2013年11月9日土曜日

夢の扉 がん治療の緩和に漢方


 

■大建中湯(だいけんちゅうとう)

がん治療の現場では開腹手術の後、腸管運動を促して腸閉塞を予防。
そのために大建中湯が処方されてきた。


山椒
乾姜(かんきょう)(生姜を蒸して乾燥)
人参

を調合。


腸を整える。

ラットの腸管が動く。五分で蠕動運動が始まった。

乾姜は大腸の血流を良くすることで蠕動運動を促す。

神経の細胞膜には細胞の興奮を抑えるタンパク質がある。
このタンパク質の働きを抑制する、つまり細胞を興奮させやすくしているのが山椒に含まれる成分。


乾姜と山椒との相乗効果。

ただ、「乾姜+山椒」よりも「人参+乾姜+山椒」の方が蠕動運動が大きかった。
しかしながら、人参単独では蠕動運動を起こせない。


漢方の神秘。
食用の山椒と医療用の山椒は別物。





 

■六君子湯(りっくんしとう)

抗がん剤治療の際の、食欲増進や吐き気の解消。
グレリンという胃から分泌されるホルモンが食欲を増進。
六君子湯はグレリンの分泌を促進する働きがあることは以前から知られていた。


ただ、グレリンが分泌されていなくても食欲が湧く場合がある。

グレリンを出すだけでなく受け手側の感受性もあげているのでは?
少量のグレリンで食欲増進されるのでは。
六君子湯はグレリン受容体の感度も上げているから、食欲が増進するのでは?


実験の結果、グレリン受容体は六君子湯の感度を上げていた。


漢方を解明するごとに無限の可能性が。

生薬のひとつひとつは低濃度であまり作用がないのに組み合わさることで本当に大きな作用を持つ。
これは非常に大事なことで低い濃度であると言うことは副作用が少ないと言うこと。
医療のパラダイムを変えるのでは?


FDAも漢方を開発治験薬として認定している。

japanese kanpou medicine

2013年11月8日金曜日

ホンマでっかTV 11月6日 ビールゴーグル効果



■ビールゴーグル効果


男性はビール3L飲んで酔わないと、普段綺麗とも何とも思わない女性を綺麗と錯覚しない。
女性はちょっと酔っただけで相手の魅力も年齢も判断が付かなくなる。
平衡感覚とか空間認識能力は女性の方が低い。
平衡感覚が失われる→勘違い。
酔っ払うと平衡感覚が失われる。
スキー場で恋がおきやすいのは平衡感覚が乱れるから。
平衡感覚が失われる→シンメトリーがはっきり判断できなくなる。



■身体の状態と同じ感情が後からついてくる!?

身体がクラクラすると感情もクラクラする。
身体の状態が咲きに合って感情は後からついてくる(吊り橋効果的な)
ドキドキした身体の状態になると人を好きになり易くなる。



■世話を焼く人ではなく焼かせる人がモテる!?

・世話を焼く人→良い人。けど好かれるのは世話を焼かせる人。
・世話を焼かせる人→好かれる


知らぬ間に増えていった荷物も
まだなんとか背負っていけるから
君の分まで持つよ
だからそばにいてよ
それだけで心は軽くなる
(GIFT・ミスチル)
自己効力感。自分にはこれだけの価値があるんだとかんじさせてくれる人が人には必要。





 20~30代女子の約5割が復縁している!?
・出会うきっかけがここ20年で職場・学生からの知り合いが増加
・街中で知り合うナンパなどの出会いが減少
・女性が身構える傾向があり出会っても成立しない事が多い

36歳以降に出会って結婚する確率は4.6%!?
・昔の恋人と復縁する方が結婚までいく可能性も

2013年11月2日土曜日

ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく 堀江 貴文 ダイヤモンド社











ゼロ―――なにもない自分に小さなイチを足していく











内容紹介

誰もが最初は「ゼロ」からスタートする。
失敗しても、またゼロに戻るだけだ。
決してマイナスにはならない。
だから、一歩を踏み出すことを恐れず、前へ進もう。
堀江貴文はなぜ、逮捕され、すべてを失っても、希望を捨てないのか?
ふたたび「ゼロ」となって、なにかを演じる必要もなくなった堀江氏がはじめて素直に、ありのままの心で語る、「働くこと」の意味と、そこから生まれる「希望」について。


【本書の主な目次】
第0章 それでも僕は働きたい
第1章 働きなさい、と母は言った──仕事との出会い
第2章 仕事を選び、自分を選ぶ──迷い、そして選択
第3章 カネのために働くのか?──「もらう」から「稼ぐ」へ
第4章 自立の先にあるつながり──孤独と向き合う強さ
第5章 僕が働くほんとうの理由──未来には希望しかない
おわりに



~~~~~~~~~~~~無料公開分~~~~~~~~~~~~~~~~~~




すべてを失って残ったもの

 久しぶりに嫌な夢を見た。
  周りのみんなが離れていく夢だ。
  みんなが足早に歩いている。具体的な誰が、というわけではない。顔の見えない「みんな」が背中を向け、僕の元から去っていく。「おーい、待ってくれ! おいていかないでくれ!」。どれだけ大声で叫んでも、その声は届かない。まるで僕なんか存在しないかのように、すたすたと歩いていく。僕だけが取り残されて、その場に立ちつくす……。
  全身汗だくになって目を覚ましたとき、一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。たった3畳しかない殺風景な畳部屋と、見慣れぬ白い天井。粗末な煎餅布団の隣には、小さな机が置かれている。ここでようやく我に返った。そうだ、僕は3日前にこの長野刑務所に収監されたのだった。2011年、6月末のことだ。言い渡された刑期は2年6ヵ月。それがどれくらいの長さなのか、当時の僕にはまったく想像がつかなかった。

 2000年代の前半、僕は時代の寵児と呼ばれていた。
  学生時代に起業したIT企業が、27歳を迎えた2000年4月に東証マザーズ上場。そして2004年には当時の近鉄バッファローズ買収に名乗りを上げ、メディアに大きく採り上げられることとなる。続く2005年にはニッポン放送の筆頭株主となり、特にニッポン放送の子会社だったフジテレビとの関係については、日本中を巻き込むほどの大騒動となった。
  当時、僕のことを毛嫌いする中高年層が多かったのは事実だ。生意気だとか、強欲な金の亡者だとか、ITなんて虚業だとか、さまざまな批判を浴びた。
  しかし、批判と同じかそれ以上に、若い世代からの支持を得ていた実感があった。たとえば、近鉄バッファローズ買収騒動のなかで生まれた「新規参入」という言葉は、その年の流行語大賞のトップテンにランクインした。さらに、ニッポン放送の株式取得にあたって僕の語った「想定内、想定外」という言葉は、その年の流行語大賞で大賞を受賞した。起業家ブームの象徴として、「あこがれる経営者」ランキングで日産のカルロス・ゴーン氏に次いで2位に選ばれたりもしていた。
  ネットユーザーからは「ホリエモン」と愛称で呼ばれ、2005年に出馬した衆議院選挙では、たくさんのボランティアスタッフや若い有権者の熱い支持を実感することができた。選挙には敗れたものの、会社は相変わらず順調で、なにも問題ないように思えた。さらに大きな夢を実現しようと、ひたすら前に進んでいた。
  ところが、翌2006年の1月。僕は東京地検特捜部から強制捜査を受け、証券取引法違反の容疑で逮捕されることとなる。ライブドアの前身である有限会社オン・ザ・エッヂを設立してから、ちょうど10年目のことだった。

 その後、2年6ヵ月の実刑判決を受けて刑務所に収監された僕について、「ざまあみろ」とせせら笑った人もいれば、「これでアイツも消えてくれる」と胸をなで下ろした人もいるだろう。あるいは「かわいそうだ」と同情してくれた人もいるかもしれない。
  たしかに僕は、すべてを失った。
  命がけで育ててきた会社を失い、かけがえのない社員を失い、社会的信用も、資産のほとんども失った。
  まだ判決も出ていないうちから犯罪者扱いされ、メディアはここぞとばかりにバッシングをくり返し、「ホリエモン」は欲にまみれた拝金主義者の代名詞となった。手のひらを返すように、僕の元から離れていった人たちも大勢いる。
  さらには実刑判決を受け、刑務所送りとなる。テレビ局やプロ野球球団の買収にまで名乗りを上げた数年後には、独房に閉じ込められ、高齢受刑者の下の世話をしているのだ。誰がどう見ても、これ以上ない凋落ぶりだろう。
 「刑務所の中で、どんなことを考えていましたか?」
 「刑期を終えて出所したら、最初になにをやりたいと思っていましたか?」
  出所後のインタビューで、よく聞かれる質問である。僕の答えはこうだ。
 「早く働きたい、と思っていました」
  ひっそりと静まりかえった、長野刑務所の独居房。僕の脳裏に、恨みや絶望といったネガティブな感情がよぎることはなかった。強がりでもなく、善人ぶっているのでもなく、これは嘘偽りのない話だ。
  収監されてから仮釈放されるまでの1年8ヵ月間、僕の心を捕らえて放さなかった言葉、それは次のひと言に尽きる。
 「働きたい」
  そう、僕は働きたかった。とにかく僕は働きたかったのだ。



嗚咽号泣した孤独な夜

 ライブドアの経営者時代はもちろん、出所後の現在も、僕は分刻みのスケジュールで働いている。長野刑務所に収監されていたときも同様だ。刑務所から与えられた介護衛生係としての仕事を淡々とこなす一方、メールマガジン用の原稿執筆など個人的な仕事にも力を入れてきた。刑務所まで面会にきてくださった方に「なにか差し入れしてほしいものはある?」と聞かれ、思わず「仕事!」と即答して呆れられたほどである。
  いったいなぜ、僕はそこまで働き続けるのだろう?
  働く理由なんて、深く考えたことはなかった。「働くことに理由はいらない」「働くなんて当たり前」。シンプルにそう片づけてきた。しかし、ある出来事をきっかけに、僕は自分が働く意味について深く考えるようになる。

 証券取引法違反の容疑で逮捕された、2006年のことだ。

 東京拘置所に身柄を拘束され、東京地検特捜部の担当検事からの取り調べを受けていた僕は、徐々に神経を磨り減らしていった。取り調べそのものがつらいのもあったが、それ以上に苦しかったのが、終わりの見えない独房暮らしだ。
  無罪を主張し、容疑を否認しているうちは保釈が認められない。そして僕のような経済事件の被疑者は口裏合わせを封じるためか、すべての人間との接見が禁じられ、担当弁護士としか面会できない。
  逃げ場のない独房の中、誰とも会話することなく、なにもしないで暮らす日々。言葉にするとなんでもないことのようだが、これがどんなに耐えがたいことか。
  たとえば独房のドアは、内側から開かないしくみになっている。部屋の中から見ると、ドアノブさえついていない、ただの鉄板だ。食事を通す穴は、ドアの横に小さく設けられている。さらに、独房には時計がなく、室内に設置されたトイレもむき出しだ。そんな閉鎖環境で誰とも話すことなく過ごしていると、さすがに精神がやられてくる。
  僕は少しずつナーバスになり、睡眠薬や精神安定剤に頼ることが増えてきた。
  こんな状態が延々と続くくらいなら、いっそ検察の調書にサインしてしまおうか。「違法性の認識はなかったけど、結果的に違法行為と見られても仕方ないことをした」くらいだったら認めてしまってもいいんじゃないか。それで執行猶予がつくのなら、決して悪い話じゃない。無罪を主張したところで、どうせ裁判で勝ち目はないだろう。なんといっても、調書にサインすればここから出られるんだ。ひとりきりの独房はもう嫌だ……。そんなふうに心が揺れることもあった。明らかに追いつめられ、情緒不安定になっていた。
  そんなある日の夜だった。
  目が冴えてしまい、布団に入ってもまったく眠気がやってこない。早く寝ようと思うほど、精神が高ぶってくる。そのまま何時間も悶々としていたところ、刑務官の規則正しい足音が歩み寄り、ドアの前で立ち止まった。……うなり声が漏れてしまったのか。深夜の拘置所内に、一瞬の静寂が流れる。すると刑務官は、食事用の穴から囁くように語りかけてきた。
 「自分にはなにをしてあげることもできないけど、どうしても寂しくて我慢できなくなったときには、話し相手になるよ。短い時間だったら大丈夫だから」
  ぶわっ、と涙があふれ出た。
  頭まで布団をかぶり、声を震わせながら泣いた。泣きじゃくった。
  顔を見なくてもわかる。声の主は、独房から面会室までの間を何度か誘導してくれていた、若い刑務官だった。名前なんて知らないし、知りようがない。でも、その精悍な顔立ちと穏やかな声は、いまでもはっきり覚えている。あふれる涙が止まらない。こんなところにも、こんな僕に対しても、人の優しさは残っていたのだ。
  きっともう、直接お礼を伝えることはできないだろう。ほんとうに、ほんとうに感謝している。彼の優しさがなければ、僕の心は折れていたかもしれない。

 隠すことでもないだろう。僕は無類の寂しがり屋だ。
  よく「ひとりになれる時間が必要だ」とか「誰にも邪魔されない時間を持とう」といった話を耳にするけど、その気持ちがまったく理解できない。これまでの人生で、「ひとりになりたい」と思ったことがないのだ。できれば朝から晩まで誰かと一緒にいたいと思うし、たとえそれがインターネットや携帯電話であっても、誰かとつながっていたい。
  そんな僕にとって、東京拘置所での独房生活は、まさに地獄の日々だった。
  その後移送された長野刑務所のほうがずっとマシだ。刑務所の中であれば、工場での仕事を通じて、受刑者との交流が、多少はある。たとえ私語が禁止されていようとも、気に食わない受刑者がいようとも、独房でひとり孤独に震えているよりはずっといい。
 たとえば収監から3日目の夜に見た、みんなが僕の元を離れ、ひとりだけ取り残される夢。よほど追いつめられていたのだろう。少なくともライブドア時代、あれほど寂しい夢を見た記憶はない。こんな夢にうなされる日々が続いていくのか、それが刑務所暮らしなのかと、うんざりさせられた。
  しかし、そこから3ヵ月後の日記に、僕はこんなことを書いている。

「そういえば、最近やる気が湧いてきた。出所したら真っさらになるので、ゼロベースで事業プランを実行するつもり。夜寝る前にいつも考えている。出所するときにはもう40代でジジイになっているけど、ジジイはジジイなりにがんばるよ」(2011年10月3日の獄中日記より)

 やる気が湧いてきた理由、自分の心を大きく変えることができた理由、それは独房に閉じ込められる日々から解放されたおかげだ。介護衛生係として刑務所内での仕事をこなし、メルマガなどの仕事をこなし、多少なりとも他者(受刑者や面会者、メルマガ読者の声など)と触れ合う中で、少しずつ自分を取り戻していけたおかげだ。
  思えば僕は、ずっと前から知っていた。
  働いていれば、ひとりにならずにすむ。
  働いていれば、誰かとつながり、社会とつながることができる。
  そして働いていれば、自分が生きていることを実感し、人としての尊厳を取り戻すことができるのだと。
  だからこそ、僕の願いは「働きたい」だったのだ。


いまこそ「働くこと」を考えたい

 本書の中で僕は、「働くこと」について考えていきたいと思っている。
  自由の身になって、ゼロ地点に立ち返ったいまこそ、もう一度自分にとっての「働くこと」の意味を考え、その答えを多くの人たちと共有したい。
  どこで働き、誰と働き、どんな仕事を、どう働くのか。そもそも人は、なぜ働くのか。このままの働き方を続けていてもいいのか。これは僕の個人的な問題意識であり、同時にいまの日本全体に投げかけられた問いでもある。
  たとえば、メールマガジン(堀江貴文のブログでは言えない話)にQ&Aコーナーを設けていることもあり、僕は10代や20代の若い世代から相談を受ける機会がとてつもなく多い。メルマガだけでも述べ1万本以上もの質問に答え、しかもツイッターでの質問まで無数に飛んでくる。そしてその多くは、仕事に関する相談だ。
  いまこんな会社に働いているのだが、どうすればいい転職ができるか。
  独立して起業したいのだが、どんなビジネスプランが考えられるか。
  こんなアイデアを持っているのだが、勝算はあると思うか、などなどである。
  彼らの声を聞いていて感じるのは、みんな「掛け算の答え」を求めている、ということだ。もっとわかりやすい言葉を使うなら、成功へのショートカットを求め、どうすればラクをしながら成功できるかを考えている。もしかしたら、僕に聞けば「ラクをしながら成功する」答えが得られると思っているのかもしれない。
 でも、ここで確認しておきたいことがある。
  人が新しい一歩を踏み出そうとするとき、次へのステップに進もうとするとき、そのスタートラインにおいては、誰もが等しくゼロなのだ。
  つまり、「掛け算の答え」を求めているあなたはいま、「ゼロ」なのである。
  そしてゼロになにを掛けたところで、ゼロのままだ。物事の出発点は「掛け算」ではなく、必ず「足し算」でなければならない。まずはゼロとしての自分に、小さなイチを足す。小さく地道な一歩を踏み出す。ほんとうの成功とは、そこから始まるのだ。
 刑務所の中で40歳の誕生日を迎えた僕は、あの日記にも書いたように「40代のジジイ」として、社会に戻ってくることになった。会社を失い、大切な人を失い、社会的信用を失い、お金を失い、ついでにぜい肉までも失った。心身ともに真っさらな「ゼロ」の状態だ。久しぶりに経験する「ゼロ」は、意外なほどにすがすがしい。
 「出所したホリエモンはなにをやってくれるんだろう?」
  そんなふうに期待して下さっている方々に、僕はこう答えたい。
  堀江貴文は、ただ働く。それだけだ。
  ライブドア時代から続く「ホリエモン」ではなく、「ゼロとしての堀江貴文」に、小さなイチを積み重ねていくだけだ。
 僕は失ったものを悔やむつもりはない。ライブドアという会社にも、六本木ヒルズでの生活にも、愛着はあっても未練はない。
  なぜなら、僕はマイナスになったわけではなく、人生にマイナスなんて存在しないからだ。失敗しても、たとえすべてを失っても、再びゼロというスタートラインに戻るだけ。メディアを騒がせた「ホリエモン」から、ひとりの「堀江貴文」に戻るだけだ。むしろ、ここからのスタートアップが楽しみでさえある。
  ゼロになることは、みんなが思っているほど怖いものではない。失敗して失うものなんて、たかが知れている。なによりも危険なのは、失うことを怖れるあまり、一歩も前に踏み出せなくなることだ。これは経験者として、強く訴えておきたい。



カッコ悪さもすべて語ろう

 出所後の完全書き下ろし第一弾となる本書について、もうひとつ触れておきたいことがある。
 「刑務所に入って、なにが変わりましたか?」
 「お金に対する考え方は変わりましたか?」
  出所して以来、メディアの取材で必ず聞かれる質問だ。
  おそらく記者の方々は、「金の亡者が刑務所で改心し、更生していったストーリー」を期待しているのだろう。わかりやすく、記事にしやすい物語である。でも、僕の信念はなにも変わっていない。仕事に対する姿勢も、お金に対する価値観も、収監される前とまったく同じだ。
 ひとつだけ変わったところを挙げるなら、コミュニケーションに対する考え方だろう。
  かつての僕は、世の中にはびこる不合理なものを嫌う、徹底した合理主義者だった。そして物事をマクロ的に考え、「システム」を変えれば国が変わると思ってきた。起業も、株式分割も、さまざまな企業買収も、あるいは衆院選出馬も、すべてはこの国の「システム」を変えたかったからだ。
  きっとそのせいだろう、僕はひたすら「ファクト(事実)」だけにこだわってきた。
  言葉で説明するよりも、目に見える結果を残すこと。余計な御託は抜きにして、数値化可能な事実を指し示すこと。あいまいな感情の言葉より、端的な論理の言葉で語ること。それこそが、あるべきコミュニケーションの形だと信じ切っていた。
  しかし、理詰めの言葉だけでは納得してもらえないし、あらぬ誤解を生んでしまう。ときには誰かを傷つけることだってある。僕の考えを理解してもらうためには、まず「堀江貴文という人間」を理解し、受け入れてもらわなければならない。言葉を尽くして丁寧に説明しなければならない。
  逮捕される以前の僕は、そのあたりの認識が完全に抜け落ちていた。
  メディアを通じて多くの誤解を生んできたし、それを「誤解するほうが悪い」とばかりに放置してきた。数字を残し、結果を出しさえすれば理解してもらえると思っていたのだ。これは最大の反省点である。
 だから本書では、「これまで語られてこなかった堀江貴文」の姿についても、包み隠さず語っていこうと思う。僕がどこで生まれ、どんな家族の中で、どんな人生を送ってきたのか。なぜ東大をめざし、なぜ起業したのか。女の子にはモテたのか、モテなかったのか。カッコ悪い話も、長年抱えてきたコンプレックスも、すべて語っていきたい。きっとそれは、堀江貴文という人間を知り、僕の思いを理解してもらう上で、欠かすことのできない要素なのだ。
  思えば学生時代の僕なんて、地味でひねくれた田舎者でしかなかった。中高時代も、大学時代も、完全に落ちこぼれていた。まったく勉強しなかったし、ギャンブルにハマった時期も長い。ライブドア時代に語られてきた「中高一貫の進学校に通い、現役で東大に合格し、若くして成功したベンチャー起業家」なんてサクセス・ストーリーは、表面的な結果論に過ぎない。
 そこからどうにか変わることができたのは、小さな成功体験を積み重ね、自分の殻を打ち破ってきたからだ。「堀江貴文」という人間を、少しずつ更新してきたからだ。もちろん、一夜にして変わったわけではない。はじめの一歩は、すべて地道な足し算である。
  もし、あなたが「変わりたい」と願っているのなら、僕のアドバイスはひとつだ。
  ゼロの自分に、イチを足そう。
  掛け算をめざさず、足し算からはじめよう。
  僕は働くことを通じて、自分に足し算していった。仕事という足し算を通じて、つまらない常識から自由になり、しがらみから自由になり、お金からも自由になっていった。掛け算ができるようになったのは、ずいぶんあとになってのことだ。
  そんな僕には、確信がある。
  どんなにたくさん勉強したところで、どんなにたくさんの本を読んだところで、人は変わらない。自分を変え、周囲を動かし、自由を手に入れるための唯一の手段、それは「働くこと」なのだ。
  ある意味僕は、10代や20代の若者たちと同じスタートラインに立っている。
  ここから一緒にスタートを切り、一緒に新しい時代をつくっていくことができれば幸いである。大丈夫。あなたも僕も、未来は明るい。








父と母のいない風景

 都心の繁華街が賑わいを見せはじめる午後9時。長野刑務所は、ひっそりと消灯時間を迎える。建物全体がしんと静まりかえり、ときおり聞こえるのは誰かが咳をする音くらいだ。今日もよく働いた。心地よい疲労感に包まれながら、布団に横たわって目を閉じる。すべての疲れを癒してくれる布団の感触は、ある人の背中に似ていた。人生でいちばん最初の記憶に残る、ある人の背中だ。記憶をさかのぼって思い出す。
  浮かんでくるのは、曾おじいちゃんにおんぶされている風景だ。
  福岡県の片田舎で、農業を営んでいた曾祖父の家。そこへと向かう長い坂道の途中、曾おじいちゃんは思いついたように僕をおんぶしてくれた。僕の年齢は2歳くらい。どんな声をかけてくれたのかは、もう覚えていない。
  おそらくその日、曾祖父の家には父も母もいたのだと思う。しかし、僕の記憶から彼らの姿は消えてしまっている。覚えているのは背中の温もりと、夏の暑い陽差し、そして見渡すかぎりに広がる田畑の緑だけだ。言葉さえおぼつかない僕は、完全な「ゼロ」だった。
 自分の家が周りと違うことに気がついたのは、小学生のころだった。
  多くの小学生が胸を躍らせ、気恥ずかしさと緊張感の中で迎える恒例行事、授業参観。浮ついた友達たちをよそ目に、僕は毎年「早く終わらないかな」と退屈していた。緊張したりワクワクしたりする要素なんか、どこにもなかった。
  なぜなら僕の両親は、一度として授業参観に来なかったからだ。
  愛されていなかったのかというと、それは違うと思う。いわゆるネグレクト(育児放棄)だったわけではない。共働きだった両親にとって、授業参観は仕事を休んでまで参加するイベントではなかった。「自分の仕事」と「子どもの授業参観」とを天秤にかけたとき、仕事のほうを優先すべきだと思った。それだけのことだ。
  だから僕は、両親がこなくて寂しいと思ったり、友達を見て羨ましいと思ったりしないよう、自分に言い聞かせていた。うちの親はそういう親なのだし、堀江家とはそういう家なのだ。
 1972年10月29日、僕は福岡県南部の山間部に位置する八女市に、堀江家の長男として生まれた。以来、兄弟のいないひとりっ子として、両親と父方の祖母を含めた4人で暮らすこととなる。
  父は、典型的な昭和のサラリーマン。日産ディーゼル福岡販売というトラック販売会社の、佐賀支店に勤めていた。具体的にどんな仕事をしていたのかは、よくわからない。家庭で仕事の話をすることはほとんどなかった。地元の高校を卒業し、そのまま地元の企業に就職して、ずっと同じ会社に勤務する。定年まで勤め上げることはなく、最後は肩たたきにあって早期退職した人だ。
  お酒に弱く、趣味は野球観戦。大好きな巨人が負けると、途端に機嫌が悪くなる。こっちがどんなに疲れていても、肩を揉めだの、背中を踏めだの、大きな声で命令してくる。不服そうな素振りを見せると、すぐに手が出た。
 そんな父の口癖は、「せからしか!」だった。福岡の言葉で「うるさい」とか「やかましい」といった意味の方言だ。理屈っぽい僕が少しでも反論しようものなら、この決まり文句とともに平手打ちが飛んでくる。怒りのあまり、そのまま庭の木に縛りつけられたこともあった。
  では、父が暴力に明け暮れる頑固者だったかというと、決してそうではない。お酒を飲まないときの父は、物静かで穏やかな人だった。特に、中学生になって僕が身長で追い越してからは、手を上げることもなくなった。小学生のころには年に一度の海水浴を恒例にしていたし、遊園地に連れて行ってくれたこともあった。その意味でいうと、ごく普通の父親だ。
  しかし、ひとつだけ「普通」と違ったことがある。
  父と出かける先に、母の姿がなかったことだ。
  海に行くのも、遊園地に行くのも、いつも父と僕の二人だけだった。そしてどういうわけだか僕は、母がいないのを当たり前のこととして受け止めていた。少年時代の子どもらしい思い出に、母の姿はほとんどない。
  酔っ払った父の「せからしか!」なんて、どうってことなかった。堀江家の中でもっとも気性が激しかったのは、間違いなく母だった。




胸元に包丁を突きつけられた日

 父と母の共通点を探すのはむずかしい。
  あえて挙げるとするなら、二人とも同じ八女市で生まれ育ち、同じ高校を卒業したことくらいだ。とはいえ二人は7歳くらいの年齢差があり、学校で出会ったというわけではない。見合い結婚だったらしいが、どんな流れでお見合いすることになったのか、聞かされもしないし、こちらから聞いたこともなかった。
  トラック販売会社一筋だった父と違い、母は何度も勤め先を変えていた。
  僕が物心ついた当時は、市立病院で受付事務をやっていたし、布団工場かなにかの事務をやっていたこともある。そして最終的には、地元で自動車学校などを経営する実業家の、経理的な仕事に落ち着いていた。それなりに手広くビジネスを広げている実業家を間近で見ていた影響なのか、父よりもビジネス的な向上心が強かったように思う。
  性格的にはとにかく激しい人で、他人の意見をひとつも聞かないまま、独断で物事を進める。そして絶対に自分の意見を曲げない。
 たとえば、小学1年生の冬、学校から帰ってくつろいでいたときのことだ。祖母と一緒にこたつでテレビを見ていると、すたすたとやってきた母が仁王立ちでこう言った。
 「貴文! これから道場に行くけん、準備せんね!」
  道場に行くから準備をしろ? なんのことだかわからないまま車に押し込まれて、販売店で柔道着を買うと、そのまま近くの警察署に隣接した道場に連れて行かれた。これから毎週3日間、ここに通って柔道をしろと言うのだ。なぜ柔道なのか、なぜこのタイミングで始めるのか、せめて野球やサッカーじゃダメなのか、といった話はいっさい受けつけない。とにかく、有無を言わさず「やれ!」なのである。出てくる言葉は、いつも命令形。ほとんど銀行強盗のようなものだった。
  結局、小学校の6年間、僕は警察の柔道道場に通うことになる。学校が終わると自転車で片道30分かけて道場に通い、1時間半の猛練習をして、また30分かけて帰る。これが火曜、木曜、土曜と週に3日間も続くのだ。
  残念ながら僕は、最後の最後まで柔道が好きになれず、道場での時間はただただ苦痛でしかなかった。体力の限界まで追いつめられる練習も、理不尽なしごきも、いまの時代ではありえないほどの体罰も嫌だった。だが、なによりもつらかったのは、クラスの友達と遊べなかったことだ。
  じゃあ、練習をサボってしまえばいいじゃないか。学校じゃないんだから、休んでもかまわないじゃないか。そんなふうに思う人もいるだろう。もちろん、練習をサボるなんて、うちの母が見逃すはずがない。
 あるとき、こんなことがあった。柔道の練習をサボったことが発覚し、電灯もない田舎の夜道に「お前なんか出ていけ!」と追い出された。どんなに玄関扉を叩いて懇願しても、入れてくれない。家中の扉に鍵をかけ、だんまりを決め込んでいる。
  強情な母の性格を熟知している僕は、それ以上の抵抗をあきらめ、近所で唯一深夜営業をしている喫茶店まで歩いて行った。とりあえずそこに行けば、明かりがある。喫茶店に入るお金はないけれど、人の気配を感じることができる。そのまま野宿しようと、ドアのところでうずくまっていた。
  すると、店にいた大学生が「どうした、小学生がこんな時間になにをやってるんだ?」と声をかけてきた。家から詰め出された事情を説明すると、「じゃあ、オレが入れてもらえるよう、お母さんを説得してやるよ!」と申し出てくれた。この大学生の懸命な説得により、母も渋々ながら家の鍵を開けたのだった。
 ともあれ、母とのコミュニケーションは一事が万事こんな調子だった。
  一度怒らせると手がつけられなくなるし、どこに地雷があるかもわからず、いつどんな無茶を言い出すかも見当がつかない。
  高校1年生の冬休みには、またも突然「家でダラダラされても困るけん、年賀状配達のバイトに行ってこんね!」と言われた。もう郵便局とは話をつけてあるから、この日のこの時間に郵便局まで行ってこい、と。もちろん理由を聞いても「せからしか!」になるし、下手に反抗したら余計面倒なことになる。
  しかし、指定された日時に郵便局を訪ねても、あいにく担当者が留守だった。やむなくそのまま帰ってくると、「なんで帰ってきた! お前はわたしの顔に泥を塗る気か!」と血相を変えて怒鳴り散らす。泥を塗るもなにも、約束を破ったのは向こうじゃないか。そもそもどうして僕が年賀状の配達なんてやらなきゃいけないんだ。なんでも勝手に決めるのはやめてくれ。たまりかねた僕が一気にまくし立てると、理屈では勝てないと思ったのか、黙って台所のほうに退散していった。
  ところが、今度は両手で文化包丁を握りしめ、刃先をこちらに向けたまま「お前を殺して、わたしも死ぬ!」と鬼の形相で迫るのだ。
  こうなるともう、ヒステリックのひと言では片づけられない。とにかく「激しい」以外の言葉が見つからない、強烈な人だった。
 ただし最近になって、ひとつ気づいたことがある。
  ちょうど、母が還暦を迎えたころのことだった。急に電話をかけてきて「車が古くなってきた」だの、「次はマーチみたいな小さい車にするつもり」だの、とりとめのない話をしてきた。仕事中だったこともあり、生返事のまま聞いていたところ、突然「還暦だから赤がいい」と言う。
 「えっ? 赤って、なにが?」
  なんの話かわからず聞き返すと、「もういいっ!」と怒って電話を切られた。なんのことはない、要は還暦祝いに赤いマーチを買ってほしかったのだ。正直にそう言ってくれる親だったら、素直になれる人だったら、僕ももっと素直になれただろうに……。
  僕自身、かなり不器用で愛情表現が苦手な人間だが、母のそれは僕に輪をかけて不器用である。
  どこまでも激しく、どこまでも不器用な人。それが僕の母だ。









たった一度の家族旅行

 そんな両親のもとに育って、一家団らんするような時間はあったのか?
  ほとんど記憶にない、というのが正直なところだ。
  父は外で飲んで帰ることも多かったし、帰りの早い日は大抵黙って巨人戦を見ている。いつ怒り出すかわからないので、僕はなるべくその場から離れていた。食卓でも、会話らしい会話はほとんどしない。80歳を越えた祖母が、戦時中に空襲で焼け出された話を毎日のようにくり返していた。
  家族で外食するといえば、せいぜい長崎ちゃんぽんのチェーン店「リンガーハット」に行くくらい。それも月に一回あるかどうか、という程度だ。裕福な家庭には程遠い。福岡が発祥のファミリーレストラン「ロイヤルホスト」は、高嶺の花だった。
  そして夏休みになると、車で20分ほど離れた母方の曾祖父の家に預けられる。あの、最初の記憶で僕をおぶってくれていた曾おじいちゃんの家だ。いまになって思えば、「子どもをひとりで置いておくわけにはいかない」という、共働きならではの事情だったのかもしれない。でも、そんな説明もないまま、追い出すように預けられる。だから夏休み期間中は両親と会う回数も少なく、クラスの友達とも遊べなかった。
  海水浴や遊園地に行くのは父と二人だけだったし、家族揃っての旅行は一度きりだ。忘れもしない、たった一度の東京旅行である。
 小学3年生のとき、父が東京まで出張することになり、それに合わせて僕と母も一泊二日で東京旅行しよう、という話になった。はじめて訪れる大都会、東京。はじめて乗る新幹線。帰りには、飛行機に乗ることもできる。僕は胸をときめかせ、観光プランを練り上げていった。
  まず、地下鉄路線図を広げて池袋駅を探す。目的地は、当時東洋一の高さを誇っていた多目的ビル、サンシャイン60だ。それから僕は、どうしても地下鉄に乗ってみたかった。当時はまだ、福岡市にも地下鉄は通ってなかったのだ。いったい地下のトンネルを走るとは、どういう気分なんだろう。そして地下トンネルを走り抜けた後に上るサンシャイン60からの景色は、どんなものなんだろう。10階建てのビルでさえ登ったことがないのに、60階だなんて、まったく想像がつかない。
  路線図を見ると、どうやら丸ノ内線というやつに乗れば、東京駅から池袋まで行けるらしい。営団地下鉄丸ノ内線。なんとも近未来的でカッコイイ響きだ。その他の観光については親の希望に従おう。でも、丸ノ内線とサンシャイン60だけは、絶対に譲れない。8歳の僕はどうにか両親を説得し、ドキドキしながら東京行きの新幹線に乗った。
 ところが、東京駅に着いてみると、丸ノ内線がどこにあるのかまったくわからない。
  それまで僕の頭にあった「駅」とは、規模が違う。うんざりするほどたくさんの人が、巨大迷路のような空間を早足で通り過ぎていく。少しでも気を抜いたら、親とはぐれてしまいそうだ。時間もないし、ぐずぐず迷っていたら親が「もういい、別のところに行こう」と言い出しかねない。
  結局、たぶんこれだろうと思って飛び乗った池袋行きの電車は、地上を走る山手線だった。……テンション急降下である。
  呆然としたまま池袋のサンシャイン60に到着すると、喫茶店で遅めの昼食をとろうという話になった。テーブルが全席インベーダーのゲーム機になった、学生がたむろする煙草くさい喫茶店だ。なんだか、ますます気が滅入っていく。
  そこから60階の展望台に上り、ぐるっと回って曇り空の景色を眺めたところで時間切れ。両親に急かされ、そのまま階下に降りていった。
  あれだけ楽しみにしていた僕の東京観光プランは、不完全燃焼のまま終わり、父が予約していた「はとバス」に乗り込んだ。こんなはずじゃなかったのに……。ふてくされたままのバスツアーは、どこを回ったのかさえ覚えていない。
 するとバスツアーの終盤、突然母が「日光の鬼怒川温泉に行こう」と言い出した。急いで行けば旅館も間に合う、そうすれば明日は日光東照宮を見てから帰れるのだ、と。それで慌てて路線を調べ、「時間がないから晩飯は立ち食いそばだ」という。
 「ええ! せっかく東京に来たのに、立ち食いそば!?」
  地下鉄の失敗から引きずっていたフラストレーションは、ここで一気に爆発した。駅のホームで泣き叫んだ。日光だかなんだかしらないけど、どうして東京までやってきて、わざわざ立ち食いそばを食べなきゃならないんだ。もっと東京らしい、家族旅行らしい晩ごはんがあるだろう。僕がこの旅行をどれだけ楽しみにしてたと思うんだ! どうしていつもこうなんだ、どうしてはじめての家族旅行くらいちゃんとできないんだ! 泣き叫ぶうちに、怒りを通り越して悲しくなってきた。
  結局僕の願いは聞き入れられず、親子三人で駅ホームの立ち食いそばを食べて、深夜の鬼怒川に到着した。翌日は日光東照宮を見たあと東京まで戻り、羽田空港から飛行機で福岡に帰った。当然、地下鉄には乗れないままだ。
  たった一度の家族旅行で食べた食事が、インベーダーゲームの喫茶店と、東武線構内の伸びきった立ち食いそば。なんだか、あの東京旅行が堀江家の空気をすべて物語っているような気がする。「食事」であればなんでもいい、「サンシャイン60」に上ればそれでいい、といった雑な感覚。れっきとした家族でありながら、同居人でしかないような、不思議な関係だ。
  僕は寂しかった。親を心底嫌いになれる子どもなんて、そうそういない。両親には実家があるのかもしれないが、僕には「この家」しかなかったのだ。兄弟もほしかったし、明るい笑顔がほしかった。けれど、その言葉はぐっと飲み込むことしかできなかった。
 ちなみに現在、両親は別居している。
  別居の経緯についてはなにも聞いていない。もしかしたら、僕が子どものころから夫婦仲がよくなかったのかもしれない。思えば夫婦の会話らしきものをちゃんと聞いたこともない気がする。そう考えると、海水浴や遊園地に母がついてこなかったことも、立ち食いそばも、当たり前だと思える。





情報は自らつかみ取るもの

 こうやって両親の話をしていくと、多くの人が首を傾げる。
  うちの両親は、二人とも平凡な高校を卒業した、ごくごく一般的な人たちだ。経済的な事情などはあったのかもしれないが、大学も出ていないし、サラリーマンとしての父は支店勤務の課長どまりだった。自分の親を悪く言うつもりはないけれど、どうひいき目に見積もっても「普通」の人たちである。
  どうしてそんな両親のもとで、僕のような人間が育ったのだろう?
  ……こればかりは、よくわからない。遺伝だとは思えないし、なにかしらの英才教育を受けた覚えもない。むしろ僕の置かれた環境は、最悪に近かった。
 地理的な状況から説明しよう。
  僕の生まれた八女市は、お茶と仏壇、提灯などの特産品で知られる山間部の町である。住人のほとんどが一次産業に従事しており、うちのようなサラリーマン家庭のほうが珍しい。当時は住宅もまばらで、友達の家まで遊びに行くにも、歩いて30分は覚悟しなければならなかった。文化の香りなどあるはずもなく、ただただ肥料の匂いが漂う町だ。
  文化が欠落していたのは、八女の町だけではない。堀江家もまた、文化や教養といった言葉とは無縁の家庭だった。
  たとえば、うちの父は「本」と名のつくものをほとんど読まない。家に書斎がないのはもちろん、まともな本棚もなければ、蔵書さえない。テレビがあれば満足、巨人が勝てば大満足、という人である。
  そんな堀江家にあって、唯一読みごたえのある本といえば、百科事典だった。
  当時は百科事典の訪問販売が盛んで、日本国中の家庭に読まれもしない百科事典が揃えられていた。きっと、百科事典を全巻並べておくことが小さなステータスシンボルだったのだろう。わが堀江家も、その例外ではなかったわけだ。
  そこで小学校時代、僕はひたすら百科事典を読みふけった。
  事典として、気になる項目を拾い読みしていくのではない。第一巻、つまり「あ行」の1ページ目から、最終巻「わ行」の巻末まで、ひとつの読みものとして通読していくのだ。感覚的には読書するというより、情報から情報へとネットサーフィンしているオタク少年に近いだろう。
  リニアモーターカー、コンピュータ、そしてアポロ宇宙船や銀河系。百科事典には誇張も脚色もない。映画や漫画で見てきたような話が、淡々とした論理の言葉で紹介されている。星の名前も国の名前も、遠い昔の国王も、すべて百科事典で覚えた。ページをめくるたびに新たな発見があり、知的好奇心が刺激されていった。インターネットも携帯電話もない時代。僕にとっての百科事典は、社会に開かれた扉だったのだ。
 ちなみに、同じ「本」でも小学校の図書室に置いてあるような児童文学は苦手だった。
  理由は簡単である。
  当時の僕が求めていたのは、よくできた「お話」ではなく、網羅的な「情報」だったのだ。フィクションの世界に耽溺するより先に、この山の向こう、あの海の向こうに広がっているはずの、現実の「世界」が知りたかった。
  もしも、これで都会の文化的な家庭に生まれていたら、きっと百科事典なんか読んでいなかっただろう。児童文学を読み、豊かな感性を育んでいたのかもしれない。しかし、いまほど貪欲に情報を追い求める姿勢も育まれなかっただろう。僕にとっての情報とは、誰かが用意してくれるものではなく、自らつかみ取るものなのである。
  あの文化も教養もない環境がよかったとは思わない。
  生まれたときからインターネットに触れられるいまの子どもたちが羨ましい。
  でも、自他ともに認める「情報ジャンキー」となった僕の原点は、外界の情報に飢えまくっていた、あの子ども時代にあるはずだ。
「あなたの居場所はここじゃない」
 百科事典のおかげだとは思わないが、小学校時代、勉強はダントツだった。
  テストや教科書なんて、簡単すぎてつまらない。みんなが「わからない」と言っている、その理由がわからない。申し訳ないが、先生さえも間抜けに見えていたくらいだ。たとえば算数のテストだと、僕は10分とかからず全問解き終えてしまう。もちろん毎回100点だ。みんなが40分もかけている理由が、まったく理解できなかった。
  ここでむずかしいのは、解き終わったあとの残り時間だ。
  暇だからと眠っていたら怒られるし、教室の外に出て行くわけにもいかない。答案用紙の裏に落書きするのも飽きてしまう。最終的に僕は、教壇のところで先生の代わりにみんなの答案を採点するようになった。
 とはいえ、勉強ができるからといって尊敬されたりモテたりするわけではないのが、小学生の悲しいところである。小学校において、「頭がいいこと」にはなんの価値もない。クラスのヒーローになれるのは、足が速くて球技が得意な男子だけなのだ。残念ながら僕は足が速いわけではなかったし、球技も苦手だった。
  では、真面目なガリ勉タイプだったのかというと、それも違う。
  通知表の素行欄に書かれる言葉は、いつも「協調性がない」。先生からも、クラスメイトからも、ちょっとした問題児として煙たがられることが多かった。たとえば、掃除はサボってばかりだし、日直などの仕事もやらない。遠足に行っても単独行動をとってしまう。典型的なひとりっ子の振る舞いだ。
  そして少しでも気に食わないことがあると、すぐに取っ組み合いの喧嘩になる。柔道のおかげで腕っぷしには自信があった。ましてや、口論で負けることなど、ぜったいにありえない。毎日のように誰かと喧嘩して、ときには机を投げつけたり、相手を用水路に突き飛ばすこともあった。
 どうしてそんな問題児になってしまったのか?
  たぶん僕は、苛立っていたのだと思う。自分自身に苛立っていたし、自分の置かれた環境に苛立っていた。
  足が速いわけでもなく、絵がうまいわけでもない。柔道のおかげで友達と遊ぶこともできず、テレビの話題にもついていけない。夏休みになれば、曾祖父の家に追いやられる。いくら勉強ができたところで、ほめられることもなく、むしろ疎まれるだけだ。
  もちろん田舎の子どもらしく、みんなで山に登ったり、川辺で遊ぶこともあった。決して友達がいなかったわけではない。楽しい思い出がないわけではない。
  けれど僕は、いつもどこかで醒めていた。ここが自分の居場所でないような、自分だけみんなと切り離されたような、疎外感を抱いていた。
 そんな僕に、はじめての理解者が現れる。
  小学3年生の担任だった、星野美千代先生だ。福岡時代の僕にとって、唯一「恩師」と呼べる先生である。
  星野先生は、僕の生意気なところ、面倒くさいところ、そして不器用なところを、すべておもしろがってくれた。せっせと百科事典を読んでいることも、祖母が毎日唱えていたお経を暗記していたことも、全部ほめてくれた。こんな僕にも理解者がいて、応援してくれる人がいる。それだけでうれしかった。
  そしてなにより、星野先生が他の大人と違ったのは「みんなに合わせなさい」と言わなかったことだ。むしろ、みんなに合わせる必要なんてない、その個性をもっと伸ばしていきなさい、と教えてくれた。
  3年生の終わりごろ、先生は僕をつかまえてこんな話をした。
 「堀江くん、あなたはここにいたらもったいない。八女から出ないと、ずっとこのままよ。久留米に『全教研』という進学塾があるから、そこに行きなさい。そうすれば、あなたみたいな友達が何人もいるはずだから」
  最初は先生がなにを言っているのか、意味がわからなかった。学年でダントツのトップだった僕に、100点しかとったことのない僕に、塾に行けというのだ。
  それまで僕は、塾なんてお金持ちの子どもか、勉強のできない子どもが行くところで、自分には無縁の世界だと思っていた。しかし先生は、そうじゃないという。このまま八女の公立中学に進むのではなく、久留米にある中高一貫の私立校、久留米大学附設中学校に行きなさい。あなたの居場所はそこにある、と。
 結局僕は、星野先生の後押しもあって、4年生から久留米の進学塾に通うことになる。いまでも不思議に思うことがある。もしも星野先生のアドバイスがないまま地元の公立中学に通っていたら、どうなっていたのだろう? 地元の空気に染まり、地元の仲間と楽しく過ごし、地元でなにかの仕事を見つけていたのだろうか。その人生がいいとか悪いとかではなく、いまの僕にはまったく想像がつかないことだ。
  僕にとってはじめての理解者、星野先生。もしも再会できることがあったら、泣き出してしまうかもしれない。いまの僕があるのは、間違いなく星野先生のおかげなのだ。



キラキラと輝く都会の進学塾

 久留米市は、福岡県南部でいちばん大きな繁華街である。
  全国的には、歌手の松田聖子さんや藤井フミヤさん、女優の田中麗奈さんなどの出身地としても知られる、賑やかな街だ。
  僕の家から最寄りのバス停まで、自転車で15分。そこからバスに乗り込み、車窓からの風景を眺めていると、まず田んぼが消える。そして少しずつ商業施設が増えはじめ、周囲の建物が鉄筋コンクリート建てになっていく。さらに大きなデパートやビルの間をくぐり抜けると、ようやく久留米のバスセンターに到着する。所要時間30分の、小さな旅だ。
  久留米の街は、なにもかもがキラキラと輝いていた。
  デパートもあれば映画館もあり、ゲームセンターからボウリング場まである。メインストリートの「一番街」にはオシャレな高校生や大学生が行き交い、夜にはネオンやイルミネーションが輝く。当たり前の話だが、八女の田舎とはなにもかもが違う。
 そして塾に集まる子どもたちもまた、みんなおもしろかった。
  たとえば孫正義さんの弟で、現在「ガンホー・オンライン・エンターテイメント」の会長をしている孫泰蔵くんも、同じ塾の同級生である。彼はその後、中学・高校でも同級生となる仲だ。同じクラスになることはなく、親友とまでは言えなかったものの、廊下などで会えば軽く言葉を交わす「タイゾーくん」だ。
  個性派揃いの塾メンバーで特に強烈だったのは、筋金入りの科学少年、次田くんである。カバンからへんな薬品を取り出して、いきなり「これ実験で余ったミョウバンなんだけど、ちょっと舐めてみろよ」と言ってくるような小学生だった。その後、彼とはなぜか意気投合し、中学では一緒に化学部をつくってロケットの実験などに精を出すことになった。その話については、またあとで触れよう。
  さらに、僕と同じ小学校からは、もうひとりだけYくんという男の子が通っていた。医者の息子だった彼は、学校内でもけっこうな権力を持つ、典型的なリーダー型のお坊ちゃんだった。僕とは一度取っ組み合いの喧嘩をした間柄で、とても友達関係ではなかったのだが、塾をきっかけに仲良くなった。
  帰りにミスタードーナツをおごってくれたり、自宅に招いて夕食をご馳走してくれたり、彼の父親が運転するトヨタの「マークⅡ」でロイヤルホストに連れていってくれたりと、いかにもお坊ちゃんらしく世話してくれたものだ。
  車種まで記憶しているのは他でもない。当時の僕は、マークⅡのことをベンツにも匹敵する超高級車だと思っていたのだ。堀江家の日産「サニー」とは、グレードが違う。大きさも違えば、内装も、乗り心地も、すべてが違う。特に驚いたのが、ボタンひとつで自動開閉するパワーウィンドウだ。興奮のあまり、意味もなく何度も開け閉めさせてもらったのを覚えている。まるでSF映画の世界だった。
  そんな超高級車マークⅡに乗って、ほのかなオレンジ色に輝く高級レストラン、ロイヤルホストに入っていくのだ。いまとなっては完全な笑い話だが、あのときの高揚感を僕は忘れることがないだろう。
 塾通いに魅せられたもうひとつの理由として、講師陣の教え方が抜群にうまかったことも挙げられる。最上位のAクラスにいたこともあり、授業のレベルも高い。小学校のように「遅い子に合わせよう」という発想は、いっさいなかった。遅れる子がいるのなら、Bクラスに移ってもらえばいい。僕らAクラスの子どもたちは、自分の好きなスピードでどんどん先へと進んでいける。とてもシンプルで合理的だ。
  そうすると、あれだけ退屈だった勉強がおもしろくなり、よりむずかしい問題、より新しい課題を求めるようになっていく。塾のある日は柔道も休めるし、刺激的な友達とも会えて、おいしいものも食べられる。しかも勉強が楽しくなるのだ。こんな世界を知ってしまったからには、もう八女の生活には戻れない。
  僕は星野先生との約束どおり、久留米大学附設中学校を受験し、合格した。地元で「フセツ」と呼ばれる、県下いちばんの進学校だ。
  進学校に入ることが目的だったわけじゃない。当時から東大に行こうと思っていたわけでもないし、親から受けろと言われたわけでもない。僕はただ、なんの刺激もない田舎町に退屈しきっていたのだ。都会に出て、たくさんの刺激を吸収し、おもしろい仲間と出会う。それさえできれば、学校なんてどこでもよかった。
  とりあえず、八女の山奥に閉じ込められる日々からは抜け出すことができた。まだまだ小さな一歩には違いない。しかし、確実な一歩である。




 ここから抜け出すには東大しかない

 高校へと上がり、気づくと部屋のパソコンも埃をかぶるようになっていた。
  しかし、ここで真面目に勉強するような僕ではない。
  それまでパソコンに費やされていた時間は、勉強でもスポーツでもなく、すべてが享楽的な遊びの時間へと切り替わっていった。
  友達の家に泊まり込んで朝まで麻雀をしたり、ゲームセンターにたむろしたり、当時流行っていたビリヤードで遊んだりと、かなり自堕落な生活だ。当然、学校の成績は悪いままで、親からは毎日のように叱られる。
  思えば、中学時代の僕には、パソコンという砦があった。どんなに成績が落ち込んでも、パソコンによって自尊心を保つことができた。自分はみんなが知らない世界に触れている、みんなより先を進んでいる、というちっぽけな自尊心だ。
  ところが、パソコンから離れた僕には、もはやちっぽけな自尊心さえ残されていない。将来のことなどなにも考えられず、ただ目の前の快感に流されていく日々。昨日と同じ今日が続き、今日と同じ明日を迎える。率直に言って、僕は高校1~2年当時の記憶がすっぽり抜け落ちている。
  どうしてこんなことになってしまったんだろう?
  このままどこに行くつもりなんだろう?
  友達と一緒にゲラゲラ笑っているときも、上空には醒めた目で自分を眺める「もうひとりの自分」がいた。遊んでも遊んでも、まったく楽しくなれなかった。
   
 しかし、入学から5年が過ぎ、そろそろ真剣に進路を考えるべきときがやってきた。
  指標となるのは、高校3年の春に受けた東大模試。当然、F判定だ。合格率をパーセントで算出できるレベルではない。単純に「判定不能」、もっといえば「あきらめなさい」のサインである。
  そもそも僕に、希望の大学はなかった。
  僕が掲げていた最大の目標、それは「ここ」から脱出することだった。それが九州なのか、福岡なのか、八女なのか、あるいは堀江家なのか、よくわからない。とにかく、もう「ここ」での生活には、うんざりしきっていた。
  じゃあ、どんな進路が考えられるのだろう?
  友達の多くは地元の国立、九州大学への進学を考えている。「九大」といえば、九州でいちばんのエリートコースだ。でも、僕にとっては絶対にありえない選択肢だった。もしも九大となれば、またも実家からの通学を強制される可能性がある。
  かといって、わざわざ大阪や名古屋をめざす気にもなれない。
  やはり、行くとなれば東京だ。
  早稲田や慶應はどうだろうか? ……いや、東京の私立大に行くなんて、金銭的に無理である。学費を理由に「九大に行け」と言われて終わるだろう。
  それでは、同じく都内の国立大である一橋はどうか? ……これも論外だ。そもそも、うちの両親が一橋を知っているかどうかも怪しいし、おそらく一橋や早慶よりも九大のほうが偉いと思っている。それが九州人のメンタリティというものだ。
  そうやって考えていくと、僕が「ここ」から脱出するには圧倒的な説得材料が必要だった。どんな強情な人間でも認めざるを得ない、最大級の結果が必要だった。目眩がしそうになる自分に、しかと言い聞かせた。
  他に選択肢はない。
  うちの親でも知ってる日本一の大学、東大に合格するしかないのだ。
  それは、失われた自尊心を取り戻すための挑戦でもあった。









勉強とは大人を説得するツールだ

 目標は東大に定まった。あとはどうやって合格するか、その手段だ。
  まず書店に足を運んで「赤本」を購入し、自分なりに対策を練っていく。
  国語はさほどむずかしくない。過去問の反復練習で対応できるだろう。社会に関しては百科事典のベースがあるせいか、ずっと得意だった。理科は配点が低いので後回し。そうなると残るのは、英語と数学である。
  根っからの科学少年だったこともあり、当初僕の希望は理系だった。しかし、自分の数学力と受験までのスケジュールを逆算すると、どう考えても無理だ。センター試験はともかく、東大数学の二次試験は数学的クリエイティビティが要求される。当時の僕がもっとも苦手としていた部分である。
  幸い、東大には「進振り」といって、1~2年の成績に応じて3年次からの進路を自由に選択できる制度があった。F判定の自分に、贅沢は言えないだろう。まずは文系で入学しておいて、進振りを使って理系に転向(理転)する道を選んだ。
 そうなればポイントは英語だ。当時、僕の英語は5~6割の正解率。まさしく判定不能、「あきらめなさい」のレベルである。
  過去問を何度も読み返した結果、僕のたどり着いた結論はこうだった。
  受験英語とは、とにかく英単語を極めることに尽きる。文法に惑わされてしまうのも、すべては単語の意味を取り違えているからだ。単語力の強化が、そのまま英語力の強化に直結する。
  実際、僕の単語力はかなりお粗末なものだった。そこで英語の教師におすすめの単語帳を教えてもらい、片っ端から丸暗記することにした。暗記するといっても、よくある単語カードによる暗記ではない。
  単語帳の隅から隅まで、派生語や例文も含めてすべての文言を「丸暗記」していくのだ。ちょうど、俳優さんが台本を丸ごと暗記するようなイメージである。
  自分に課したノルマは、1日1見開き。12月に終える予定だったが、予定より早く進んで、秋口には全ページを一言一句漏らさず暗記することができた。
 こうやって書くと、いかにも血の滲むような努力をしたように思われるかもしれない。しかし、そんな意識はまったくなかった。実際僕は、どんなに追い込まれても毎日10時間の睡眠を確保するようにしていたほどだ。要は起きている14時間をすべて??これは食事や風呂も含めて??勉強に充てればいいのである。
  勉強でも仕事でも、あるいはコンピュータのプログラムでもそうだが、歯を食いしばって努力したところで大した成果は得られない。努力するのではなく、その作業に「ハマる」こと。なにもかも忘れるくらいに没頭すること。それさえできれば、英単語の丸暗記だって楽しくなってくる。
  極端な話、ゲームやギャンブルにハマるのと同じだ。仕事だとか勉強だとかいう先入観で物事を判断せず、目の前の作業にハマッてしまえばいいのである。
  実際、単語帳の丸暗記はおもしろくてたまらないゲームとなり、英語についてはほぼこれだけの勉強で、3年冬のセンター模試で9割以上の正解率を叩き出した。F判定だった模試も回を重ねるごとにE判定、D判定となり、最終的にC判定まで上昇する。楽観的すぎるのかもしれないが、このC判定をもらった段階で「よし、これで合格できる!」と確信した。
 入試の結果については、みなさんもご存じだろう。僕はどうにか現役で東大に合格することができた。
  ひとつ意外だったのは、後期日程での合格を目論んでいたのに、運よく前期日程で合格できたことだ。まさか前期で合格するとは思っておらず、合格発表も見に行かなかったので、担任からの電話で合格を知らされた。
  あからさまな劣等生だった僕の合格に、職員室は大騒ぎだったようだ。
  しかし、うちの両親はそこまで大喜びというわけではなかった。仕送りのことが頭をよぎったのか、それともひとり息子の上京が寂しかったのか、あるいは感情表現が苦手すぎるせいなのか、僕にはわからない。
 いま、福岡時代の自分を振り返って思うのは、僕にとっての勉強とは「説得のツール」だったことだ。子どもとは、大人の都合によっていくらでも振り回される、無力な存在だ。しかし、勉強という建前さえ掲げておけば、大抵のわがままは通る。八女から久留米の街に出ることも、柔道の道場を休むことも、パソコンを購入することも、そして上京することも。あのどん詰まりの環境から抜け出すには、勉強するしかなかった。誰の目にも明らかな結果を残すしかなかった。
  だから僕は、勉強が無駄だとはまったく思わない。
  無駄に終わる知識はあるかもしれないが、周囲の大人を説得し、自分で自分の道を切りひらく最大のツールは、勉強なのだ。
 上京するために荷物をまとめていたとき、背中を向けた父がボソッと「まあ、お前が卒業してこっちに帰ってきたときには……」とつぶやいた。顔を上げると、さほど大きくない父の背中が、余計に小さく見えた。
  帰ってくる!? 僕が? なにを言っているんだろう?
  八女に生まれたこの人は、これからもずっとこの地で生きていくのだろう。見慣れた景色に囲まれ、見慣れた仲間とともに生きていく。その人生を否定するつもりはないし、そういう幸せだってあるのかもしれない。
  でも、僕は前を向いてしまったのだ。
  一度しかやってこない人生の特急列車に、飛び乗ってしまったのだ。
  この先どんな困難が待ち受けていようと、後ろを振り返るつもりはなかった。
  ちゃんと言葉を返すべきだったのだろうか。もう帰ってくることはないと、言葉にして伝えるべきだったのだろうか。
  うまく返事のできないまま、僕は黙ってカバンに荷物を詰め込んだ。



大学生活のすべてを決めた駒場寮

 ライブドア、そして堀江貴文の名前が大きく報道されるようになったのは、2004年のことだ。当時大阪に本拠地を置いていたプロ野球球団、近鉄バファローズの買収に名乗りを上げたとき、ほとんどの人は僕のことを知らなかった。まだ「ホリエモン」の愛称が生まれる以前の話である。
  好意的に取り上げてくれるメディアは、僕のことを「東大出身の若手ベンチャー経営者」だと紹介した。当時の年齢が32歳。新進気鋭のベンチャー経営者で、しかも東大を出たエリートなのだ、という意味合いだ。東大のブランド力を最大限に活用したプロフィールだが、ここにはちょっとした言葉のマジックがある。
  僕は「東大出身」ではあっても、「東大卒」ではない。つまり、あんなに勉強して入った東大に見切りをつけ、中退する道を選んだのだ。
 1991年の春、僕は東京大学に入学した。
  東大では、1~2年生の全員が教養学部前期課程に属し、東京都目黒区の駒場キャンパスに通うことになる。銀杏並木の印象的な、落ち着いた雰囲気のキャンパスだ。
 「ここから新しい人生がはじまるんだ」
  入学当時の僕は、大きな期待に胸を膨らませていた。
  3年次に理転するには、ここでそれなりの成績を残しておかなければならない。なんといっても日本一の最高学府に入ったのだ。勉強もしっかりやっていこう。
  そして悪夢のような男子校生活に別れを告げ、大勢の女の子たちと夢のキャンパスライフを送ることになる。もちろん彼女だってつくらなきゃいけないし、合コンからサークル活動まで、大いに青春を謳歌しよう。地理的にいっても駒場は渋谷からもほど近く、いろんな刺激を得られそうだ。これからどんな物語がはじまるのか、考えただけでもゾクゾクしてくる。
 東京での住み処に選んだのは、キャンパス内にある駒場寮。
  いまはもう取り壊されてしまったが、戦前の旧制一高時代からの伝統を受け継ぐ、三階建ての学生自治寮である。振り返って考えると、僕にとっての「東大」は、ほとんどこの駒場寮に集約されるような気がする。
  周辺を大きな木々に囲まれ、外壁が太い蔦に覆われた駒場寮。僕が入寮した当時でさえ築50年以上という、かなり古い建物だった。お世辞にも管理が行き届いているとは言い難く、寮生以外はほとんど寄りつこうとしない。さながらキャンパス内に取り残された廃墟のような、一種異様な雰囲気を漂わせていた。
  駒場寮は、相部屋による共同生活が原則である。部屋ごとに寮生の個性も豊かで、どんな部屋に入るかによって、その後の学生生活にも大きな影響が出てくる。そして幸か不幸か、僕は駒場寮の中でもかなり変わった部屋に入寮することになる。
  部屋の真ん中に雀卓が鎮座する、「麻雀部屋」だ。
   
 もともと堀江家では、親戚が集まるといつの間にか卓を囲んでいることが多かった。思えば麻雀は、両親にとって唯一ともいえる共通の趣味だ。僕も小学生のうちから見よう見真似でマスターしていた。高校時代には、友達と徹夜で麻雀をすることも多く、それなりに強かった。大学に入学した時点で、すでにキャリア10年。ある意味ベテランである。
  そんな僕が、麻雀部屋に転がり込んだのだ。目の前に卓があり、牌がある。やらないわけにはいかないだろう。
  麻雀好きな先輩、同級生、さらにはOBから他校の学生まで、さまざまな人間が入り乱れての麻雀生活がスタートすることになる。
 上京にあたっていちばん不安だった金銭面は、ほとんど困らなかった。ここは東大ブランドの強いところで、適当に塾講師のアルバイトをやっておけば月に15~20万円は入り込んでくる。また、最悪お金がなくなっても、寮にいればOBの人たちがビール券や食料を持ってきてくれるので、食うには困らない。キャンパス内に住むことで「通学」そのものがなくなったし、うるさく文句を言う親もいない。となれば、あとはひたすら麻雀に明け暮れるだけだ。
  4人揃えば卓を囲み、誰かが寝落ちするまでジャラジャラと洗牌する(牌をまぜ合わせる)音が鳴り響く。週末ともなれば、大勢が集まっての焼肉パーティーだ。部屋には母が入学祝いのように送ってくれた、1升炊きの炊飯器がある。さすがに普段使いには困る大きさだが、きっと寮の先輩や同級生たちと仲良くできるよう、彼女なりの気配りだったのだろう。この炊飯器には20代の後半までお世話になった。
  もともと肉が苦手で、ガリガリに痩せていた僕だが、入寮の1年後には10キロも太っていた。どこにでもいる、堕落しきった大学生である。


どうして東大に幻滅したのか

 では、勉強はどうだったのか。いくら麻雀部屋に住んでいたとはいえ、どうして麻雀に明け暮れ、堕落しきった生活を送っていたのか? 勉強しにきたんじゃなかったのか?
  もちろんそこには理由がある。
  入学当時の僕は、1~2年のうちに勉強をがんばって、3年からは理転して自分の好きな生命工学などの分野??当時は理転で航空宇宙工学に進むことはできなかった??に進もうと意気込んでいた。
  ところが入学して1~2ヶ月もしないうちに、日本の研究者が置かれた現実を見てしまう。駒場寮の麻雀部屋に入らなければ知らずに済んだかもしれない現実だ。
  寮の先輩にTさんという人がいた。当時すでに26歳くらいで、大学院の博士課程を単位取得退学した人だ。博士研究員(ポスドク)として研究室を転々とする日々を送っており、麻雀がめっぽう強かった。
  彼の専門はナノテクノロジー。まだカーボンナノチューブも発見・発表されていない時代からC60フラーレン(バッキーボール)などのナノテクノロジーを研究していた。超最先端の、超有望な科学技術である。いま考えても、かなり先見の明に優れた、天才的な研究者だったと思う。
  しかし、Tさんの研究には国からの研究費がほとんどつかず、研究環境は最悪に近かった。まともなパソコンを買う余裕もなく、台湾製のAppleⅡ(もちろん海賊版のニセモノだ)で計測していたほどである。
  どうして、そんなことがまかり通るのか?
  彼によると、日本の研究者は、純粋に研究成果のみで評価されるわけではないのだという。研究者の道には嫉妬や派閥争いなどのドロドロした権力闘争が待っており、閉鎖的なムラ社会が形成されている。このあたりは、麻雀部屋に出入りする理系のOBたち、あるいは塾講師をしている理系のOBたちも、異口同音にこぼす愚痴だった。
  Tさんの実験を手伝うこともあった僕は、「天下の東大でドクターまで進んでも、しょせんこんなものなんだ」「こんなに優秀な人でも認められず、劣悪な環境に閉じ込められるのか」と驚き、少しずつ幻滅していった。
  いま考えるとナイーブすぎたのかもしれないし、もしかしたら遊びたい自分への言い訳だったのかもしれない。でも、暗澹とした将来が見えた気がして、とても理転のことなど考えられなくなったのは事実だ。
  目の前に待っていたのは、麻雀漬けの毎日だけだった。



まったくモテなかった思春期

 それでは、もうひとつの目標だったはずの恋愛はどうだったのか?
  ちゃんと合コンに参加して、彼女をつくり、男子校生活では味わえなかった青春を謳歌したのか?
  率直にいって、僕はまったくモテなかった。いや、モテるとかモテないとかいう以前の問題だ。中高6年間を男子校で過ごしたこともあり、僕は女の子に対する免疫がゼロだった。まともに話をすることさえできなかった。
  とくに致命的だったのは、中高時代に自転車通学だったことだ。
  自宅から学校まで20キロの距離を、片道45分、往復90分かけて通学する。雨の日も、雪の日も、なにがあってもバスを使わず、自転車で通学する。それが入学時に親と約束させられたルールだ。
  男子校で自転車通学をしていると、女の子と出会うチャンスが皆無に等しい。
  たとえばこれが、電車やバスでの通学だったら、駅や電車の中、あるいは駅近くのファストフード店などで、なにかしらの出会いがあっただろう。少なくとも、かわいい子を見つけたり、一目惚れすることくらいはあったはずだ。
  ところが、黙々と自転車を漕ぐ僕には、一目惚れするチャンスさえない。僕の頭を支配していたのは、片道45分かかる通学時間を、なんとかして30分にまで短縮すること。女の子なんて目に入るはずもない。
  進学校だったこともあり、クラスメイトにも女の子との交流がある人間がほとんどいない。なんといっても、文化祭を「男く祭」と名づけてしまうほどむさくるしい校風なのだ。
  結局、僕の中高時代は、ほとんど同世代の女の子との接触がないないまま、「男くさい」男子校の中で過ぎていった。
 そんないきさつもあり、東大に入ってからは、できるだけ女の子と触れ合って、もちろん彼女もつくって、あの「失われた6年間」を取り戻そうと意気込んでいた。語学クラスも、女子率の高いスペイン語を選んだ。クラスの50人中30人が女子という、中高時代には考えられないほど恵まれた環境だ。
  ところが、まったく話しかけられない。
  声をかけようとした途端、全身が固まってしまう。喉の奥がギューッと詰まり、声が出なくなる。自分のルックスにも自信がなかったし、田舎の出身だし、東大では勉強さえも自慢にならない。全身コンプレックスの固まりだ。
  共学の高校を出た友達は「そんなの、普通に話せばいいじゃん」と言うのだが、こっちにはその「普通」に話した経験がないのだ。彼らの言う「普通」の感覚が、すでにわからないのだ。
  もっとも、女子率の高いスペイン語のクラスだし、ごく稀に向こうから「普通」に話しかけられることもある。
  これもダメだった。1年生のあるときだ。授業が終わって寮に向かってとぼとぼ歩いていると、同じクラスの女の子が声をかけてきた。
 「堀江くん、寮に戻るんだよね? 途中まで一緒に帰ろうよ」
  頭が真っ白になった僕は、心の中で「無理、無理、無理、無理!」と首を振りながら、なにも言わず足早に立ち去ってしまった……。
 同窓会などで、当時クラスメイトだった女の子たちに会うと、決まって「堀江くんって、完全にキョドってたよね」と笑われる。キョドっていた、つまり挙動不審になっていた、ということだ。たしかに、自分で考えてもかなり挙動不審だったと思う。
  女の子と目を合わせることができず、なにを話せばいいのかわからない。ファッションや流行に疎い僕に、共通の話題があるとは思えない。自分なんかと喋ってもおもしろくないだろう、という卑屈な思いもある。
  さらに、テーブルを挟んで向かい合うときに、手をどこに置いておくべきなのかわからない。机に載せればいいのか、ポケットに突っ込むべきなのか、あるいは腕組みするのがいいのか、そんなどうでもいいことばかりが気になって目が泳いでしまう。意を決して絞り出した声は、いつも上ずっている。……完全なオタクの挙動である。
  もしも僕に姉や妹がいれば、女の子との接し方にも違いがあったのかもしれない。しかし僕はひとりっ子で、「男くさい」男子校の自転車通学者だ。その影響がどれだけ大きいものか、同じ環境にない人に理解してもらうのはむずかしいだろう。
 いまだから明かす話だが、僕は大人になってからもずっと、女の子にキョドっていた。たとえば、近鉄バファローズの買収騒動でメディアに大きく採り上げられた2004年あたりも、まだキョドっていた。メディアの前では強がっていたけど、プライベートで会う女の子には相変わらず挙動不審で、うまく話せなかった。経営者となり、多少チヤホヤされるようになってきても「オレのことが好きなんじゃなくて、オレの持ってるお金が好きなんでしょ?」という猜疑心が拭えなかった。
  なぜなら、僕のルックスも性格も、全然モテなかった学生時代からなにも変わっていなかったからだ。
  ようやく女の子と普通に接することができるようになったのは、30代の中盤になってからのこと。情けない話だが、これは事実である。





「このままではこのまま」の自分に気づくこと

 大学3年になると、ほとんどの東大生は学びの場が駒場キャンパスから本郷キャンパスへと移る。あの、安田講堂や赤門で有名なキャンパスだ。おかげで僕も、めでたく駒場寮の「麻雀部屋」を卒業し、本郷のアパートに住むようになった。
  しかし、堕落した日々はその後も変わらない。麻雀からは離れたものの、今度は競馬の世界にハマっていったのだ。
  毎週末渋谷にあるウインズ(場外馬券売り場)に通い、第1レースから最終レースまでかじりつく。そのうち週末の中央競馬だけでは飽き足らなくなり、平日開催の大井競馬場に出かけたり、地方競馬に遠征するようになる。いまとなっては笑い話だが、当時は馬で稼いで馬主になれたら最高だな、と半ば本気で思っていた。起業後に馬主となった僕だが、あれは金持ちの道楽みたいな話ではなく、学生時代からの夢でもあったのだ。
  当時から僕は、就職してサラリーマンになる考えはなかった。
  暗い顔で電車に乗る大人たちを見ていて、サラリーマンが楽しそうには思えなかったし、なにか別の生き方があるだろうと思っていた。
 じゃあ、自分にどんな将来像があるのだろう?
  僕が働いていた塾には、東大出身の先輩が何人もいた。大学院を出たけれど、オーバードクターでポストもなく、そのまま塾講師を続けている先輩。40歳になっても塾講師を続け、最終的に地方の私立高校に転職していった先輩。それなりの高給が保証され、生活に困ることはない。しかし、学生だった僕の目から見ても、人生の目標を見失ったような人たちばかりだった。
  塾の休憩時間、教員室で漫画を読んでいた僕は、何気なく顔を上げて周囲を見渡した。先輩講師たちは、雑誌片手にコンビニ弁当を食べたり、ヘッドフォンステレオで音楽を聴いたり、次の授業の問題用紙をまとめたりしている。そこに漂う弛緩しきった空気と、その風景の一部となりかけている自分に、ゾッとしてしまった。
  このまま塾講師を続けていたら、間違いなくこの色に染まってしまう。
  ギャンブルに明け暮れ、大学を中退し、手近に稼げる塾講師を続け、気がつけば40歳の扉を叩く……。違う! 僕はこんな人生を送るために東京に出てきたわけじゃない。いますぐ変わらなきゃいけない。このままでは、一生「このまま」だ。
 塾講師に危機感を抱いた僕は、新しいアルバイト先を探すために東大の学生課に向かった。そして一般企業からガテン系まで、掲示板に貼り出されたさまざまな求人情報を眺めていたところ、ある一枚の貼り紙に目が止まった。
 〈プログラマー募集〉
  ……なるほど、その手があったか!
  中学時代にシステム移植で稼いだ記憶がよみがえる。なるほど、これだったら自分の技術で勝負できる。本格的にパソコンに触るのは中学以来だから、現役とはいえない。それでも、マシン語をはじめとして基礎はみっちりできていたし、飲み込みの早さには自信がある。
  明記されている時給は900円スタート。2500円の時給をもらっていた塾講師時代とは比較にならない金額だ。でも、これはお金の問題じゃないと自分に言い聞かせた。
  アルバイト先は、衛星授業で有名な「東進ハイスクール」の関連会社だった。主な業務は、衛星授業の運営や教材開発。ここで自分の技術が十分に通用することを確認すると、今度は完全なコンピュータ系ベンチャー企業でのアルバイトをはじめた。
  コンピュータ系だけに、きっとオタクだらけの地味な職場なのだろう。そう決め込んで面接に向かった僕は、大いに驚かされることになる。
  扉を開けた先のフロアは、まるでデザイン事務所のようなオフィスだったのだ。
  ゆとりをもって配置された天然木のデスクと、座り心地のいいオフィスチェア。観葉植物やインテリアも、シンプルでセンスのいいものばかりだ。そして働く人たちの身なりや持ち物も、みんなオシャレだった。オタクっぽい人がほとんど見当たらず、「これが本当にコンピュータ系の会社なのか?」と心配になるほどだ。
  彼らが軒並みオシャレだった理由は、すぐに解き明かされる。みんなの机に置かれていたのは、マッキントッシュ(Mac)だったのである。



人はカネのために働くのか?

 世間から「ヒルズ族」と呼ばれていたライブドア時代、分刻みのスケジュールで働く僕を見て、こんなことを言ってくる人がいた。
 「もう一生かかっても使い切れないくらいのお金を手にしたんだから、リタイアしてのんびり暮らせばいいじゃないですか。それとも、まだお金がほしいんですか?」
  当初は冗談だと受け流していたのだが、どうもそうじゃないらしい。取材記者から合コン相手の女の子まで、かなりの人が同じようなことを言ってくる。リタイアするだって? なぜそんな話をしているのか、僕にはまったく理解できなかった。
  たしかに、年末ジャンボ宝くじの季節になると「宝くじで一等が当たったら、会社を辞めて南の島でのんびり暮らしたい」といった声を耳にする。いまのあなたも、同じような気持ちでいるかもしれない。
  でも、どこかおかしいと思わないだろうか。
  大金を手に入れたら、リタイアして南の島でのんびり遊んで暮らす。
  要するにそれは、「カネさえあれば、仕事なんかいますぐ辞めたい」という話なのだし、裏を返すと「働く理由はカネ」ということなのだろう。……僕の信念とは正反対とも言える考えだ。
  いまも昔も、僕はお金がほしくて働いているわけではない。自分個人の金銭的な欲望を満たすために働いているわけではない。そんな程度のモチベーションだったら、ここまで忙しく働けないだろう。食っていく程度のお金を稼ぐこと、衣食住に困らない程度のお金を稼ぐことは、さほどむずかしいことではないからだ。
 では、僕にとっての仕事とはなんなのだろう?
  目的がお金じゃないとしたら、なんのために働いているのだろう?
  ここはぜひ、自分自身の問題として考えてほしい。
  あなたにとっての仕事とはどんなもので、あなたはなんのために働いているのか。
  もちろん、「メシを食うため」とか「家賃を払うため」は理由にならないし、そこで考えを止めてしまうのは、ただの思考停止だ。衣食住に事足りていながらも働く、その理由を考えてほしい。
  たとえば、中学時代の新聞配達は、僕にとって完全に「カネのため」の仕事だった。
  親に立て替えてもらったパソコン購入資金を返済する、ただそれだけのためにやった仕事だ。頭を渦巻くのは、あと何日続ければ完済できるのか、という計算ばかり。周りに新聞配達をやっているような友達は全然いない。
 「お金持ちの家に生まれていれば、こんな苦労もせずにすんだのに」
 「お金さえあれば働かなくてすむのに」
  まさに、宝くじでの一攫千金を夢見る人々と同じような気持ちで、新聞配達をしていた。働くこととは「なにかを我慢すること」であり、お金とは「我慢と引き替えに受け取る対価」だった。
  しかし大学生になり、インターネットに出会ってから、とくに自分の会社を起ち上げてからは「カネのため」という意識はきれいに消え去っていく。働くことが「我慢」でなくなり、お金に対する価値観も大きく変化していった。


お金から自由になる働き方

 まず最初に考えたいのが、どうして「宝くじで一等が当たったら、会社を辞めて南の島でのんびり暮らしたい」という発想が出てくるのか、という点だ。もっとストレートに言えば、どうしてそんなに仕事が嫌なのか、という話である。
  答えは、はっきりしている。
  多くのビジネスマンは、自らの労働をお金に換えているのではなく、その「時間」をお金に換えているのだ。
  とりあえず定時に出社して、とりあえず昼食を30分ですませ、大して忙しくもないのにサービス残業する。定時で堂々と帰宅できる人は、なかなかいない。自らの大切な「時間」を差し出すことによって、やる気やがんばりをアピールし、給料をもらっている。
  もし、時間が無尽蔵に湧き出るのであれば、これでなんの問題もないだろう。好きなだけ時間を差し出せばいい。
  しかし、時間とはどこまでも有限なものだ。年齢や性別、貧富の差などに関係なく、どんな人にも1日24時間しか与えられていないし、1年は365日しかない。残業に費やした時間は、プライベートの喪失というかたちで相殺される。
  それほど貴重な時間を差し出すとなれば、仕事に縛られ、お金に縛られている感覚が強くなるのは当然だろう。これは「時間」を提供する人にとって、永遠について回る課題である。
 そんなことを考えていた2004年、僕は『稼ぐが勝ち』という本を出版した。
  いかにも拝金主義的な、過激なタイトルに思えるだろう。けれど、僕の真意はまったく別のところにあった。僕があのタイトルに込めたメッセージは、「お金(給料)とは『もらうもの』ではなく、『稼ぐもの』である」というものだ。
  自分の時間を差し出しておけば、月末には給料が振り込まれる。……そんなものは仕事ではないし、働いていても楽しくないだろう。たとえ会社員であっても、自らの給料を「稼ぐ」意識を持たなければならない。
  そして積極的に稼いでいくために、自分は「時間」以外のなにを提供できるのか、もっと真剣に考えなければならない。
  これからの時代、時間以外に提供可能なリソースを持っていない人、漫然と給料を「もらう」だけの人は、ほどなく淘汰されていく。
  給料を「もらう」時代は、もう終わった。すなわち「稼ぐが勝ち」、なのだ??と。
 その意味でいうと、僕の主張は当時からほとんど変わっていない。強調しようとするあまり、誤解を招く表現を使ってしまったことへの反省は、当然ある。しかし、あのとき訴えようとしていたメッセージは、いまなお正しいものだと思っている。
  仕事が忙しいとか、お金が足りないといった悩みは、表層的な問題に過ぎない。
  人生が豊かになっていかない根本原因は、なによりも「時間」だ。
  有限かつ貴重な時間を、無条件で差し出さざるを得ない状況。時間以外のリソースをなにも持ちえていない状況が、根本原因なのだ。
  だから僕は、もう一度言いたい。
  お金を「もらう」だけの仕事を、お金を「稼ぐ」仕事に変えていこう。
  儲けるために働くのではなく、お金から自由になるために働こう。
  僕は20代の早い段階で、お金から自由になることができた。それはたくさんのお金を得たからではない。仕事に対する意識が変わり、
働き方が変わったから、お金から自由になれたのだ。


どんな仕事にも働きがいはある
 やりがいのある仕事がしたい。
  就活中の学生たち、また転職を考えている若者たちの相談を受けるとき、必ずと言っていいほど出てくるフレーズである。
  たしかに、仕事にやりがいを感じられず、すべてが「我慢」の仕事になってしまっているのだとすれば問題だ。最近ではやりがいのある仕事を探して、社会起業家や途上国でのボランティア活動などに注目する若者も増えてきた。いずれも大事なことだろう。僕自身も2011年の東日本大震災にあたっては、被災地まで支援物資を運んだり、ツイッターで安否確認情報の拡散に寝る間を惜しんで協力したりした。
  しかし、前々から疑問に思っていることがある。
  そもそも、やりがいとは「見つける」ものなのだろうか?
  どこか遠い場所に「やりがいのある仕事」が転がっていて、それを探し求める宝探しが、あるべき就職・転職活動なのだろうか?
  僕の考えは違う。
  やりがいとは「見つける」ものではなく、自らの手で「つくる」ものだ。そして、どんな仕事であっても、そこにやりがいを見出すことはできるのだ。
  こんな話をすると、「サラリーマン経験もないのに、適当なことを言わないでほしい」「経営者側の人間に、会社員の気持ちがわかるか」といった反発が出てくる。たしかに、僕はサラリーマン経験がない。学生のときに起業しているので、「入社」したこともないし、「上司」というものを持った経験もない。サラリーマン特有の悩み、息苦しさ、ジレンマを知らないと言われれば、そうなるのだろう。
  しかし、僕はもっと厳しい環境での仕事に従事していた。
  刑務所に身柄を拘束されての作業、すなわち「懲役」である。
 あまり知られていないことだが、「懲役」とは本来、受刑者を刑務所などの施設に拘置して、なんらかの刑務作業(仕事)をおこなわせる刑罰のことを指す。
  つまり「懲役2年6ヶ月」とは、ただそれだけの期間刑務所に閉じ込められるのではなく、「懲罰としての仕事」を2年半にわたって課せられる、という意味なのだ。もちろんここでの仕事には社会復帰に向けて経験を積むという側面もあるのだが、字義的には「懲罰としての仕事」だ。
  そこには、誰にでもできる退屈な単純労働があり、理不尽な上司とも言うべき先輩受刑者がいた。もちろん会社とは違って、辞表を叩きつけることもできない。そんな状況でも、僕は仕事にやりがいを見出すことができた。不貞腐れることなく、ひたすら働き、確かな喜びを実感していった。

  僕が最初に与えられた仕事は、無地の紙袋をひたすら折っていく作業だった。長野刑務所への移送が決まる前、東京拘置所に身柄を置かれた翌日のことである。
  与えられたノルマは1日50個。担当者から折り方のレクチャーを受け、さっそく作業を開始する。ところが、意外にこれがむずかしい。当初は「たったの50個?」と思っていたのに、時間内にノルマ達成するのもギリギリだった。いくら不慣れな作業だとはいえ、くやしすぎる結果だ。
  どうすればもっと早く、もっとうまく折ることができるのか? 自分の折り方、手順にはどんなムダがあるのか? 折り目をつけるとき、紙袋の角度を変えてはどうか……?
  担当者から教えてもらった手順をゼロベースで見なおし、自分なりに創意工夫を凝らしていった。その結果、3日後には79個折ることができた。初日の1.5倍を上回るペースだ。単純に楽しいし、うれしい。
 仕事の喜びとは、こういうところから始まる。
  もしもこれが、マニュアルどおりの折り方で50枚のノルマをこなすだけだったら、楽しいことなどひとつもなかっただろう。いわゆる「与えられた仕事」だ。
  しかし、マニュアル(前例)どおりにこなすのではなく、もっとうまくできる方法はないかと自分の頭で考える。仮説を立て、実践し、試行錯誤をくり返す。そんな能動的なプロセスの中で、与えられた仕事は「つくり出す仕事」に変わっていくのだ。
  仕事とは、誰かに与えられるものではない。紙袋折りのような単純作業でさえ、自らの手でつくっていくものなのである。
  その後、長野刑務所に移送されてからは、介護衛生係という仕事に就くことになった。高齢受刑者や身障受刑者らの世話をする、介護士みたいな仕事だ。お風呂の補助から下の世話まで、さらには掃除、洗濯、散髪、ひげ剃りなど、なんでもやった。もちろん、積極的に「やりたい仕事」ではない。それでも、高齢受刑者の体を起こしてあげるときのコツをつかんだり、バリカンを使った散髪のテクニックを覚えていくこと、自分の成長を実感することは、楽しいものだった。
 だから僕は、自分が経営者でなかったとしても、たとえば経理部の新入社員だったとしても、その仕事に「やりがい」を見出す自信がある。
  経理部に配属されたとしたら、より効率的な経理決算システムをつくったり、入力時間を半分で終わらせる方法を工夫したりと、どんどん前のめりになって仕事をつくり出していくだろう。そうやって自らの手でつくり出した仕事は、楽しいに決まっている。
  覚えておこう。
  やりがいとは、業種や職種によって規定されるものではない。
  そして「仕事をつくる」とは、なにも新規事業を起ち上げることだけを指すのではない。能動的に取り組むプロセス自体が「仕事をつくる」ことなのだ。
  すべては仕事に対する取り組み方の問題であり、やりがいをつくるのも自分なら、やりがいを見失うのも自分だ。どんな仕事も楽しくできるのである。



仕事を好きになるたったひとつの方法

 これは自分でも不思議だったのだが、僕は受験勉強が好きだった。学校の勉強はあんなに嫌いだったのに、中高時代はとてつもない落ちこぼれだったのに、受験勉強だけは好きになることができた。
  なぜ好きになったのだろう?
  仕事でも勉強でも、あるいは趣味の分野でも、人が物事を好きになっていくプロセスはいつも同じだ。
  人はなにかに「没頭」することができたとき、その対象を好きになることができる。
  スーパーマリオに没頭する小学生は、ゲームを好きになっていく。ギターに没頭する高校生は音楽を好きになっていく。読書に没頭する大学生は本を好きになっていく。そして営業に没頭する営業マンは、仕事が好きになっていく。
  ここで大切なのは順番だ。
  人は「仕事が好きだから、営業に没頭する」のではない。
  順番は逆で、「営業に没頭したから、仕事が好きになる」のだ。
  心の中に「好き」の感情が芽生えてくる前には、必ず「没頭」という忘我がある。読書に夢中で電車を乗り過ごしたとか、気がつくと何時間も経っていたとか、いつの間にか朝を迎えていたとか、そういう無我夢中な体験だ。没頭しないままなにかを好きになるなど基本的にありえないし、没頭さえしてしまえばいつの間にか好きになっていく。
  つまり、仕事が嫌いだと思っている人は、ただの経験不足なのだ。
  仕事に没頭した経験がない、無我夢中になったことがない、そこまでのめり込んだことがない、それだけの話なのである。
 もちろん、仕事や勉強はそう簡単に没頭できるものではない。
  たとえば、没頭のいちばん身近な例といえば、ゲームやギャンブルだろう。
  僕も学生時代には、危険なくらい競馬や麻雀にハマっていた。わかりやすい刺激と報酬、そして快感がセットになったギャンブルは、脳科学的に見ても人をたやすく没頭させるメカニズムになっている。近年、ソーシャルゲームにハマる人が後を絶たないのも、同じ理由によるものだ。
  しかし、仕事や勉強にはそうした「没頭させるメカニズム」が用意されていない。もともと物事にハマりやすい僕でも、学校の勉強がおもしろくない時期は長かったし、新聞配達のアルバイトなんてまったくおもしろくなかった。
 じゃあ、どうすれば没頭することができるのか?
  僕の経験から言える答えは、「自分の手でルールをつくること」である。
  受験勉強を例に考えよう。前述の通り、僕は東大の英語対策にあたって、ひたすら英単語をマスターしていく道を選んだ。文法なんかは後回しにして、例文も含めて単語帳一冊を丸々暗記していった。もしもこれが英語教師から「この単語帳を全部暗記しろ」と命令されたものだったら、「冗談じゃねーよ」「そんなので受かるわけねーだろ」と反発していたと思う。
  しかし、自分でつくったルール、自分で立てたプランだったら、納得感を持って取り組むことができるし、やらざるをえない。受動的な「やらされる勉強」ではなく、能動的な「やる勉強」になるのだ。
  受験勉強から会社経営、それに紙袋折りまで、僕はいつも自分でプランを練り、自分だけのルールをつくり、ひたすら自分を信じて実践してきた。会社経営にあたっても、MBAを出たわけでもなければ、経営指南書の一冊さえ読んだことがない。
  ルールづくりのポイントは、とにかく「遠くを見ないこと」に尽きる。
  受験の場合も、たとえば東大合格といった「将来の大目標」を意識し続けるのではなく、まずは「1日2ページ」というノルマを自分に課し、来る日も来る日も「今日の目標」を達成することだけを考える。
  人は、本質的に怠け者だ。長期的で大きな目標を掲げると、迷いや気のゆるみが生じて、うまく没頭できなくなる。そこで「今日という1日」にギリギリ達成可能なレベルの目標を掲げ、今日の目標に向かって猛ダッシュしていくのである。
 これはちょうど、フルマラソンと100メートル走の関係に似ている。
  フルマラソンに挫折する人は多いけれど、さすがに100メートル走の途中で挫折する人はいない。どんなに根気のない人でも、100メートルなら集中力を切らさず全力で駆け抜けられるはずだ。
  遠くを見すぎず、「今日という1日」を、あるいは「目の前の1時間」を、100メートル走のつもりで走りきろう。


「やりたいことがない」は真っ赤な嘘だ

 学生たちの集まる講演会で、質疑応答タイムに入る。そうすると、質問者のパターンはおよそ次の2つに分けられる。
  まずひとつは、勢いよく手を挙げて「とにかく成功したいんです! これからの時代、どんなビジネスが有望だと思われますか!?」と迫ってくる、野心むき出しの学生。彼らに対して、安易に「答え」を教えることはしない。自分が好きなことをやればいいと思うし、学生ならなおさらそこからはじめるしかないだろう。
  そしてもうひとつが「僕はやりたいことがなく、就きたい仕事がありません。この先どうしたらいいでしょう?」という消極的な学生だ。
 やりたいことがない。就きたい仕事が見当たらない。はたして、その人は本当に「やりたいことがない」のだろうか? 僕はこんなふうに訊ねる。
 「きみ、好きな女優さんはいる?」
 「ええっ? まあ……新垣結衣さんとか」
 「なるほど、ガッキーが好きなのね。じゃあさ、ガッキーと会ってみたいと思わない?」
 「それは、会いたいです」
 「じゃあ、どうやったら会えるようになるだろう? たとえばガッキーと共演できるような俳優さんになるとか、ガッキー主演の映画を撮る監督さんになるとか、いろんな道があるよね。それができたら幸せだと思うでしょ?」
 「え、ええ。でも僕にはとても……」
 「ほら、きみだって『やりたいことがない』わけじゃないんだ。問題は『できっこない』と決めつけて、自分の可能性にフタをしていることなんだよ。別に俳優さんになれとは言わないけど、ちょっと意識を変えてみたらどうかな?」
  なるべく話をわかりやすくするため、好きなタレントさんなどを糸口に話すことが多いのだが、言いたいことは伝わるだろう。
  海外の旅番組を見ていて、フランスの田園風景が映る。「こんなところに住めたら最高だなあ」と思う。英語に堪能な人を見て、羨ましく思う。自分と同年代のベンチャー起業家に刺激を受ける。
  ……それでも、これといったアクションを起こさないのは、なぜか?
  理由はひとつしかない。
  最初っから「できっこない」とあきらめているからだ。
  やってもいないうちから「できっこない」と決めつける。自分の可能性にフタをして、物事を悲観的に考える。自分の周りに「できっこない」の塀を築き、周囲の景色を見えなくさせる。
  だからこそ、次第に「やりたいこと」まで浮かんでこなくなるのだ。欲望のサイズがどんどん小さくなっていくのである。



ゼロの自分にイチを足す

 それでは、自らの「信用」に投資する、とはどういうことだろう?
  これが貯金であれば、話は早い。収入の何パーセントを貯金に回そうとか、積立用の口座をつくろうとか、小銭は全部貯金箱に入れようとか、いろんな「こうすればお金が貯まる」の具体例を紹介できる。
  しかし、信用となるとそうはいかない。
  たとえば、あなたが率先してボランティア活動に参加したり、多額の寄付をしていたとしよう。それについて、「すばらしい人だ」と評価してくれる人もいれば、「信用ならない偽善者だ」と反発する人もいる。ここばかりはどうにもできない。相手がどのように評価し、信用してくれるかどうかは、こちらでコントロールできる問題ではないのだ。特に、なにもないゼロの人間が「わたしを信じてください」と訴えても、なかなか信用してもらえないだろう。
  それでも、ひとりだけ確実にあなたのことを信用してくれる相手がいる。
  「自分」だ。
  そして自分に寄せる強固な信用のことを、「自信」という。
  僕自身の話をしよう。学生時代、僕は自分にまったく自信を持てなかった。中学高校では落ちこぼれだったし、女の子にはモテないし、大学に入っても麻雀や競馬に明け暮れる毎日だ。コンプレックスの塊で、自分という人間を信じるべき要素が、どこにも見当たらなかった。
  しかし、徐々に自分に自信を持てるようになっていく。
  それはひとえに「小さな成功体験」を積み重ねていったおかげである。ヒッチハイクで心の殻を破り、コンピュータ系のアルバイトに没頭する過程で、少しずつ「やるじゃん、オレ!」と自分の価値を実感し、自分のことを好きになっていった。
  なにもない「ゼロ」の自分に、小さな「イチ」を積み重ねていったのである。
 さて、大切なのはここからだ。
  自分に自信を持てるようになると、他者とのコミュニケーションにも変化が出てくる。誰に対してもキョドることなく、堂々と振る舞えるし、多少むずかしい仕事を依頼されても「できます!」と即答できるようになる。ハッタリをかませるようになる。
  会社を起ち上げて間もないころ、僕はいつも強気にハッタリをかまし、技術的に可能かどうかわからない案件をガンガン引き受けていた。受注してから書店に走り、専門書を読み込んで対応することもしばしばだった。



孤独に向き合う強さを持とう

 決断とは「なにかを選び、ほかのなにかを捨てる」ことだ。
  あなたはAを選んだつもりかもしれないが、それはBやCやDの選択肢を捨てたということでもある。たとえそれが正しいものだったとしても、決断には大きな痛みが伴うこともあるだろう。
  僕がそのことをもっとも痛感させられたのは、離婚の決断を下したときだった。
 僕が結婚したのは1999年、まだ27歳のときのことである。特に結婚願望があったわけではない。付き合い始めて半年あまりでの、いわゆる「できちゃった婚」だ。
  当時は会社が上場を直前に控えていた時期でもあり、僕は多忙を極めていた。
  起業してから3年間、全力で走り続けた。会社に寝泊まりしては朝日とともにパソコンに向かう毎日。旅行に行くことも、のんびり読書することも、飲みに行くことさえほとんどなかった。
  しかも当時は、上場の是非をめぐって他の創業メンバーとの間に激しい対立が生じていた時期で、肉体的にも精神的にも疲れ果てていた。
  きっと僕は、癒やしを求めていたのだろう。そして仕事以外のことを深く考える余裕がなかったのだろう。なんとなく知り合った女性と、なんとなくの流れで付き合い、なんとなくの流れで結婚した。
  たしかに気のよい、一緒にいてリラックスのできる女性だったし、決して悪い感情を持っているわけではない。いまでも年に一度くらいはメールのやり取りがある。
  しかし、家庭的で保守的な彼女と、仕事と効率を最優先に考えていた僕は、完全に水と油だった。仕事や人生設計に対する考え方、家事や育児に対する考え方、そして夫婦や家族という枠組みに対する考え方。すべてが違っていた。
  もちろん僕も、休日には子どもをお風呂に入れたり、おむつの交換もすすんでやった。子どもがお腹を壊したときに交換するおむつの匂いは、いまではいい思い出だ。妻の買い物にも付き合ったし、家庭や子育てを放棄していたわけではなかった。
  それでも、僕の知っている「家庭」とは、あの八女の町にあった堀江家なのだ。
  子どもの授業参観なんか出る必要がないと考え、たった一度の家族旅行で立ち食いそばを食べさせる両親しか知らないのだ。率直に言って、温かい家庭がどういうものなのか、なにをどうすれば一家団らんができるのか、みんなどうやって良きパパ、良きママになるのか、僕はいまだにわからない。
  結局、彼女とは2年ほどで離婚してしまった。これ以上、結婚生活を続けることはできない。このまま関係を続けても、お互い不幸になるだけだ。僕としては、十分に納得した上での結論だった。これで自由になれると、離婚できたことを喜んでさえいた。
 ところが、ここから人生最大の孤独に襲われることになる。
  妻と子どもの出ていった空間の、残酷なまでの広さ。子ども用のおもちゃ、カラフルな飾りつけ、妻の雑貨などがなくなった部屋の、絶望的な静けさ。
  あれほど煩わしく感じていた家庭を失うことが、こんなにも寂しいものなのか。
  ひとりで住むには大きすぎる、殺風景な一軒家。それはまるで、がらんどうになった僕の心を映し出す鏡のようだった。
  寂しさを紛らわすため、友達を呼んで大騒ぎしたり、適当な女の子を連れ込んでセックスしたりしてみても、すぐさま孤独な時間がやってくる。家に帰るのが嫌で、酔いつぶれるまでバーを飲み歩く日々が続いた。しらふのまま家に帰ると、否が応でも「ひとり」を突きつけられるのだ。食事や睡眠は不摂生になり、女性関係もだらしなくなり、自分の弱さにほとほと嫌気が差してくる。



過去に執着しない「諸行無常」の原則

 ライブドアという会社を失って、未練はないか。
  そう聞かれたら僕は「ない」と即答できる。たしかに命がけで育てていった会社だ。誰よりも深い愛着はある。しかし、未練はない。僕はすでに前を向いているからだ。
  僕には人生で一度だけ、引きこもりになっていた時期がある。
  2006年1月に逮捕され、保釈が認められたのが同年4月。そして東京地裁での初公判が同年9月のことだった。
  この保釈から初公判までの約4ヶ月、ほとんど外に出ることがなかった。まず、保釈中の僕にはライブドア関係者との接触が禁止されていた。もしも接触し、それが露見してしまえば保釈金(僕の場合は3億円だった)は没取され、なおかつ保釈が取り消されて収監されることになってしまう。
  とはいえ、僕はこの10年、生活のほぼすべてをライブドアに捧げてきた。しかもライブドア関係者は、膨大な数にのぼる。「ライブドア関係者に会うな」とは、僕にとって「友人・知人に会うな」と言われているに等しかった。
  そこで保釈された直後、まずは自分の携帯電話番号とメールアドレスを変更した。さらに、電話帳に載っているライブドア関係者の連絡先もすべて削除した。一人ひとりの名前を消すたびに、もうこの人と連絡を取ることはないのだ、もう二度と会えないのだ、と覚悟を決めていった。
  テレビをつけると、いまだ僕の話題で持ちきりだ。まだ公判も始まっていないとはいえ、当然僕は犯罪者として扱われている。テレビや新聞を見ることも嫌になる。電話が鳴ると、ライブドア関係者ではないのか、知人を装ったマスコミではないのかと不安になる。
 さらに僕は、一連の騒動を経て、軽い対人恐怖症になっていた。
  長い勾留生活のせいもあり、人の視線が怖くなっていたのだ。しかも困ったことに、僕はどうも目立ちやすい風貌をしているらしい。これは太っているときも痩せているときも同じで、いくら帽子やめがねで変装しても、すぐに「あっ、ホリエモンだ!」と気づかれてしまう。自宅の外には週刊誌の記者が待ち構えており、彼らはたとえば僕がコンビニに行っただけでも「ホリエモン、失意のコンビニ生活!」といった、悪意に満ちた記事を仕立て上げることができる。
  ブログを更新するにも、なにを書けばいいのかわからない。東京を脱出しようにも、保釈からしばらくは1泊までの旅行しか許可されない。当局の目を過剰に意識して、なにがどこまで許されるのか、戦々恐々としていた。ほんとうに、生まれて初めて経験する引きこもり生活だった。
 そんな僕にとって大きな救いとなってくれたのが、ライブドアとは関係なく仲良くしてくれた幾人かの友人、それから2005年の郵政選挙に出馬した際に広島で知り合った、ボランティアスタッフたちだ。
  おそらく、僕が郵政選挙に出馬したとき、ほとんどの人は「また堀江が売名行為を働いている」とか「どこまで権力志向が強いんだ」といったネガティブな見方をしていたと思う。それでも僕の訴えに共鳴し、私利私欲を越えて「日本を変えましょう!」と立ち上がってくれたのが、彼らボランティアスタッフである。
  真夏の選挙戦は相当ハードなものだった。
  僕自身、少なく見積もっても10万人以上の有権者と握手したし、徹底したドブ板選挙を展開した。結果としては地元のドン、亀井静香氏に敗れてしまった。それでも、あの厳しい選挙戦を志ひとつで戦ってくれたボランティアスタッフの熱意には心底感動したし、ほんとうに感謝している。
  そんな流れもあり、保釈された僕が再び動き出そうとしたとき、真っ先に声をかけたのが彼らだった。いまでは宇宙事業をはじめとするさまざまな分野で、あのときと同じ熱意を持って伴走してくれている。やはり、かけがえのない仲間である。


塀の中で見つけたほんとうの自由

 長野刑務所で過ごした約1年9ヶ月の日々は、僕になにをもたらしたのだろう。
  僕はなにかを学び、少しくらいは成長することができたのだろうか。それともなにも成長しないまま、無益な時間を過ごしてしまったのだろうか。
  いろいろな変化があったのは確かだ。高齢受刑者の介護など、これまでやったことのない仕事に携わることもできたし、たくさんの本を読む時間にも恵まれた。図らずも「獄中ダイエット」にも成功し、あらゆる意味で身軽になった。
  一方、刑務所内でもメルマガの発行を継続するため、毎週手書きで原稿を書いていた。さまざまなビジネスプランを練り、読者からの質問や相談に答えていった。インターネットが使えない分、どうしても情報は紙媒体を中心としたオールドメディアに偏っていく。情報収集にインターネットをフル活用していた僕としては、かなりの痛手だ。それでも、スタッフにブログ記事やツイッター投稿などをプリントアウトしたものを差し入れてもらうことで、情報の偏りをカバーしていった。
  考えてみればおかしなものだ。
  塀の中に閉じ込められ、自由を奪われた僕が、塀の外で自由を謳歌しているはずの一般読者から、仕事や人生の相談を受けていたのだから。
  そして思う。
 「みんな塀の中にいるわけでもないのに、どうしてそんな不自由を選ぶんだ?」
 刑務所生活で得た気づき、それは「自由とは、心の問題なのだ」ということである。
  塀の中にいても、僕は自由だった。外に出ることはもちろん、女の子と遊ぶことも、お酒を飲むことも、消灯時間を選ぶことさえできなかったが、僕の頭の中、つまり思考にまでは誰も手を出すことはできない。
  だから僕は、ひたすら考えた。自分のこと、仕事のこと、生きるということ、そして出所後のプラン。思考に没頭している限り、僕は自由だったのだ。
  あなたはいま、自由を実感できているだろうか。
  得体の知れない息苦しさに悩まされていないだろうか。
  自分にはなにもできない、どうせ自分はこんなもんだ、この年齢ではもう遅い??。
  もしもそんな不自由さを感じているとしたら、それは時代や環境のせいではなく、ただ思考が停止しているだけである。あなたは考えることをやめ、「できっこない」と心のフタを閉じているから、自由を実感できないのだ。
  思考に手錠をかけることはできない。
  そして人は考えることをやめたとき、手錠と鍵をかけられる。そう、思考が硬直化したオヤジの完成だ。彼らはもはや考えることができない。考える力を失ってしまったからこそ、カネや権力に執着する。そこで得られるちっぽけな自由にしがみつこうとする。彼らオヤジたちに足りないのは、若さではなく「考える力」、また考えようとする意志そのものなのだ。
  僕はオヤジになりたくない。
  年齢を重ねることが怖いのではなく、思考停止になること、そして自由を奪われることが嫌なのだ。だから僕は考えることをやめないし、働くことをやめない。立ち止まって楽を選んだ瞬間、僕は「堀江貴文」でなくなってしまうだろう。
  あなたは普段、どれくらい考え、どれくらい行動に移しているだろうか。借りてきた言葉を語る、口先だけの人間になっていないだろうか。
  この最終章では、自由について、そして僕の考える「これからの生き方」について話を進めていきたい。