ。だとすると、限界と分かっていつつ自分を許さないことに大きく観れば意味がある。どっちにしろ、そこまでいかなければ次に進めないんだから




いつの日にか、どうしようもない状況(=本物の限界)まで走り抜けて辿り着いた彼女達を、
誰かが優しく受け止めて支えて欲しいと思う。
そして、立ち止まることが出来ない彼女が燃え尽きるまで走ることを、
遠すぎない場所で見守ってあげる存在もどうかあってほしいと思う。











 


■足りないと感じる心が、自分を苦しめる


「頑張りすぎ」とは、一言でいえば、「どれほど頑張っても足りないと感じてしまう心」のこと。

もう、十分にがんばったから、このくらいでやめておいてよいのではないか、とか、
他のことのバランスにおいて、これはこの程度でやめておいたほうがよいとか、
そいいう感じ方ができなくなるのが「頑張りすぎ」です。


ひとたびそういうモードに入ってしまうと、どれだけ頑張っても、
「もっと頑張るべき」「まだ頑張りが足りない」と思ってしまうので、心はどんどんボロボロになってしまいます。


これが最もひどくなるのが、うつ病になるときの頭の中です。


うつ病は確かに物理的な過労がきっかけになって起こることが多いのですが、
その際には物理的な過労だけでなく、精神的な過労が発症のプロセスを加速させていきます。
常に、「もっと頑張らなければ」という思いになってしまい、物理的には休んでいるはずの時間ですら、
頭の中は「もっと頑張らなければ」と仕事に追いかけられる、ということが起こってきます。



こんな状態では休息をとることができないので、どんどんエネルギーが消耗していき、うつ病になってしまうのです。

ですから、うつ病は「頑張りすぎ」の一つの結果だと言えます。






 


■「頑張りすぎ」をやめる=足りないと感じる心の手放し


一方の「頑張る」は、「自分ができるだけ頑張る」ということ。


頑張ると、達成感を得ることができます。
頑張りを「十分」と感じることができるのです。

たとえ目標に達していなくても「今の時点ではこれ十分」と感じることができます。


自分が望む方向に向けて努力し、自分には力があると感じ、
「今の時点ではこれで十分」と達成感を覚えられれば、自己肯定感も高まりますし、人生を豊かにするでしょう。



ですから、「頑張りすぎ」をやめるということは、単に「頑張る量」を減らすということではなく、
「どれほど頑張っても足りないと感じてしまう心」を手放すということなのです。


結果として、「頑張る量」も減ることが多いですが、そこに本質があるわけではありません。


実際に、ずいぶんたくさんの量を頑張っていても、生き生きとしていて、
全く心がボロボロになっていない人もいますね。


なお、このように見てみれば、うつ病の人に対して「頑張って」と励ましてはいけない、と言われるのは当然のことです。

 









■頑張らなければ心がボロボロには、ならない


心がボロボロになっている方は、例外なく、頑張ってきた人なのです。
ここまで本当によく頑張ってきました。


その上で、ですが、ボロボロな心をそのままにしてしまうと、
うつ病などの形で心身を病んで行くことにもなりかねません。


それに何と言っても、人生の質はもっと向上させて良いもの
「心をボロボロにしながら何とかゴールまで走りぬける」人生ではなく、
もっと楽に温かく生きていく豊かな生き方があるのです。

他人任せの対人関係は苦しいだけ




◇自信が無いから相手任せになる


自分は「できそこない」だと思っている人は相手に期待することも、自分自身が期待されていると思っていることも、
現実に比べると「自分をいじめるような形」に歪んでいることが多いものです。


自分が人間として当然の扱いを受ける価値があるということをわかっていないのです。

これは、役割期待のずれがそのままつながっていきます。










ーー症例


筑紫さんは、自分はいつも人の中で浮いてしまうと悩んでいました。



最近始めたアルバイトも、他の人たちは親しそうに話しているのですが、
筑紫さんだけは溶け込めないのです。

別にいじめられているわけではなく、感じよく挨拶してくれたりはするので
どう見ても筑紫さん側の問題のようでした。

筑紫さんは、自分はやはり人間としてどこかかけているのだ、と思っていました。



筑紫さんと周りのやりとりについてよく聴いてみると、
筑紫さんから周りへの働きかけは、堅苦しいあいさつをするだけだということがわかりました。



それ以外の状況では、話しかけることはおろか、微笑みかけることすら殆どしていないのです。
また、ほかの人たちが話しているときにも、筑紫さんは決して近寄らず、
興味がありそうな顔もしていないことがわかりました。



***






筑紫さんがそのような態度でいるのは、もちろん自分に自信がないからです。
積極的に人に話しかけたり笑いかけたり、
人が面白そうな話をしているところに図々しく入って行ったりしたら
「何様のつもり」と思われるかもしれない、楽しそうな雰囲気を壊してしまって迷惑をかけると思っているのです。



でも、相手の立場に立ってみると、見え方はだいぶ変わります。


筑紫さんの態度からは自分と親しくしたいのかどうかもわかりません。
人付き合いが嫌いな人なのかもしれないとすら思うでしょう。
筑紫さんとの付き合い方の距離を測りかねてしまうと思います

このような状況で、筑紫さんが相手にどんな役割を期待しているのか、
ということを整理していくと、この状況の不自然さがますますよくわかります

筑紫さんは

「自分から話しかけなくても、自分が興味を示していなくても、
 自分が本当は人と話せなくて寂しいのだと言うことに気づいてくれて、やさしく話にも入れてくれる」

という役割を相手に期待している。

これは、一度でも相手に伝えておけば実現可能な役割ですが、一度も伝えたことも無く
最近始めたアルバイトで、お互いのことを良く知らない状況では相手に超能力でもない限り、
まず実現するはずの無い役割期待です。




「自分は話しかけるのが苦手だけれども、いつでも人と話したいと思っている」
ということをなんらかの形で伝えておけば、ずれはぐっと改善されるでしょう



相手がすべきことは
「やさしく話しに入れてくれること」だけになるからです。
これなら多くの人にとって実現可能なことでしょう。




あるいは、「自分が興味のありそうな顔で見ている時には話しに入れて欲しい」
という期待をするのもよいでしょう。

そのためには、筑紫さんは「興味のありそうな顔で見る」という形でコミュニケーションを
することになります。
(ただし、言葉を使わないコミュニケーションの場合は性格に気づいてもらえないことも多いので
 確実だとは言えませんが)


これは、相手とのコミュニケーションに参加することで結果の一部に責任を負うことになり
自分が結果の一部をコントロールしているできるということになります。




自分が話に参加したいときには、興味のありそうな顔をすれば、望んだ結果を得ることができるのです

そして、現在の無力感からその分、抜け出すことができるでしょう。



役割期待のズレはあらゆる人間関係で起こりうるものですが
自分に自信がなさ過ぎる人の考え方は、ずれをさらに広げてしまいます。


筑紫さんが自分のことを「どこか欠けている」と思っていなければ
「親しくしたければ自分から話しかける」というのは「人間は、親しくする人を自分から選ぶ権利がある」ということや
「話しかけたときには、それなりに礼儀正しく扱ってもらう権利がある」
ということなど、「人間として当然の権利意識」に基づいていると同時に
「親しくしたがっているということが分からなければ、どう扱ってよいかわからない」という相手側の当然の限界を考慮したものです。













■「自虐のメガネ」をかけていませんか?


「自分は嫌われやすい」というメガネは、今までの経験や「プチトラウマ」からつくられているかもしれません。
今すぐにメガネを外すことが難しくても「自分は嫌われやすい」というメガネをかけている、ということに気づくだけでも、ずいぶん状況を変えていくことができます。


「嫌われた?」と思うときに陥っていくスパイラルは、
「そういえばあのときも…」「この前、私、あんなこと言っちゃったし…」
「電話やメールが多すぎて、めんどくさい女だと思われているかも…」
などと、次々「嫌われているかもしれない証拠」が出てきて、どんどん不安になっていく、というもの。




そんなときに、「そもそも私は自分は嫌われやすいと思うメガネをかけているんだった」ということを思い出せば、スパイラルに本格的にはまることを防げるはずです。
「嫌われたかもしれないけど、ここで結論を決め付けないで、次に会うときの様子を見て考えよう」と思ったりすることができるかもしれません。


「自分は嫌われやすい」メガネ以外にも、「自虐のメガネ」はいっぱいあります。

「どうせ自分は失敗するだろう」というメガネも、新しい挑戦の足を引っ張る代表的なもの。
何か新しいことをしようとしても「どうせ自分は失敗するだろう」というメガネがあると、
「○○したらどうしよう」が次々と出てきて、新たな一歩を踏み出せません。
そして、結局何も出来ずに終わってしまうため「思ったとおり、人生失敗だ」となってしまうのです。



こんな「メガネ」で自分を見ることが当たり前になってしまっている人は、
自分が思いこみのメガネをかけていることにすら、なかなか気づけません。


そんな人のために、「自虐のメガネ」の簡単な見つけ方をお知らせしておきましょう。


たとえば、親しい友人から「恋人に電話をしたのに出なかった」あるいは「メールしたのに返信が遅かった」という話を聴いたときに、「きっとあなたは嫌われているのよ」というでしょうか。

言わないですよね。


それよりも、「きっとたまたま忙しかったのよ」「もともとずぼらな人なんじゃない?」など、「それ以外の可能性」について語ると思います。

ちょっとした話を聴いて「きっとあなたは嫌われているのよ」と決め付けるなんてひどいことだと私達は知っているので、
そのような配慮するのです。



あるいは、何か新しいことを始めようとしている友人に対して、「どうせ失敗するから」などというでしょうか?
それよりは「頑張ってね。あなたならきっとできると思う。もしも困ったことがあったら相談して」というのではないでしょうか。



このような、他の人に対してなら言うようなことを自分自身には言えず、
むしろ「嫌われたのではないか」「どうせ失敗するのでは」という厳しい言葉を浴びせている、ということそのものが、
「自虐のメガネ」をかけている証拠です。

前向きな考え方がなかなかできないときは、自分の立場を他の人に置き換えたときに、自分が相手にかけてあげるであろう言葉を書いてみてください。
自分を責める「メガネ」を通しては見えない世界が、いっきに広がるはずです。











■「自分の立場」を少し離れて見ると

何事も、つい悪いほうに考えてしまう「癖」をなおしたい、というとき。


恋人に電話をしても出ないときや、メールの返信が遅いときに、「嫌われた?」と思ってしまう、
などというのもそんな癖の一つです。
実際のところはわからないのに、「自分は嫌われたのではないか」というストーリーを作ってしまうのです。


これは常に「自分は嫌われやすい」というメガネをかけている、と考えると分かりやすいと思います。


起こっていることは単に「電話を掛けたけれども相手が出なかった」「メールの返信が遅い」ということだけなのですが、
それを、思い込みのメガネを通してみてしまうと、「嫌われた?」と感じてしまうのです。


同じ現実であっても「自分は愛されている」というメガネを持っている人であれば、「何か電話に出られない用事があるのかな」と考えたり「本当に返事が遅くてずぼらなんだから!」
と思ったり、いずれにもしても「何か事情があるはずだ」と考えるでしょう。














■「自分を癒す」とっておきの方法


幼少期からの生活の中で「相手が下す評価が自分の価値を決める」という感覚を形成してしまうと自分に自信がなくなっていきます。

相手のプラス評価がなければ自分を肯定できなくなるからです。




実は、人の評価が気になる、というのは、過去から積み重ねられてきた「プチ・トラウマ」のため。



医学的にトラウマ(心的外傷)というと、命に関わるレベルの体験によるものを言います。
しかし、それほどではなくても、心が傷つけられる体験を私達は日常生活の中で沢山しているものです。
命に関わるレベルではないけれども、他者からつけられた傷を「プチトラウマ」と呼んでいます。

批判、ネガティブな評価、人格否定など、さまざまな体験から受けた「プチトラウマ」があると思います。

こういった「プチトラウマ」があると、これ以上、人からいやな事を言われないように、隙を作らないよう、人目を気にするようになります。


これが「プチトラウマ」の症状です。

もっと、元気に生きていくためには、自分の「プチトラウマ」を少しずつ癒していくことが必要。
少々時間が掛かるかもしれませんが、自分で自分を居やすいからは、誰にでも備わっているものです。


2013年3月17日日曜日

失われた思春期を繰り返さないために





◇「両親を諦めた」を我が子に繰り返させないために



10代は親もある程度覚悟が必要な時期。
心の病や、様々な問題行動が起こりやすい時期でもある。

現在成人している患者さんであっても、最初に摂食障害などの思春期問題が発症したのは
10代だったというケースも珍しくありません。


そのような方の中には
当時は病気だと言うことにも気づいてもらえないまま、「問題児」として扱われたり、
自分の心の中だけに苦しみを押し込めて暮らしていた人も居ます。

「自分ガ親を頼らなかったから、こいつも勝手に乗り越えるだろう」という負の連鎖は、どうか、あなたでストップさせて欲しい。苦しみを受け継がせないで欲しい。





10代の子どもとかかわる上で
最も大切なことは、実は非常にシンプル。


ポイントとなるのは「自尊心」と「コミュニケーション力」です。






自尊心とは自分の存在を肯定する気持ちです。

心の病になる子どもも、非行や犯罪に走ってしまう子どもも、「自尊心」に問題を抱えていることがほとんどです。
人間は自分の存在を肯定できてはじめて前向きに生きていくことができますし、
社会とも折り合っていこうと思えるものだからです。


自尊心が高い子どもは
自分の他人も大切にすることができるのです。




自尊心と密接な関係にあるのが「コミュニケーション力」です。
自分の気持ちを分かりやすく伝えることで他人との繋がりを深めたり、
自分が求めるものを得たりしていく能力です。

自尊心が低いと「自分の言うことなどどうせ話しても聞いてくれない」と
思い込んでコミュニーション力も居てかしてしまいますが反対に、コミュニケーションを通して、相手とのつながりを感じると「自尊心」が育つ、という側面もあります。





実は、親は子どもにあまり確かなものを残してあげることができません。

いくらお金を残したとしても
この不安定な時代、どうなるかわかりません。

お金と学歴に恵まれていたからと血って
孤立して心を病んでしまえば、人生に絶望することにもなりかねません。



親が子どもに確実に残して上げられるものは何かを考えてみると、
どんな困難な状況に直面しても、自分の価値を信じて前向きに対処できる
「自尊心」と、人に支えられながら問題を乗り越えていける「コミュニケーション力」こそが
一生の財産と言うことになるのではないかと思います。











 


■自尊心の重要性

思春期には、いろいろな誘惑があります。
誘惑に駆られると言うのは
それ自体は悪いことではありません。
そうやって、新しい可能性に手を出してみて試行錯誤していくことも
思春期の大切な仕事です。
そのときに自尊心が高ければ「どこかおかしい」ということに気づきやすくなります。



一方、自尊心が低いと「自分なんて」と思っていますから
本当に破れかぶれな手当たり次第の行動をとることさえあります。

自分を満たしてくれそうな気がする方向に行ってみて失敗したら
「自分は駄目なんだ、死んでしまおう」と思い、今度は別の方向から甘い言葉をかけられるとそちらに依存しては「あの人に裏切られた」ということになるようではジェットコースターのような人生になってしまい、試行錯誤から何かを学ぶと言うよりもぶつかるたびに傷が深まるようなことになりかねないのです。


覚せい剤を使ったり「援助交際」をしたりする人たちに向かってよく言われるのが
「もっと自分を大切にしなさい」というセリフです。

言いたくなる気持ちは分かりますがこれは実は本末転倒な言葉なのです。
自分を大切に出来ない(自尊心が低い)結果として、
薬物依存などが起こってきているわけです。

自分などうまれてくる価値がなかったと思っている人
(そういうメッセージを周囲からも受け取ってきた人)に向かって、
「もっと自分を大切にしなさい」と言っても、ピンとこないのは当然だと思います。

むしろ、自分がいかに大切な人間なのかを実感できるような体験を与えてあげることが必要なのです。



自尊心が低くなってしまうと、人の思いやりをまっすぐに受け止めることができなくなります。
「どうせ私なんて」と思っていると、
人のメッセージを歪んで受け止めがちになります。
「どうせ私なんて」と思っていると、人のメッセージを歪んで受け止めがちになるのです。
こんなに価値の低い自分のことを本気で心配する人がいるわけがない、
何か裏があるかもしれないし、単なる気まぐれで、どうせすぐに愛想を尽かすに決まっていると
思ってしまうのです。













■「いい子」は要注意


過保護というのは、大人が先回りして「正解」を教えてあげたり、
代わりにやってあげたりすることを言います。

これは子どものためにやっているように見えますが、
実際は、大人が「子どもに任せておいたら失敗するのではないか」という
自分の不安をコントロールできない結果として起こります。


子どもが自尊心を豊かに育てていくためには
きちんと試行錯誤をすることが必要です試行錯誤をしないと
自分にそれなりの自信を持てるようになりません。


ヨチヨチ歩きの子どもに対して、
転んだらかわそうだから、と転ぶ前にいつも抱っこしていたら、いつまでたっても歩き方を覚えないし、
転ぶのを避けるための筋力もつきません。




心の成長も一緒です。


傷ついたらかわいそうだから、と傷つく前にいつも「正解」を与えてばかりいたら、強い心は育たない。
挫折に弱い、自尊心の低い人間になってしまいます。


過保護にせずに試行錯誤できる空間を作ってあげると言うのは
大人自身の不安をコントロールすることでもある。



親がどれほど不安か?を基準に介入するのではなく
介入が子供にとってどれほど必要か?を判断の基準に。


いい子というのは曲者です。

いい子というのはあくまでも大人から見たときのいい子です。


本人の側からみれば、試行錯誤をすることも出来なかった、ということなのです。








 

■ネガティブな感情を否定しない

感情とは、痛みのような身体の感覚と同じく、
本来は自分を守るための防御能力として人間に備わっているのだと言えます。


感情の問題を抱えている人の育った環境を見ると、
親が怒りなどのネガティブな感情について否定的だったという場合が殆どです。

怒りを感じるのは人間として弱い、あるいは未熟である証拠だと言うような刷り込みをされていて、
自分自身もその価値観を引き継いでいます。


ずっと感情を抑圧されてきたので
自分の感情を受け入れること自体が難しく、表現することなど考えられないのです。


また、虐待されて育った人や、
自分が正直に気持ちを言った結果不本意なことが起こった人にとっては、
自分の感情を感じたり表現したりするのは「危険なこと」という位置づけになります。
すると、自分がどんな感情を抱いているのかすらわからない、という人に育つこともあります。

自分の感情を抑制するどころか、自分の感情に気づくことさえできなくなるのです。

「モヤモヤしたネガティブな気持ちがあるが、それが何であるのかわからない」という状態は
心の病になる人や問題行動を起こす人に良く見られるものですし、思春期においては健康な人にも比較的よく見られます。


正体が分からなければ解決方法もわからず、その怖さから逃れようとして
過食などの病的な症状や問題行動にしがみつくこともおおいものです。



しかし、それでは現実に何も解決しないだけでなく
問題行動や病気に対して周囲がネガティブな反応をすることが多いので、
ますます「モヤモヤしたネガティブな気持ち」が増して、
悪循環が続いていくことにもなりがちです。















■子どもにとって安全な環境とは

しつけに関しては、もう一つ、重要な課題があります。
実は「しつけをきちんとすること」と「子どもにとって安全な環境を作ること」は決して矛盾することではありません。


子どもにとっての安全な環境のポイントの一つは
間違いなく、ありのままの自分を受け止めてもらえること。



二つ目のポイントは「一貫性」です。

虐待事件で逮捕される親は往々にして
「しけつ」のつもりでやった、と言いますが
しつけと虐待の境界線ははっきりしています。
その手段が暴力的かどうかということももちろんありますが
より本質的な違いは、子どもから見て一貫性があるかどうかという点です。

虐待の場合、ものさしが大人の機嫌次第(親の機嫌=相手の顔色、が自分の運命を決めてしまうという刷り込みがなされる)で変わります。


同じことをしても暴力的に怒られることもあれば、まったくお咎めなしとこともある。


そこから学ぶことは良識とか常識といったものではなく
単に相手の顔色を読むことや、主体性のなさです。





思春期に心の病気になる人は、このような家庭環境が多く見られます。


一方、しつけの場合、ものさしは子どもの側の言動にあります

同じことをすれば、
大人の機嫌がどうあれ、
いつも同じように注意されるのです。



良い厳しさとは「ものさし」がしっかりしていることなのです。
安全な環境の2つめのポイントは
この「一貫性」にあります。
自分が何を言っても、とにかく大人は聞いてくれる。
そして、大人の意見に納得できなければ反論を聴いてくれる。



大人がどこかで突然キレることなく
自分が続ける限りコミュニケーションが続く、という一貫性が、
子どものコミュニケーション力を育てるためにはとても重要です。












■母親の育て方、のせい?

どんな心の病も、生活環境の影響を受けることは確かです。
しかし、生育環境を母親一人が作り出すということはありえないことです。


もちろん、子供に対して母親が及ぼす影響は絶大で、
母親が大切な存在だということは事実です。

しかし、同時に、完璧な母親などどこにもいないということも事実です。


母親も人間ですから、いろいろな弱点があります。

そして、その弱点をわが子に向けるような形の子育てしかできなかったのはなぜか、ということを
考えていくと、けっして母親一人の責任だと言えるようなことはありません。
サポート体制がなかったり、周囲が母親を追い込むような構造になっていたりするからです。


心の病は、身の回りの人たちが
問題にどのように対処していたか?ということにも大きく影響されています。
たとえば、母親が育児に困難を抱えていた場合に
父親はそのことを批判するだけで助けようとしなかったら、子供は父親を嫌うと同時に
「人間は完璧にできないと批判される」
「人間なんて、しょせんは自己中心的で、困った人を助けないものだ」ということを学習してしまいます。

このように、人間同士の基本的な信頼感や安心感を持てず、
他人に評価を下す姿勢だけを覚えると、心の病につながりやすくなります。


子供の病気や問題行動を「母親の育て方のせいだ」と言ってしまうと、
人間は結局、助け合ったり信頼しあったりせず、
完璧にできない人を批判するだけだ、ということが再現されるだけです。












10代の子をもつ親が知っておきたいこと 
http://www.amazon.co.jp/%EF%BC%91%EF%BC%90%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%AD%90%E3%82%92%E3%82%82%E3%81%A4%E8%A6%AA%E3%81%8C%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%8A%E3%81%8D%E3%81%9F%E3%81%84%E3%81%93%E3%81%A8-%E6%B0%B4%E5%B3%B6%E5%BA%83%E5%AD%90/dp/4314010754

育児の不安定さをカバーする食事



◇悩みの原因は栄養不足?

たとえば、わが子が小さいうちからアレルギー性疾患を患っていたり、2歳になるにもかかわらず言葉の発達が遅くて自閉症の疑いがあったり、虚弱体質で風邪を引きやすく、学校も休みがちだったり。


こうなると親はいてもたってもいられない。


また、病気でなくとも
「感情の起伏が激しくて、扱いに苦労している」
「集中力がなくて学校の成績もあまりよくない」などの心配も。


でも、そんな風に自分を責める必要はありません。


なぜならそうした悩みを症状の原因はほとんどが単なる”栄養不足”だからです。


たとえば、アトピー性皮膚炎は
抗生物質やステロイド治療に頼らなくても
丈夫な皮膚や粘膜作りに欠かせない栄養素を補うことで治療できます。

また、原因の分からない頭痛やめまいは
鉄欠乏やビタミン不足などの栄養欠損による仕業です。
ほかにも子どもの不眠症、髪の毛が抜ける、あざができやすいといった不定愁訴のほとんどが栄養と深く関係しているのです。







昨今、ニュースでは小学生が授業に集中できず、
5分とイスに座っていられないといった学習障害や
学級崩壊の話題がたびたび取りざたされます。

それを見るたびに、世の中の子どもたちは
こんなにも栄養が足りていないのかと実感し
それに気づいていない親御さんの多いことも痛感します。


そういう子どもは悪い子なのではなく、自分を制御するだけのホメオスタシスが悪化してしまって自分をコントロールできなくなってしまっているのです。



いじめなどのトラブルで不登校になったわけではなく
『自分でも分からないけど調子がわるくなっちゃた』という子が圧倒的に多いのです。


喜怒哀楽が激しく、キレやすい。なかには幻聴や幻覚があり、
病院で統合失調症だと診断された子どももいました。
しかし、血液検査をしてみると、ひどい貧血と低血糖状態であることが判明しました。


精神疾患でもなんでもなくて単なる栄養不足だったのです。






産んでから① 育児

妊娠中に母親が栄養分をしっかり摂取して生まれてきた赤ちゃんの事を
「ビタミンベイビー」と読んでいます。
特徴は「夜鳴きしない」「まとめて良く寝てくれる」「感染症にかかりにくい」
「母乳を良く飲む」「アレルギー症状が少なく、皮膚がきれい」など、
たくさんあります。

栄養が十分に満たされている赤ちゃんは、
精神的にも安定していますから、育てやすく、いつも機嫌がいいために
はじめての育児にも余裕が出てきて、ますます愛情が増す、という好循環を産みます。


産んでから② 子供の健康

乳児湿疹やあせも、おむつかぶれはほとんどの赤ちゃんに起こり、
ビタミンベイビーも例外ではありません。
人間の赤ちゃんは未完成で生まれるものですから、
生まれたあと、環境や生活の中から皮膚や粘膜が鍛えられ、免疫を獲得していくものです。
ですが、アトピー性皮膚炎や喘息などのアレルギー症状は
体内環境も大きく影響していると考えられます。
おなかの中からしっかり免役を獲得し、
生まれたあとも栄養分が多い母乳をよく飲むことで
生まれてくる赤ちゃんがアレルギーを起こしにくくなることはいえると思います。



産んでから③ お母さんも調子がよい

母体として栄養をしっかり摂取しているとお母さん自身にも良いことが。


貧血が無く元気なので母乳の出が良い。
慣れない育児に奮闘する中で母乳が順調に出ると育児がとても楽になります。

ただでさえ、睡眠不足になりがちな時期でも、母親に体力があり、
母乳育児が成功しているだけで、育児は楽しいものになりえるでしょう。


加えて、産後に起こりがちなマタニティブルーもなく、あってもすぐに改善します。
出産して幸せなはずなのに、なぜか悲しくなって涙が止まらない、
といった症状は、ひどくなると産後うつや育児ノイローゼにつながる可能性があります。





 


■夜鳴き不眠にはVB6!

赤ちゃんの夜鳴きや子どもの睡眠トラブルにも栄養不足が関係している。

そんなことをいうと皆さん驚かれますが
睡眠を司る脳内ホルモンをつくる栄養が不足しているために怖い夢をみて夜中にパッと眼が覚めたり
泣き出してしまうのです。

それが不眠や夜鳴きのメカニズム。
そこで必要な栄養素はVB6とナイアシン。


私たちの脳以内ではタンパク質を原料に様々な神経伝達物質が作られますが
眠るときに必要なのはメラトニンという調整系のホルモンです。


 

 


■貯蔵鉄(フェリチン)欠乏

・朝、なかなか起きれない
・集中力が無くイライラしてキレやすい
・学校の体育の授業や部活について行けない
・学校では元気だが家に帰るとゴロゴロしている
・冷えやすく寒がり
・頭痛、めまいがある
・動機、息切れ
・いっぱい汗をかく


子供の健康や成長を妨げ、不安定な状態にする2大要因をあげるとするなら
低血糖症と鉄欠乏です。


一般医療では、貧血か否かを判断する基準にするのは赤血球に含まれるヘモグロビンなどです。
でも実は、これが低値を示すときはすでに相当の貧血ということになります。
なぜなら、ヘモグロビンが少なくなると、貯蔵してあるフェリチンが常に補給してくれる仕組みが
整っているからです。


ヘモグロビンが満タンでもフェリチンが減少してしまうと
人間の身体は鉄欠乏になり
様々な不定愁訴を引き起こします。
ヘモグロビンの数値を見ただけではわからない
”潜在性の貧血”が多くの子どもの身体の中で生じている。
たとえば鉄分不足の新生児なら表情に乏しくあまり笑わなかったり
夜鳴きが激しく、いつもグズグズ言って
お母さんを困らせるといった症状が現れるでしょう。



学童期になれば
朝起きられないから始まった、授業についていけない、
集中力がない、落ち着くが無い、イライラしやすく切れやすい、
学習障害などの問題行動を起こしやすくなることが予想できます。
なかには「昔は優しい子だったのに、中学に入ってから急に攻撃的になった」と言う場合も
決して性格が変わったわけではなく
これも鉄欠乏が原因です。






 

■低血糖症


子どもに何らかの不調を感じたら、まずは疑って欲しいのは低血糖。

感情の起伏が激しくキレやすい、無気力でやる気が起きない、
忘れっぽい、動機や頭痛、めまいがある、常に不安感がある、うつっぽい…


こうした症状のほとんどに実は低血糖症が関係している。


でも、「お子さんは低血糖症です」と言われてもピンとこないかもしれない。
もしかしたら「血糖値が低いって事?だったら甘いものを食べさせればいいの?」と
おもうかもしれませんけれど実は、それは間違いです。


むしろ逆です。



低血糖症は甘いものなど糖質の摂り過ぎによって血糖値が急激に上がることに起因して起こるのです。

そもそも、私たちの身体には血糖値を一定レベルに維持するための調節機能が備わっています。
血糖値とは血液中のブドウ糖の濃度のこと。
食事をするとこれが高まり、高くなると、すい臓からインスリンというホルモンが分泌され
血糖値を高めてくれるという仕組みになっているのです。

血糖値の変動が緩やかであれば脳のエネルギー源であるブドウ糖が安定供給され、
気持ちはいつも穏やかで、やる気や集中力のある状態が維持できます。


ところが、糖質が多く含まれる食べ物を摂取すると血糖値は一気に上昇。

すると、インスリンが大量に分泌され、血糖値は一気に下がることに。

こうして急激に上下を繰り返すと血糖値の調節がうまくできなくなり、自律神経が乱れることになります。


すると、気分の波が激しくなって、子どもの心身に様々な症状をきたすことになるのです。
最学の場合にはうつ状態になる。



子どもの食生活を振り買ってみてください。

毎日、甘いお菓子やスナック菓子を食べたり、
清涼飲料水を飲んではいませんか?
おかずよりも白いご飯やラーメン、うどんといった炭水化物を好んで食べる、もしくは
食べさせていませんか?

そうした食生活を続ける限り、低血糖症は治りません。







 



■自閉症・引きこもり


自閉症と診断された場合、日本の医療界では治療ができないというのが一般的な見解ですが、栄養で改善が観られるケースもあります。


脳神経の重要な材料になるタンパク質や鉄分、ビタミンB群の摂取が必要。

タンパク質は、そのものが神経伝達物質の原材料ですから、
これが不足すれば自閉症改善の土台を築くことができません。

そして鉄分やビタミンB群は、神経伝達物質の合成に不可欠な栄養素。
私達の精神状態というのは、興奮系、抑制系、調整系の物質の3つでバランスをとることで、成り立っていますが、
鉄分やビタミンB群がなければ、こうした物質がうまくつくり出せずアンバランスな状態になることに。


すると、緊張しやすい状態になり、神経が過敏になってしまいます。
自閉症の人が音や光に敏感に反応するのはそのためです。










■夜鳴き・不眠


赤ちゃんの夜泣きや、子供の睡眠トラブルにも栄養不足が関係しています。

睡眠を司るホルモンをつくる栄養が不足しているために怖い夢をみて夜中にパッと目が覚めたり、泣き出してしまうのです。それが不眠や夜鳴きのメカニズムです。


そこでメラトニンを作るのに必要なのはビタミンB6とナイアシンとタンパク質。



あと、低血糖症も不眠の原因に。

糖質を摂って上がった血糖値を人間の身体は一生懸命下げようとします。
すると2-3時間後には低血糖になり、今度はアドレナリンといった
興奮系のホルモンを分泌して血糖をあげようと戦闘モードになってしまうのです。
目が覚めて、眠れなくなるのはそのため
食生活を見直せば必然的に不眠症が改善できるのです。














医師も実践している子供が丈夫になる食事
http://www.amazon.co.jp/%E5%8C%BB%E5%B8%AB%E3%82%82%E5%AE%9F%E8%B7%B5%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%81%8C%E4%B8%88%E5%A4%AB%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8B%E9%A3%9F%E4%BA%8B-%E6%AB%BB%E6%9C%AC-%E7%BE%8E%E8%BC%AA%E5%AD%90/dp/4847019687/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1363377535&sr=1-1

不妊に悩んだら



○「不妊は女性、DVは男性」という偏見


基本的には女性の体を妊娠に適した状態にするための考え方を書き留めておきますが、
不妊は女性側だけの問題じゃない。


「不妊っていうのは男性側に問題が無い」っていうレッテルに苦しむ女性も多く居るんだけど、
それは間違いだし、それで傷つけられる筋合いも無い。



生産性のある悩み方をしよう。
正しい解決法を見つける方向で悩む、どうせなら。

不毛な言い争いで傷つけあうのはバカらしい。















◇女性の「鉄欠乏」と男性の「亜鉛欠乏」


不妊症改善を目的でサプリメントを摂取する方は、
「鉄」、「ビタミンE」、「ビタミンB群」が配合されたサプリメントを選ぶようにして下さい。


不妊症の典型的なパターンは、女性の「鉄欠乏」と男性の「亜鉛欠乏」であることが分かっています。


女性の鉄分が不足すると、粘膜の代謝がうまく行われないために、
子宮内膜が正常な状態になれなくて、着床しづらい状況になるからです。
一方、男性が亜鉛欠乏だと、精子の数や働きに問題が起こります。


亜鉛は非常に大切なミネラルであり
精子形成や前立腺の働き、精子の運動と活性化にもかかわっていて、
別名「セックスミネラル」とも言われています。
それにもかかわらず、男性に亜鉛欠乏が多いのです。

亜鉛が欠乏すると、意欲の低下や性欲の低下が起こるのも特徴です。



また、ビタミンE不足でラットが不妊になることは今や常識です。
女性ホルモンや男性ホルモンの材料であるビタミンEの摂取は必須でしょう。

さらに、卵子の理想的な成熟には、ホルモンだけでなく、
卵巣におけるたくさんの酵素蛋白などの連携チームワークが大事です。

それにはアミノ酸、ビタミン、ミネラルなどの十分な栄養素に満ちた体内環境が必要です。



赤ちゃんの脳は、妊娠6週目までに神経細胞がほぼ完成するため、IQの高い赤ちゃんを生むためには、
妊娠前からのビタミンB群摂取がお薦めです。

また、脳の神経伝達物質の材料であるビタミンB群を、
母体から十分にもらって生まれてきた赤ちゃんは、夜泣きが少なく丈夫で育てやすいと言われています。












■小さく産んで大きく育てる、は間違い


新潟大学の内山教授によると
低体重で生まれた子どもほど将来高血圧や心筋梗塞になりやすい、
小さく生まれて大きく育った子どもほど、
若年時より血圧が高い傾向にあると述べています。

 





■妊娠から出産まで赤ちゃんの元気は母体が決める


子どもの健康の基盤は、母体によって決まります。
母体の栄養状態が悪いと赤ちゃんは充分な栄養を蓄えることが出来ません。


低体重児(未熟児)として生まれることもあります。

低体重児は身体の器官が未発達であることが多く
このときに栄養欠損があると、発育遅延のリスクが考えられます。

また、お母さんからたっぷり栄養をもらってきた場合、その免疫力は少なくとも半年は持ちます。
家族中が風邪を引いても、赤ちゃんだけは大丈夫なことが
ありますが、それはお母さんからもらってきた免疫力のおかげです。


でも低体重児の場合はその免疫力がたった2ヶ月で切れてしまうのです。
妊娠を願う人、妊娠中、そして母乳を必要とする産後に至るまでぜひ摂って欲しい栄養素の代表格は、身体すべてを育むための材料となるタンパク質、脳神経の発達に影響を及ぼす鉄、皮膚・粘膜の材料になる亜鉛、そして夜鳴きを抑えてくれるビタミンB6。


赤ちゃんのためにも、母体のためにも、こうした栄養素が必要なのです。












・妊娠中に辛さを回避


栄養をしっかりと摂取した母体を手に入れた妊婦さんはつわりがほとんど見られず、あってもごく軽いものですみます。
これはしっかり栄養を摂っているためだと思います。

また、妊娠中期あたりから増え始め、後期に進むにしたがってひどくなるむくみもありません。

むくみがあると夕方になるにつれ身体が重い、だるい、疲れやすいなどの
症状が見られます。妊娠しているから仕方ないと思っている新婦さんも多いのですが、
これも蛋白質などの栄養を適切に補うことで解消します。

むくみがなくなると血圧も安定しますし、体重コントロールもしやすいでしょう。


次に貧血。
これも妊娠後期に向かって多く見られます。

妊娠すると体内の血液の量が増えます。
それにともなって身体も血液をつくる作業をがんばろうとするのですが、追いつかず、
血液が薄まることになり、貧血となってしまうのです。
通常の場合、そこで産婦人科で処方される鉄剤を飲むわけですが、
この章でもお話したように、鉄剤は非ヘム鉄なので吸収率が悪いのです。
保険適応のヘム鉄はないので、非ヘム鉄を処方されるのは仕方のないことなのですが…。


妊娠中は、鉄の必要量が増加し、相対的に不足するのですが
鉄分の重要性を知っている妊婦さんは吸収率のいい鉄分(ヘム鉄)をとるようにしていますので、
貧血も無く、とにかく元気です。


また、妊娠食はホルモンの影響から、
後期は大きくなった子宮に腸が圧迫されることから便秘になりがちです。

妊娠中は身体が劇的に変化していきますので、どうしても気持ちが不安定になるものです。

つわりのときにイライラしたり、赤ちゃんに会えるのが嬉しい気持ちと不安に思う気持ちが
言ったり来たりして、気持ちが一定しないのです。

栄養不足を解消すれば、気持ちの面でも安定し、楽しく元気にマタニティライフを
送ることが出来るのです。






・出産時に起きる良いこと

貧血が少ないため、出産時の出血が少なく、お産も軽くなります。
そのため、産後の肥立ちがよく、生まれたあとのお母さん自身の貧血がないために
非常に元気なのが特徴です。
また、うまれてくる時期や体重が理想的なのも特徴。
早すぎず遅すぎず、3000g前後の適切な体重で生まれてくるケースが殆どです。







 

 

■タンパク質

妊娠体質をつくるためにまず欠かせないのが、タンパク質です。
新しい命を生み出すためにも、その材料は不可欠です。


妊娠とはひとつの生命が誕生し、お母さんのおなかのなかで細胞が分裂・分化していき、3kg前後までに成長し生まれてくるまでの期間です。
そのため、普段以上にタンパク質が必要。

妊娠中には身体のむくみに悩む人が多いものですが、
実は、これはタンパク欠乏のサインです。

タンパク質の種類の一つのアルブミンがありますが
アルブミンは血管内に水を保持するスポンジのように水を含む働きをしています。
アルブミンが減ってしまうと、この水をすえない状態になります。
その結果、血管外に水がもれ、水分が増えてしまうのです。
これがむくみになるわけです。

同時にアルブミンは身体の中で「運び屋」の役割も果たしています。
ビタミンやミネラルといった栄養を宅配便のように身体のあちこちに届けているのです。


反対に、アルブミンがない、つまり、たんぱく欠乏が起こると
いくらビタミンやミネラルといった栄養があっても
それを必要とする場所に届けることが出来ません。

このように、タンパク質は他の栄養を働かせるためにも必要なのです。

赤ちゃんの成長にとっていちばん大切なことは
身体の全ての材料であるタンパク質が充分あることです。

 

 

■ビタミンB群

なかでも、妊娠にかかわる栄養として重要なのは葉酸とB12、ビオチン、B6です。

葉酸には赤ちゃんの脳の発育を助けたり、神経を作る働きがあります。
そのため、脳がつくられるときに葉酸は不可欠です。
また、葉酸欠乏は神経管閉鎖障害の発症リスクも高めます。

神経管閉鎖障害とは脳や脊髄がうまくつくられず
管の形にならないことが原因で起こります。

2分脊髄や無脳症などもこれに含まれます。


つわりやセロトニンの母子ともに欠乏させないためにはB6が欠かせません。
夜鳴きを防ぐのもB6です(セロトニン→メラトニン)

イギリスでは生理痛やPMSのときにB6が使われることもあります。







 

■フェリチン(貯蔵鉄)という考え方


鉄は粘膜をつくる材料になります。
赤ちゃんにとって居心地のよいベッドをつくろうとするとき
粘膜はクッションの役割を果たします。


反対に鉄欠乏で粘膜がうまく作られないと、かたくて寝心地の悪いベッドになってしまいます。


鉄の働きとしては赤血球をつくったり、体内の酸素を運ぶことが知られていますが
妊娠中のお母さんは自分の体内だけでなくおなかの赤ちゃんにも酸素を届けなければならないため、
赤血球の量が増えてます。

そのため、妊娠前の倍の量が必要になるのです。


鉄は女性の美しさとも深くかかわっています。
たとえば、コラーゲン。
美容に酔い栄養としてよく知られていますが
実はコラーゲンを食べてもそのままそれが吸収されるわけではありません。
残念ながら、コラーゲンは身体のなかに入るときに分解されてしまうのです。
それを体内で再合成するときに、鉄が必要となります。

皮膚の合成にも鉄が欠かせません。

骨の合成にも鉄が関わっていて、カルシウムだけでなく鉄がないと骨をつくることができません。



このように大切な鉄ですが残念なことに、妊娠可能な年齢の殆どの女性は
潜在的な鉄欠乏なのです。


鉄は体内の様々な場所に分布していてそのうちの7割が赤血球に含まれて居ます。


そのほかには組織鉄、フェリチンに含まれて居ます。

フェリチンというのは貯蔵鉄、いわば貯金している鉄です。
「潜在的な鉄欠乏」というのは、この貯蔵鉄が少ない状態を言います。


これは、私たちの収入と支出を例に考えてみるとわりかりやすいでしょう。

収入からは、毎日住居費や光熱費、食費などが引かれていきます。
そして余った分は貯金に回せます。
ところが、収入が減ってしまった場合はどうでしょう?
住居費や光熱費といた生活費は
毎月ある程度出ていく金額が決まっています。
そのため家計が苦しいときは貯金する金額を減らして
場合によっては貯金を切り崩してやりくりするのではないでしょうか。
これは鉄も同じです。
つまり、貯金として溜め込んでいる分から減っていくのです。

貯蔵鉄が減るということは鉄欠乏ですからもちろん身体にも様々な症状が出てきます。

たとえば、頭痛、めまい、手足の冷えといったいわゆる不定愁訴のほとんどが
この潜在的な鉄欠乏が原因と考えられます。


妊娠中は普段異常に鉄が必要になることを考えると妊娠中から鉄欠乏を改善しておくことが大切です。
鉄欠乏のまま妊娠してしまうとお母さんだけでなく赤ちゃんも栄養不足になってしまいます。



おなかの赤ちゃんには、お母さんから優先的に鉄をもらう仕組みが備わっています。

そのため、貧血になったり心臓肥大を起こすなどお母さんの身体にダメージが出やすいのです。


もちろん、赤ちゃんにとっても鉄欠乏は深刻。鉄欠乏により栄養がいきわたらないと、
低体重や未熟児で生まれる可能性があります。








■潜在性鉄欠乏性貧血


「潜在性鉄欠乏性貧血」は、不妊症、妊娠しても流産しやすい、胎児の先天異常、生まれた赤ちゃんのアトピー性皮膚炎や喘息などのアレルギー疾患のリスクを高めます。




このフェリチン値が40以下になりますと、潜在性鉄欠乏性状態です。

残念ながら、多くの日本の医療現場では、フェリチン値まで調べることがありませんから、見逃されてしまいます。
ヘモグロビンが基準値内でも、フェリチン値が低値では、疲労や貧血のような症状がおきます。

貧血というと、一般的には「めまい、立ちくらみ」などと考えますが、貧血の症状は多様です。







・貧血の多彩な症状

疲れやすく常にだるい(慢性疲労症状)、頭痛、肩こり、冷え性などの不定愁訴。月経痛、イライラなどの精神症状、PMS(月経前症候群)、原因不明の不妊症など



上記の症状がある場合では、まずは潜在性鉄欠乏を疑ってみてください。






特に結婚前の女性では、この潜在性鉄欠乏性が、不妊を引き起こす原因になりうることを是非知ってください。
 アメリカの不妊治療現場では、フェリチン値が40以下は不妊の原因になるとも言われていますから、医学的な観点から説明すると、少なくとも40以上になるまでは妊娠しにくいと考えます。


 またアメリカでは、元気な赤ちゃんを産むための理想のフェリチン値は100と言われます。


 たとえば卵管障害・子宮奇形などの器質的な問題・子宮内膜症などがないのに妊娠できない場合、または体外受精などの不妊治療を行っても妊娠できない場合、当クリニックで検査をさせていただくと、ヘモグロビンやヘマクリットは基準値内でも、フェリチン値が一ケタである患者さまがほとんどです。

 潜在性鉄欠乏性貧血が、不妊症の原因の大きな一つであることを知ってください。
 たとえ高齢出産でも、フェリチン値などの数値がよく、栄養状態がよければ、20代のお母さんにひけをとらない元気な赤ちゃんを産むことが可能です。

http://www.clinic-hygeia.jp/ex/ex-sterility.html








■ほんの少しのお酒で・タバコでも、赤ちゃんには影響大

お母さんが妊娠中にお酒を飲んでいる場合、
あなかの赤ちゃんの身体や脳の発育が悪くなる。
妊娠前は仕方ないにしても
妊娠が判明したら、
少なくとも、主産して自宅に戻るまでは
お酒は我慢して頂きたい。



もう一つ問題なのが喫煙です。
妊娠中のお母さんに止めていただきたいのはもちろんですが
タバコの場合、副流煙も大いに悪影響。

この副流煙には、直接吸い込む煙よりも有害な物質が多く含まれて居ます。
部屋の窓を開けて吸っているから大丈夫、換気扇の下で吸っているから問題ない、ということはないのです。


1日に吸うタバコの本数と赤ちゃんの出生体重の関係を調べたデータがあります。

それによると、タバコを全く吸わないお父さんの子どもに比べて
1日11本以上吸うお父さんの子のほうが出生体重が130gも低かったのです。


これは、たとえお母さん自身がタバコを吸わなくても
身近に居る人がタバコを吸っていれば、その煙の影響で赤ちゃんの低体重を招くことを
意味しています。
産まれたあとも、お父さんやお母さんが喫煙していると
乳幼児突然症候群(SIDS?)の確率が高まるのだそうです。





















「妊娠体質」に変わる食べ方があった!
http://www.amazon.co.jp/35%E6%AD%B3%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AE%E6%A0%84%E9%A4%8A%E3%82%BB%E3%83%A9%E3%83%94%E3%83%BC-%E3%80%8C%E5%A6%8A%E5%A8%A0%E4%BD%93%E8%B3%AA%E3%80%8D%E3%81%AB%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%8B%E9%A3%9F%E3%81%B9%E6%96%B9%E3%81%8C%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%AE%9A-%E7%9C%9F%E7%90%86%E5%AD%90/dp/4413037405


















分子整合医学(オーソモレキュラー・栄養療法)を受けられる診療機関検索
http://www.orthomolecular.jp/

2013年3月16日土曜日

あの人に、そこまで期待できるの??




◇喜怒哀楽を、どこまで付き合うか


楽しいことは誰とでもある程度、共有できる。
ゲームでもスポーツでも、楽しいと思えることは沢山の人と共有できるし共有することを苦に感じない。


ただ、苦しいことや真剣なことは、誰とでも共有できるわけでもないし
相手の苦しみを支えてあげたいと思うとは限らない。



自分が苦しいとき、相手に「支えて欲しい」と思っていても、相手は「喜楽は共有したいと思っているけど怒哀は面倒だから勘弁して」と思っているかもしれない。







こんなふうに、「自分から相手への期待」と「相手から自分への期待」がすれ違っていると、
互いに傷つく場面が増えてしまいます。

期待の交通整理し、その期待は現実的に持っていても良いものなのかどうかを検証することが
上手な人間関係の距離を作ることになるのでは、と最近は富に思う。


もちろん、距離をとったほうが良い人間関係も場合によってはあるということ。
無理に近づこうとするから、疲れ果てる。



 

 




■<対人関係上の役割をめぐる不和>の症例  


過食嘔吐、度重なる自殺未遂、という症状で受診した五月さん。
生きているがあまりにも辛いため、治療を受ける気持ちにもなかなかなれません。



五月さんには恋人がいて、病気の事も全て知っています。


五月さんは気分の浮き沈みが非常に激しいのですが
調子が悪いときに彼は「毎日だ、こっちも疲れちゃうよ」と言い、
そう言われると五月さんは
「私は彼に迷惑をかけている、こんな迷惑な存在は死んだほうがいい」
といって、手首を切ったりしています。



このようなパターンを最初から「対人関係の問題」として捉えられる人は多くありません。


五月さんもそうだったのですが
「自分の問題。自分さえよくなれば、彼も楽になる」としか考えられないのです。



実際には、このパターンは
「お互いの期待がすれ違っている状態」であると言えます。




五月さんはまだ認識できていませんが、「調子が悪い」というメッセージを出すと言うことは
「助けて」という悲鳴なのです。
そこで彼に期待されている役割は「病気で不安定な五月さんを支えてあげること」になります。



ところが、現実の彼は「毎日だと、こっちも疲れちゃうよ」と言っているわけですから
期待されている役割を果たしておらず、せいぜい「五月さんの調子がいいときは一緒に楽しく過ごす」
程度の役割しか認識していません。


そして、五月さんには「症状を自分でコントロールする役割」を要求しているのですが
それは五月さんには不可能なことなのです。



これを「五月さんの問題」ではなく、
「彼との関係の問題」としてとらえ直してもらうためには
しばらく時間がかかりました。


まずは彼とのトラブルと症状との関連に気づいてもらうところから
はじめました。




彼とモメると自傷行為が起こり、過食嘔吐もひどくなる、
という関連は明らかだったため、彼にも関係のある話であることが
五月さんにも分かってきました。

そして、五月さんに、もっと効果的な方法で彼に気持ちを伝えてもらうようにしました。
「どうせ私なんて迷惑なんでしょ」と手首を切る代わりに
「そういう言い方をされると見捨てられるように感じる」というような言い方をしてもらったのです。


その結果、彼は思っていたほど優しい人ではないことがわかりました。





彼との関係をこのまま続けるのが自分にとって良いことなのかどうかを五月さんは思い悩んでいましたが自分の調子が悪いときに、どんなにわかりやすい伝え方をしても彼の反応が「冷たい」こと、自分は子どもが欲しいけれども彼は子どもが嫌いなことなどを一つ一つ考えて、最終的には彼と別れる決意をしました。


不思議なもので、この瞬間に、彼女はずっと続いていた引きこもり状態から脱することができました。


別れは彼女にとって辛く、何度か症状のユリ戻しがありましたが
「元に戻るとどうなるか分かっているから」と固い決意で前に進みました。









 

 


■重要な他者が変わってくれなかったら


ーー症例 希さん


「過食を伴う拒食症」の希さんは、母親にずっと暴行などの虐待を受けてきました。
殺されそうになったこともあります。


母親は一応世間体を気にして治療に同伴してきましたが、
「三人子どもを産んで、病気になったのは、この子だけです。
 上の二人はちゃんと育っているのですから、私の子育ての問題ではなく、この子ができそこないだということでしょ」などと希さんの前で言ってしまいます。

また「この子を生んだのは失敗だった。だから子どもは二人でいいって、主人に言ったんですけど」
と、これまた希さんの目の前でため息をつきます。




希さんは目に涙をためて聴いていますが
後で「母はいつもああなんです」と言います。


そして、母親は
「もう時間の無駄だから希のために病院になんか来ません。
 病気で死んでくれたら、かえって助かります」と治療にも姿を現さなくなりました。

希さんは「実の母親にここまで嫌われるなんて、私はやっぱり出来損ないの人間なんだ」と言い、
母親に愛されない限り自分の病気は治らないと思い込んでいました。


あまりに攻撃的な母親に啞然となりますがが
今度は父親を連れてくるよう希さんに頼みました。


単身赴任をしていて事情を把握していない父親でしたが
面接に同席することで現状を知っていきました。


「今の妻は、とても病気の子どもの面倒を見られる状態ではない。
 親として許されないことを希に言ってしまう」ということに気づきました。




父親は、母親から離れたところで希さんが安心して暮らせるように
したい、と家を出て、希さんと二人でマンション住まいを始めました。
希さんは、父の経済的・物理的負担に罪悪感を抱きましたが
父がそこまで真剣に自分のために動いてくれたことに感動もしていました。



希さんのコミュニケーションの練習などは父親と行い、進歩しました。



また、母親については「温かい母親として自分を愛してくれる」
という期待を見直しました。
「温かい母親像」にお別れをして、できることしかできない実物大の
母親として認められるようになりました。











 

 


■親自身も癒されていないことを受け入れる


重要な他者が変わってくれなかったら、という心配は
実際にはそれほど問題になりません。

ただ、変わる力を持っている人でも、色々な事情から今はその時期ではないと言うこともあるでしょう。

「重要な他者」自身も病気で苦しんでいるケースもあります。


摂食障害の親の会などで、自分も癒されていなかったということに気づく親御さんは多いようです。
自分自身が親との確執をそのまま子どもとの関係に引きずっていたり、
夫婦の不和の解決を子どもに求めたり、離婚で受けた心の傷をカバーするために
子どもの「お受験」に熱中したり、仕事を辞めた自分の満たされなさから子どもを
「いかに自分がよい母親か」を証明する道具として育てたり、という具合にです。


また、完ぺき主義の人は子育てにおいても「完璧」を目指しますが
自分にとっての「完璧」にすぎず、
自分がハマって欲しい金型に子どもを完璧にはめ込むだけなのです。


もちろん、子どもの個性は親の金型とは違いますから
はまりきらずに飛び出すか、「自尊心」が低下し何らかの病気になるか、
ということになってしまいます。
本来の問題とはちがうところに解決を求める、という点では、親も子も同じです。


摂食障害の人たちが「痩せさえすれば満足できるのではないか」
と必死で身体にプレッシャーをかけるのと同じように
親たちも「子どもを思い通りに育てさえすれば満足できるのではないか」と
必死で子どもにプレッシャーをかけているのですから。


でも、摂食障害同様、親の問題も、もともとの領域でなければ解決しません。



親との確執を位置づけなおし、夫婦の不和は夫婦間で解決し
離婚で受けた心の傷を直視して癒し、子育て以外に自分の存在意義を見つけ、
自分の完ぺき主義の裏側にある不安を認める勇気を持つことです。


実は親も子ども同じようなパターンに陥っているわけですが
自分の問題に気づくのは親のほうが難しいことも少なくありません。

子どもには病気の症状が出ているけれども親には「子どもをコントロールしたがる」
という症状しか出ていないので問題が分かり難いと言うこともあります。


しかし、それだけではなく、子どもが病気になってしまうと
すべてがそれを中心に廻り始めるので、とても自分の内面に向き合う余裕を
もてないということもあるのです。


親の中の癒されていない部分は、子育てに影響を与えます。

これは、癒されていない親は良い子育てが出来ないという事を言いたいわけではありません。
完全に癒されている人間など、まずいないでしょう。
大切なのは、自分に癒されていない部分があることを認めることです。


自分の弱い部分を否認しない受け入れれば、子どもの弱い部分も正面から受け入れてあげることができます。
そして、共感をもって子どもの話を聞いてあげることができるようになるでしょう。





子どもの側も、親がなぜこのように自分をコントロールして育ててきたのか、
という事情がわかれば、親を許しやすくなります。

親が決して確信犯ではなく、悩みながら迷いながらその時々で
自分なりのベストを尽くしてきたにすぎないことを理解することができるからです。


そして、人間全般に対してもう少し柔軟で寛容なものの見方ができるようになり、
病気になった自分のこともだんだんと許せるようになってくるのです。

「自分の事情はちゃんと子どもに話してきました」とおっしゃる方もいますが
その話し方は往々にして子育ての正当化であって、
一人の人間として自分の弱さを認めるような話し方にはなっていないものです。

「親はいつでも正しくなければならない」という恐れを一度手放してみると
子どもとの距離がグット近くなります。

自分には特に問題がないと思っていた親でも、
子どもの治療にずっと付き合っているうちに自分の問題に気づくこともあります。


私の患者さんのお母さんでも「夫に話しても分かってくれないからはなさないのが一番」と
開き直っていたのが、娘がコミュニケーションを通して安定していく様子を見て
「私も夫に話をしてみたら、少しは関係が改善したような気がします。これからは私も言ってみることにします」といってくれた人もいました。



親にとっても、子どもの病気は自分が変わるチャンスなのです。










■大切な相手に病気の事を伝える


苦しんでいる人でも大切な相手には何も伝えていない、というケースが案外多いものです。

なぜ、伝えられないかと言うと、相手が親の場合には
「伝えると叱られる、心配されるから」などというのが理由が圧倒的です。

一方、相手が恋人や配偶者の場合には
「伝えると嫌われるから、伝えると軽蔑されるから」とい理由が多くなります。


「重要な他者」の協力が得られないと治療ができません。

また、「叱られるから、管理されるから、心配されるから、嫌われるから、軽蔑されるから」
という理由で相手に肝心なことが話せないと言う行動パターン(「心配性」)によるパターンを扱うことが治療の中心になります。

ですから、治療の第一歩1歩として、必ず「重要な他者」に病気の事を伝えてもらいます。

病気について伝えることについて患者さんの抵抗が最も強いのは恋人です。
「食べ物を吐いていると言うことが知られたらふられてしまうのではないか」
などと心配になるからです。


恋人に病気の事を打ち明けて振られたと言う人は殆ど居ないはずです。


むしろ、「そんな大切なことをなぜ伝えてくれなかったんだ」と自分が信用されていなかった
ことを責めたり、「何となく気づいては居た」と改めて納得する人もいたり、
今までの奇妙な言動の理由がやっと分かって安心した、という人も居ます。



双極性障害(躁うつ病)をゆっくり受け容れる



◇双極性に完治は無い。寛解≠完治


良くなることを『寛解』と言いますが、再発しやすいため、まず、
一生にわたって予防として薬を飲まなくてはいけません。

一生定期的に通院し、薬の副作用に悩み、薬によっては飲んではいけない飲み物を避け、運転もできません。
生活のほとんどが制限されると言っても過言ではありません。


http://www4.plala.or.jp/tadamame/disorder.html











 

■双極性障害を受け容れる事の難しさ


双極性障害を発症することはその人の人生を大きく変える事になります。

誰の目にも躁状態の異常さが明らかな双極Ⅰ型障害では
それはあまりにも明白なところです。

Ⅱ型でも、軽躁状態はむしろ気分よく感じられたとしても
うつ状態の繰り返しという重い苦しみを背負うことになります。




たとえば、20歳で人生は前途洋洋というときに突然
躁状態に陥り、自分は極めて正常だと思っているのに精神科に入院させられて
「あなたは双極性障害です」という診断をうけ、
症状は短期間で落ち着いているのに「これは、一生付き合っていかなければならない病気です」
と言われることの衝撃を考えてみてください。


その事実を受け入れることがいかに難しいか容易に想像がつきます。




病気を受け入れることが難しいのは双極性障害だけではありません。
特に精神科の病気は全般に受け入れるのが難しいものです。

これは精神科の病気への偏見のためでもありますが
同時に、病気の症状が主観的なものを中心としているため
「ちょっと疲れているだけかもしれない」「気にしすぎているかもしれない」
と否認を生みやすいのです。
(これは、周囲の人たちついても同じことで「気合で何とかしろ」という要求につながります)



特に双極性障害の場合、エピソードとエピソードの間は原則として無症状になるので
「なかったこと、単なる一過性の不調」にしたくなる誘惑に駆られるのです。

また、若くして発症する上に治療上気をつけなければならないことがたくさんある
(薬を欠かさず飲む、薬の血中濃度の定期検査、生活を規則正しくすることなど)



 

 



■双極性障害とは


「躁状態とうつ状態という2種類のエピソードを繰り返す病気」です。
エピソードとは専門用語の解釈では
「ある一定期間に、始まりと終わりがある一連の症状が出る」という特徴を現します。


慢性的にずっと同じ症状があるわけでもなく「症状が出る日」が時々あるというわけでもなく
躁状態がはじまったのはだいたいいつ頃で、だいたい、いつ頃まで続いたか
ということを特定できるのが「エピソード」です。


ですから、双極性障害の方の病歴を振り返ると
「躁状態だった時期」「うつ状態だった時期」をほぼ明確にすることができます。


 





■軽躁状態(軽躁病エピソード)


「持続的な気分の高揚状態が少なくとも4日間はっきりと持続するもの」です。

質的には躁状態と同様ですが、程度は軽く、社会的に大きな問題を起こすことも無く入院が必要になることもありません。幻覚や妄想がでることもありません。


 



 

■うつ状態(大うつ病エピソード)


「ほとんど一日中、ほとんど毎日の抑うつ気分」か
「ほとんど一日中、ほとんど毎日、ほとんどすべての活動における興味や悦びの著しい減退」
のうち、少なくても一方が基本的な症状としてあります。


それに加えて、身体面の症状、思考面の症状が二週間以上続く状態です。

単なる「気分の落ち込み」ではなく、
「気分、身体、思考の症状がそろって2週間以上続く」ことが診断のポイントです。



※身体面の症状
不眠、食欲低下、疲労感など(非定型うつ病の場合は逆に食欲は亢進し、過眠となる)
※思考面の症状
自分には価値がないという感覚、過剰な罪悪感、自殺したいと言う気持ち(生きることへの絶望感)など











■混合性エピソード


「少なくとも一週間のほとんど毎日、躁状態(躁病エピソード)の基準と
 うつ状態(大うつ病エピソード)の基準をどちらも満たす状態」です。
やはり入院が必要になったり、幻覚妄想が出たりします。






 

■寛解≒飼いならす


いくら努力しても無縁になれないという意味で
双極性障害は人に無力感や絶望感を引き起こしやすい病気です。

治療目標が「完治」ではなく「エピソードが出てこないように、病気を飼いならす」
におかれるわけですから、すっきりしません。



このような病気をすぐに受け入れることは不可能でしょう。


また、病気の受け入れと関連するテーマですが
「治療の必要性の受け入れ」という問題もあります。



特に双極Ⅱ型障害の人に多いのですが
うつ状態は治して欲しいけれども軽躁状態は気持ちがいいので
なかなか手放したくないと思われることがあるのです。




軽躁状態のときの自分こそが「本当の自分」であり、
それ以外のときの自分は「死んでいる」と思っている人がいます。

また、躁状態で頭が冴え渡る体験をした人にとって
「薬が効く」ということは、客観的にみたときの「落ち着く」というポジティブなイメージとは
異なり、自分があらゆる能力を失って、鈍い、つまらない、生きる価値のない人間になったように
感じられることもあり、それ自体は決して幸せな体験ではありません



そもそも、軽躁状態・躁状態と、薬の副作用は、単純に比較すればくらべものにならないくらい前者が快適です。

だんだんと薬を飲まなくなるのも、それが原因だという人が結構居る。


患者さんを苦しめているうつ状態が軽躁・躁状態とセットの病気えあるということを学び、
病気が自分の人生や周囲の人達に与えている影響を振り返っていくことによって
躁状態・軽躁状態を手放していくことの総合的な価値を認めるプロセスを踏んでいきます。











■なぜ治療継続の動機付けが難しいのか


双極性障害の場合は、いくつかの理由によって病気の診断の受け入れが困難になります。


一つは、双極性障害「精神科の病」だということです。
まだまだ偏見は強い者があります。
「おかしい人間、弱い人間」という目でみられることもあります。
また、単極性のうつ病であれば、
「ストレスを軽くすればうつ病にならないかもしれない」
「劣悪な職場を辞めれば、元気になるかもしれない」という希望が持てますが、双極性障害の場合は、基本的に「一生のお付き合い」になります。

「ストレスによる一過性の問題」ではない「病気」というイメージは、ぐっと強くなるでしょう。

社会に偏見があるのと同じように、患者さん本人も精神化の病に偏見を持っていることが
多いですから(診断される瞬間までは社会で暮らす普通の人だったわけですから当然です)
「まさか自分がかかるなんて」と、認めるのが難しくなってしまうのです。


双極性障害の方のなかには、もともと「気分屋」だった人も居ますので
いつものクセがちょっとひどくなったくらいで病気ではないと考えようとしたり自分のケースは精神化の病などというものではなく
もっと複雑で奥の深い問題なのだと考えたりします。



家族に双極性障害の人がいて、それなりの覚悟していたという場合には受け入れが
早いこともありますが、その家族の治療がうまくいっておらず、
病気に振り回されてネガティブな気持ちを強く持っている場合は
「同じようになりたくない」と、受け入れることがさらに難しくなることもあります。



いった、精神科の病気であることを認めても、少しでも調子が良い時期が続くと、
「治ったという事ではないか」
「自分の場合は、もう大丈夫なのではないか」と思い焼くなるものです。


そして、双極性障害の場合、実際にエピソードとエピソードの間は
原則として無症状になりますので本当にそんな気になっても無理はありません。


特に初めてのエピソードが躁で薬物療法に速やかに反応した場合、それは単なる「一過性のもの」であって、
とても障害にわたる病気の始まりには思えないものです。


これは、人間として当然の心情です。


でも、そのようにして、気分安定薬をのまなくなってしまうことが
次のエピソードにつながり、
病気の経過を悪くすることになるのは言うまでもありません。





「いかにして病気を受け入れるか」ということは大きなテーマです。




双極性障害の場合、「病気を受け入れる」ということは
たとえば癌のときに寿命を意識するのとはまた違った心の動きを産みます。

薬を飲むことを含めて、さまざまな「不便なこと」を受け入れなければならない、ということです。
薬の副作用がきになる場合には、特に「不便なこと」は増えます。


リチウムは、血中濃度を適正範囲に維持するように飲み続けなければなりませんので
血中濃度を定期的に測定しなければなりませんし、
手の震えという副作用が、職業的にかなりのダメージになる人もいます。











■否認をどう乗り越えていくか



しかし、双極性障害の場合は、否認のまま長い年月を過ごしている人も居ます。
もちろんそれは、その人の病気の経過、ひいては人生の質を大きく損ねることになるのですが
事情がややこしくなるほど、「否認」にしがみつくこともあるのです。


双極性障害のために職や家庭を失った、というような場合には
「こんな病気にさえなっていなければ」という思いから、
ますます「否認」が強まることにもなります。


なかには「自分は特別な人間なのだ」という妙なプライドに頼って現実を否認している人も居ます。


これも「現実を全然分かっていない、何様のつもりだ」と批判的に見るのではなく
それほど受け入れるのが大変な病気なのだと理解しなければ道が開けません。



双極性障害が生涯にわたる病気である以上、どこかの時点で腹をくくって診断と治療を受けれていかなければならないのですが、
そのための「儀式」が「健康な自己の喪失」という枠組みにおける悲哀なのだと思います。


今まで当然のものだと思っていた自由や可能性をもった自分は「死んだ」と考えるのです。
そう考えれば「否認」にとどまっていられなくなります。



「健康な自己の喪失」に対して「否認」にしがみついているときの構造は
大切な人を無くしたときの否認と同じです。

大切な人は亡くなったのに、その辛い現実を受け入れることができずに
その人の持ち物も全く整理しないで
あたかもその人が生きているかのように暮らしている人たちは
現在の生活を生きることができなくなってしまいます。


今の生活で自分を支えてくれる人間関係も作れず、生活の楽しみも見出せず
社会の一員としての所属感も感じられず、多くがうつ病に苦しむことになります。


「健康な自己の喪失」を瀕してしまうときも同じで
今の生活で自分を支えてくれる人間関係も作れず、生活の楽しみも見出せず社会の一員としての所属感も得られず
そして、双極性障害の次なるエピソードの高いリスクを抱え続けているのです。


双極性障害の場合、「健康な自己の喪失」を受けいれて悲しんだ後の「現在の生活」というのは
「双極性障害という病を受け入れて、うまくコントロールしていく生活」のことです。



「コントロール」というのは、薬物療法のことだけでなく、
社会リズムの安定化や、支えてもらえる人間関係づくりも含まれます。
いずれも双極性障害という病を受け入れなければ不可能なテーマです。
「悲哀」のプロセスを進むことで
一刻も早く、そして、本当に納得して、現在の生活に集中できるようになる必要があるのです。






 

 


■合併症は容易に起こる



双極性障害の方が摂食障害を併存していることは少なくありません。
この二つの病気が同時に発生すると、病気そのものの苦しみが増えるだけでなく
病気のコントロールも難しくなります。

たとえば、リチウムという薬は、治療量より少し多く飲んだ程度でも中毒を起こす薬です
(そんな薬はほかにほとんどありません)。
身体がひどい脱水状態になったりすると、薬の血中濃度がそだだけ高まり、中毒のリスクが高まるのです。


摂食障害の人のなかには、水を飲むことも嫌がる人も居ますし、強迫的に運動して多く発汗したり激しく嘔吐したりする場合には、それだけ水分代謝が変動しますから、リチウム中毒になるリスクが高まります。


反対に、食べ吐きがあると、薬が吸収されず、薬効が期待できない。



過食症と双極Ⅱ型障害を併存している人の中には
軽躁状態の時に過食が減り、うつになると過食が増える、というパターンを繰り返している人も居ます。

そういう人にとって、軽躁状態を手放すのは、通常以上に難しいことになります。
過食はとても嫌な症状ですし、軽躁状態のときにはダイエットが成功したように感じられてしまう。



また、双極性障害の方が摂食障害になるのは
うつ状態に対する自己治療の試みであることも少なくありません。

ダイエットをして痩せれば自信がついて気持ちが明るくなるだろうと思うのです
(実際には、自信がつくどころか、単に2つの病気に苦しむ結果になります)
そんな「自己治療」に走らないためにも、きちんと祖極性障害の診断を受けて、正しい治療を受ける必要があります。






---------------------
参考文献:
対人関係療法でなおす双極性障害 水島広子   創元社


2013年3月15日金曜日

機能不全家族に自己肯定感を奪われた貴女へ




◇傷ついた心の世界観




私には私がいないんです。
昔も、今も。





返事いらないよ!
一方的にメールする。
今日あったこととか
その日の気持ちとか
切りたくなった時も。
そのかわり、ちゃんと読んでね!
このメールがうちの存在証明だから






今日、助けてって思った
何からか助けて欲しいか、自分でもわかんないケド…
誰かに話を聞いてほしかった





いつまでも過去をひきずっていても仕方ないのも
わかっているけど引きずっている自分がいる
そんな強くなれない自分に腹が立つ





私は全然弱いのにみんなに強いねって
言われるから、余計に弱音が吐けなくなるんです
自分がそういうイメージ根付かせちゃったから悪いんだろうけれど。
それで誰にも心を開けなくなる。自業自得なんですけどね。
私だって寂しいし辛いし毎日やっと生きているのに。
そう周りから見えないのは良いことなのかもしれないけれど
本当の自分がなくなっていく






どんなに血は流せても
涙は流せない子が多い
優しすぎるのに自分には厳しいから
認めて受け容れられないんだよね


















 

■自己愛障害の母親に育てられたら


自己愛性パーソナリティの人は
自分の正当性を主張し、また自己アピールが非常に上手いので、事情を良く知らない第三者は、
その人の言うことを鵜呑みにしてしまいがちである。

このタイプの人は、世間的には見栄えがして、立派で魅力的に映るので、なおさらである。
子どもの方が「お母さんを困らせる」とみなされることが多い。

自己愛的な母親に見られやすいのは、子どもを思い通りに支配しようとする傾向である。

母親の強いコントロールを受けて育った子どもでは、ストレスフルな状況に出会ったとき、
うつや不安、ひきこもりや自傷といった内向性問題行動が生じやすい。
また主体性が侵害される結果、子どもの主体性の希薄な自分に自信のない人間に育ち、
回避性の傾向や依存症、境界性の傾向を示すか、やはり同じようなナルシズムを発達させることで自分を守ろうとする。

不思議なことに、本当の愛情も与えられず、心理的に支配され、実質的には精神的虐待を受けたにも関わらず、
自己愛性パーソナリティ障害の母親に育てられてきた子どもは、母親を理想化し、母親に認められようと、
涙ぐましい献身をすることが少なくない。




 

 

■自己否定感と、大人社会への不信感



街にたむろする若者の中には居場所や行き場所がなく、
頼れる保護者がいない実情がある。

保護者に”いらない存在”として扱われてきた心の傷は深く、
表面上は屈託なく笑顔で話していても、
心のうちには
「生まれてこなければ良かった」「生きていても仕方がない」という気持ちが溢れている。


同時に、家庭環境を要因とした別の生きづらさも抱えている。

親自身が生活苦や社会からの孤立などの問題を抱えてきたため、
親をモデルとする対人関係のとり方や社会性を身に付けることができずにいた。
年齢相応の社会経験もつんできていない。

なによりそうした若者をいちばん生きづらくしているのは
”つらい状況から救ってくれなかった社会や大人に対する不信感”だろう。

不信感を持つと、人に助けを求めることができなくなる。


何重にも重荷を背負った子どもたちが10代で家を飛び出し、
繁華街に出てきて出会うのは
”つながりを絶たれた子”を利用しようとする大人たちだ。

もともと安心できない環境で育ってきたためにどんなに苛酷であっても
生きるために彼女たちは受け容れる。

それ以外に方法も知らない。

とくに、女の子は身体を商品にすることで簡単に稼げてしまう現実がある。

彼女らの根っこには
「自分には身体を売るくらいしか出来ない」という
強い自己否定感がある。


「自分は生きていて良いのか?」という根本的な自己肯定感を持てない彼女。

援助交際を繰り返す少女たちのなかには
「一瞬でも人の温もりを感じたい」という愛情飢餓からそうした行為に
向かっている子もいる。

そのような女の子たちには望まない妊娠の危険が常にあり、
生活の困窮や知識の不足などから誰にも相談できずに出産を迎えてしまうことも少なくない。













 

■自分じゃダメで、そうしている間に自分を失った


立ち止まったらダメだと思った。
そしたら働けなくなるって思ったから毎日、一生懸命働いた。

そしたら私自身の仮面が厚くなりすぎてつくりすぎちゃって、
どれがほんとうの自分か、何が本当の自分か、
わからなくなってしまった。
どれが本当の自分か、わからないから怖い

本当に苦しいとき
悲しいとき、辛いとき、死にたくなるとき、
そんなときって人には話せなくて「ねぇ、ねぇ、聴いてよ」ってこの一言がいえない。
誰かに話したくて聴いてもらいたくて
私の存在を分かってもらいたくて認めてもらいたくてしょうがないのに…





 

■性的虐待を呼び込んだのは私?


私の身体を求めてきた街の男たちと
おんなじ顔していた、お父さん。
お風呂に入ってくるのも、こんなこと普通じゃないって中1だし、わかってたから余計に誰にも言えなかった。


彼氏ができて、初体験を迎えて、幸せのはずなのに、汚い行為としか思えなかった。

なんて、一緒に居るだけじゃダメなのかな?って。
でも、好きだったから、求めてくる彼を仕方なく受け容れたけど。

あの日から毎日、お風呂から出たら、部屋に連れていかれて、
押し倒されて、いれられた。



SEX…。彼氏とおんなじことを私にした。


避妊なんてしなくてお父さん、私の中で出してた。
私とお母さんに暴力を振るっていた時と同じ眼をしていた。

特に私は人間じゃなくて玩具みたいに扱われたよ。




逃げたくても逃げる場所なんてないし、
これ以上、ひどい眼に合わされて、殺されるって思ったら逃げられなかった。


夜が怖くて、眠れなくなって、精神科に通って
睡眠薬を処方してもらったけど
家の中がまったく安心できないから、恐ろしくてたまんなかった。

朝になったらまた夜が来るんだって。


学校では異常に明るく振舞った。

勉強も下から成績も良くて
学級委員やって
先生からも友達からも人気があったし。
友達には「悩みなさそうで、いいなー」って言われるたび、ショックで。


地獄の方がマシだっていうくらいの日々を
過ごして居る本当の私なんて知らないくせに…って。
こんな毎日が6年間、続いたんだよ。


ただ、お父さんだけど、男の人なんだよね。
私は普通の父親はわからないけれど
普通じゃないことさせた自分が悪いんじゃないかなって思っちゃうの、全部。
私が男に生まれたらよかったのにって思っちゃう。

なんで生きているかって、きっと、
私は親のために生きているんだろうね。

親より先に死ぬのは親不孝だと思うから、
先に死ねないだけ。
親が死んだら、次の日に死んでもいいって思ってるし。

小さい頃から親に気に入られるようにいい顔見せて生きてきたし、
親の勤めを果たしたなって満足して親に死んでいってもらいたいから、ただ生きているんだよね。。。


親の前では自分のおもっていることを
口に出したり、行動に出してはいけない、親が満足することだけをしていればいいと、幼い頃からずっと思ってきた。

「自分」という存在を消しながら、
自分の感情を否定して生きてきた。
だれを信頼していいのかわからなくて
自分で自分を責め続けて、傷つけて、今も死の隣りあわせで生きている。



いい子にしてたよ。
ずっとずっといい子をしてきた。
親を気持ちよくさせるために頑張ってきた。
私は親を優越感に浸らせるためだけの道具。

道具に心があってはいけないんだよ。
だから心を殺して生きている。



でも…
道具もいつか壊れるんだ
もう半分壊れ始めている。




壊れちゃうと100%の役目が果たせなくなるんだ
だから捨てていい…
今まで道具としてでも使ってもらえたこと
感謝するから。
でも、こんなにすぐ壊れちゃうなんて
ポンコツな私でごめんなさい

私は道具として生まれた。
でも力不足。

ごめんなさい、ごめんなさい…





 

■存在への不安は幼少期に根付く


人は、さまざまな良くないことを予期して不安になる。
自分の弱点を意識している人は
その弱点が人目にさらされるのではないかと
いつも怯えている。
弱点がばれたらどうしようかといつも不安である。

人と会うときに、相手から悪く思われないかと不安になる。
いやな目に会うのではないかと不安になる。
自分の立場や考え方を主張した後、
でしゃばりと思われたのではないかと不安になる。

人は自分の価値が脅かされると不安になる。
また、人は見捨てられる状況で不安を感じる。

見捨てられることが不安になるのは
人がみんな寂しいからである。

いやゆる「良い子」は親の前では不安である。
いつもびくびくしている。


それは自分の言動で親がいきなり怒りだすからである。
親が機嫌がいいときでも
いつ怒り出すかと不安である。

従順が身についたいわゆつ「良い子」は
大人になってからも
何をするにも人の許可を得ようとする。
許可が無いと不安なのである。


実際の自分より自分をよく見せてしまった者は
いつも不安である。
仮面の奥の「実際の自分」がばれたらどうしようと不安である。






 

■基本的安心感の欠如は緊張を生み出す



ありのままの自分が親に受け容れられている、という基本的な安心感があるかないか、
それはその人の一生を支配しかねない。



小さい頃周囲の人に受け容れられなかった人は
大人になって周囲の人に受け容れられていても受け容れられていないと感じて身構えている。



大人になって世界が変わってもどうしても自分の感じ方を変えられない。
身体は会社で働いているようであるが心は小さい頃の環境にいるのである。


基本的安心感がある人は自分が自分自身であることを喜べる。
相手の言うことに「ノー」と言っても捨てられないと言う安心感がある。
基本的信頼感が無い人は他人の顔色を窺う。
「ノー」といったら、捨てられると言う不安感がある。


相手を信頼していれば、いちいち相手の顔色を窺わない。
基本的安心感の無い人は
相手の顔色のほうが実際の自分の欲求より大切である。
それは拒否されて孤独になることをおそれているからである。


実際には孤独にならないのに。

実際の自分ではいけないのだから
周囲の世界を脅威に感じるのは
当たり前である。







 



■期待に答える事だけが生きる意味だった



ストレスの最大の原因は「こうしなければならない」と思い込むことである。
そうなれば、「もし、こうでなければどうしよう」と不安になる。
「こうできなければ」失敗である。
そうなれば人は誰でも「失敗はしないか?」と不安になるだろう。

失敗すると何が起きるか?
まず、その人が考える「人の期待に応えられない」ということである。

小さい頃から人の期待に応えることで生きてきた従順な人は
もの凄くストレスが強い。

自分自身の喜びの体験を味わってこないで
人の期待に応えることだけで生きてきた従順な人は
人の期待に背くことが怖い。

それは、小さい頃から自分自身の喜びの体験を大切に生きてきた人には
想像も出来ないほどのストレスである。

愛されないで育った人は
「人の期待に応えなければならない」という思い込みで苦しむ。

時には期待されていないのに期待されていると感じてしまう。

そして、「もしかして、人の期待に応えられないのではないか」と思うとそれだけで血圧があがる。




 

■小さい頃の恐怖と決別する!!


では、なぜ実際の自分ではいけないのだろうか?
なぜ、他の人は「実際の自分」で良くて
あなたは「実際の自分」ではいけないのだろう。

周囲の世界が敵意に満ちていると感じるのは
あなたの小さい頃の脅威の再体験なのである。

もしあなたが毎日、人が自分の事をどう思うか不安であるなら
毎日「周囲の世界は怖くない」と自分に言い聞かせることである。

取り巻く世界が変わったのだから
あなたは自分の内側もかえていかなくてはならない。

つまり、現実に即した感じ方をするように
あなたの脳の回路を作ることである。