2013年5月30日木曜日

ハングリー精神は貧しさから生まれる!?




オシムさんが私と同じような考え方であってちょっと嬉しいのだけれど、
「ハングリー精神」と「衣食住の環境が整っていないという意味でのハングリー」を一緒にすべきで無いと思う。




ハングリー精神は必要かもしれないけれど、それを貧困から生まれさせる必要はあるのかなぁ。

豊かな環境があって競技に対してハングリー精神を持つことが理想であるような気が。これは体罰とリンクしているような気がしていて、
選択肢がない状況に追い込まれて競技での成功しか出口がない状況は正しいのだろうか。

「あいつに負けたくない、絶対勝ちたい」のような勝利に対する「ハングリー精神」と
「本当に飢える、スポーツの道具を買うお金がない」という意味の「ハングリー」を一緒にして論じてしまうと、
結局、「貧困でも頑張ればどうにかなる。貧しさという武器を持っているんだから競技も死に物狂いでやれる」っていう日本人が大好きな精神論によって貧困が正当化されてしまうような気がするんですよねー






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Q.日本代表に問題視されている地理的、精神的課題をどうカバーしますか?

地理的ではなくサッカー的に孤立している。欧州から地理的に遠いことは問題ではなく強い国と対戦する機会が少ないのが問題。また日本が厳しい環境でプレーしていない。ハングリー精神がないと皆さんは言うが、しかし欧州で経済的に成功している国イギリスやドイツが弱いと言えますか?彼らは経済的ではない動機があるから強い。それは名誉や誇り。お金で買えないものだ。今後日本はそれを持つことが大事だと思う。」

「私自身は経済的に豊かでない国の出身だがサッカー選手は非常に裕福な存在だった。そういう意味では日本の強化とハングリー精神は別の問題だと思う」
http://blog.livedoor.jp/jeep_55/archives/50808048.html



母親はゆったりしている息子(男の子)が心配でたまらない



◇息子(男の子)には息子なりの快適さがある



母親が男の子にヒステリックにガミガミ言う内容ってのも、そこまで怒られなきゃならんことなのか?っていうのはいっぱいある。
たとえば、幼稚園で他の子の遊びに全くついていけずに構ってもらえなくて、一人でフラフラしているんだけど顔は楽しそうな息子。
その様子に嫁はかなり不満そうだが、友達いなかった自分には無問題だし、自分の幼稚園時代よりずっと楽しそうだし。









男女では感性が違うのに、一律の接し方をしてしまう。
母親達は、男児の子育てにトマドイ、キレル子や、思春期以降の男子の自律神経失調症も増えているそうだ。

生まれつき空間認識能力が高い男性脳は、距離や位置関係の把握に敏感だ。
日常生活とかけ離れた世界観をつかむのにも、同じ能力を使うので、男達は宇宙論や世界経済も好き。
(だからこそ、男性優勢の領域にいる女子を敬愛して欲しい。
 頑張って日時的に能力を手にする女性たちは素晴らしいのだ!)








女性は横のつながりにすごく敏感ですから、
自分の分身のように思える我が子がみんなと遊んでいないことが、とても不安なのだ。


人間は自分を通してしか世界を見れない。
息子に自分が乗り移った世界でしか考えられない。



つまり、みんなと仲良く遊ばない息子が自分だと思ったのだ。


自分(女性)にとってみんなと一緒に居ないことは生存の危機なのだ。
だから、息子がみんなと仲良くしていないことをたとえ、息子が楽しそうに遊んでいたとしても、
母親は心配でたまらないのだ。


ただ、ざんねんながら、
小さな男の子にとっては、みんなと遊ぶことよりも自分の世界の空想(ウルトラマンとかレンジャーとか)にふけっていたほうが楽しいのだ。
自分の世界観のなかで、世界を自分がコントロールしている感覚を得れればそれが楽しいのだ。






DVの支配欲ってどこから来るのかな?俺の言うこと聞けとか、探偵雇ってでも連れ戻すとか。
「親の言うこと聞きなさい」っていう延長線上なら、殴るまではいかなくとも、いろんな罰を駆使して自分の言うことを聞かせようとする親も似たようなものかな












■男の子はまったりと育てて大丈夫

隠れ家に寄って、よくできた妻達から身を隠したがる男達。
口の思い不器用な女を心地よいと感じる男達。
そこには、「まったりとした時間」を必要としている男性脳の差し迫った本音が見えてくる。


右脳(感じる領域)と左脳(言語機能局在側)の連携がよく、感じたことが 即、言葉になる女性脳。
だから、女たちは、感じたことを感じるままにどんどん言葉にしていくのである。
逆に言えば、脳に溢れる言葉を口から出さないとストレスが溜まる。


このため女性達は、一日の出来事を垂れ流すように喋りつつ、
男達に「良く噛んで」「早くお風呂に入って」と事細かに指図する。


ひたすら二万語を消化するために最初から効率的な情報交換をするつもりは毛頭ないのである。
したがって、男性からみたら、かなりムダなおしゃべりを遂行しているように見えるのが女性脳なのだ。

そんな女性脳と暮らす男性脳のほうは、悲しいかな、「垂れ流すことば」にストレスを感じる脳の持ち主だ。
1日にせめて30分の優しい状況が必要なのである。
右脳と左脳の連携が蜜でない男性脳は
「事実を、イメージのまま、無意識にぼんやりと整理する」時間が欠かせない。
男には、テレビを観ているともなく、観てないともない時間があると言う。

チャンネルを回そうとすると怒るのに、だからといって今見ている番組に関する話をしても「ん?」と
寝起きのような顔をする。

この妻がイラっとする瞬間である”ぼんやり”の間に、男性脳は今日の出来事を何となく整理するのである。
これができないと、今日の出来事が整理できないまま、明日が来る。
沈黙が許されない男達は、神経のストレスが取れず、出世もままならないのである。



さて、アインシュタインほどじゃなくても、多くの男児はぼんやりしてる。
だから、女たちは、ついうっかり息子に「早くしなさい」とを言い続けてしまうのであるが、
急かされ続けた男の子は、空間認識能力、すなわち将来の理系の力をそがれてしまう。
情報を整理できないので、大物にもなりにくい。










■女のおしゃべりは世界を救う



女達は感じたことを語り合い、共感することによってコミュニティの核を作ると共に、
互いに感じたことが似ていることを確認しあって、自分の感性が群れからかけ離れていないことに安堵する。
人類は、子育てを担当する個体が、群れの中にいたほうが幼体の生存確率があがる種なので、
女性脳は、これらの本能が授けられたのだ。



男達は、思春期になって男性ホルモンの分泌が増えると、
このことを忘れてしまい、共感することよりも競争を好むようになる。


おしゃべりの効能はまだある。

女性脳は何か事が起こったときに、過去何十年分もの関連記憶を一気に展開する能力も備えている。
今日のムダ話が数年後、役立つ可能性もかなり高い。
つまり、女たちには1秒たりととも、ムダ話という時間はないのである。

思春期に入ると女性の身体と脳はストレスに対して男性とは違った反応をする。
このように海馬のストレス反応が対照的なのは
女性の脳内のエストロゲンとプロゲステロンの変化のためである。
また、男性と女性は異なるストレス反応するようになる。



女の子は人間関係のストレスに、男の子は自分の権威への挑戦に強く反応し始めるのだ。
十代の女性のストレスシステムを刺激するのは人間関係の葛藤である。
十代の男性は尊敬され、男性の序列の中で高い地位を占めることを求める。
女の子の脳の回路はエストロゲンによって組織され動かされており、
愛情深い活動や社会的保護網(ネットワーク)を作ることで
ストレスに対応しようとする。


人間関係の葛藤が嫌いなのだ。


女の子の脳にとって激しいストレス反応のきっかけとなるのは社会的拒絶である。
月経にともなうエストロゲンレベルの周期的な変化によって、心理的社会的ストレスに対する敏感さも週単位で変わっていく。
エストロゲンレベルが高い最初の2週間は、仲間への関心も高いし社交的だ。
プロゲステロンが優位の2週間は、いらいらと怒りっぽくなって、一人にしておいてよ、と思うだろう。

エストロゲンレベルが低く安定している少年少女時代の休止期には、少女のストレスシステムはもっと穏やかで安定している。
だが、思春期に入ってエストロゲンとプロゲステロンのレベルが上昇するころには、ストレスや苦痛に対する反応が激しくなる。


十代になるとエストロゲンが脳に放出されて、オキシトシンと女性特有の回路、とくにおしゃべり、じゃれあい、社交の回路を活性化させる。
15歳の女の子たちが連れ立ってトイレにいくのは、彼女達にとって最も重要なーー女友達ーー人間関係を固めるためなのだ。
多くの女性が女性同士のつきあいに生物学的慰めを得ており、言葉は女性同士を結びつける接着剤だ。
したがって女性のほうが脳の言語野の一部が大きいのは不思議ではない。
数は個人差があるが、平均して女の子は一日あたり男の子の2倍から3倍の言葉を喋っている。

女の子たちは答えた「学校で唯一、自分達だけのおしゃべりができる場所だからよ!」
では、なぜ女子生徒はトイレに行っておしゃべりをするのか?
どうして自室のドアに鍵を掛けて長時間、電話をするのか?
彼女対tは女友達とつながり、親密な関係になるために、秘密を打ち明けあい、噂話をする。
秘密のルールを持った密な小集団をつくる。
これらの活動は人生の波風の衝撃やストレスを和らげ、毎日を乗り切っていくためのツールなのだ。

おしゃべりを通じたつながりは少女の脳の快楽中枢を活性化する。
性的意味合いのあるロマンティックな秘密の共有となると、
快楽中枢はいっそう活発になる。
この快楽は半端でなく大きい。
溢れ出るドーパミンとオキシトシン、これは神経学的にはオーガにズムに次ぐ最大最高の快楽なのだ。

2013年5月29日水曜日

「ショーシャンクの空に」の感想



もう、50回以上は通しで見ている映画。
生涯、これ以上の映画には出会えないと思っている作品。


何回も観ているが今回、今までと違った感想を持ったので書き留めておきたい。






■「希望=脱獄」だと思っていたけれども…



希望ってのは、「冤罪で脱獄して自由を手に入れること」ではなく「アンディーという希望があるから自殺を選ばなかったレッド」のことなんだったのかもしれないなぁ。

つまり映画の主題の一つである「希望」について今までは、「アンディにとっての脱獄」が希望だと思っていたけど、そうじゃなくて「レッドにとってのアンディーが本当の希望」なのではないか?と気づいたということ。


「冤罪という究極の理不尽さで刑務所に入れられても自分の人生を取り戻すことを諦めない」
「太陽の下でビールと飲む」
「刑務所という環境の中でも理性を保って人間らしさを失わずに生活する」
「汚い下水管の中を出口を目指して進む」ということも、もちろん「希望を持って人生を全うする」のことに間違いはないのだけれども、ここで描かれている本当の希望とは「アンディーという人間の存在がレッドを自殺から救った」ということなのではないか、と。





希望ってのは人間同士の間でしか生まれ得ないのかもしれない。

しゃばで生きている人間にとっての希望とは何にも梗塞されず自由にトイレにいけることではなく、心の友達(笑)にあうことなのかもしれない。








しかしながら、fresh fish!が「どうした、新入り」は無いよなぁーと。
合いの手とか、はやし立てるみたいなものはあるけど、ジョーク交じりなアジテートというのは日本の文化ではなかなか訳しにくいのかもしれないねー

2013年5月19日日曜日

「女性は30歳から性欲が増す」は市場価値下落を受け入れた証拠












「女性は30歳から性欲が増す」っていう説について思ったこと。










◎まとめ

たしかに生物学的な理由はあるのだろう。
けど、心理面から考えてみると「市場価値の下落によって性が開放的になる」っていうのが一番シックリ来る。


10代20代は「性欲を解放してしまったら(簡単に身体を許したら)、私は損をしてしまう」というプライドがある。
そのプライドが30代になると、おろしやすくなる。なぜなら30代の身体は20代までの身体よりも市場価値が下がる(男性から求められる確率が低くなる)からだと
思う。













○生物学的


女性の方はというと、30歳を越えたあたりから
性欲がどんどん増してきて、更年期を迎える40代半ばあたりまで、
性欲の強い時期が続くんだそうです。
http://blog.livedoor.jp/mamoho1/archives/22329715.html

女性は35歳を過ぎると女性ホルモンのエストロゲンが減るが、一方でテストステロンの分泌量はそれほど減らない。
 相対的にテストステロンの働きが優位になることで、その後の数年間は性欲10+ 件が高まった状態になるのだという。
ここが女性の性欲の絶頂期といってもいい。『女医から学ぶ あなたの魅力が10倍増すセックス』(ぶんか社刊)の著書がある、女医の山下真理子氏が解説する。
 「男性は加齢とともにテストステロンが減少し、性欲の低下につながりますが、女性の場合はそれが起こりにくい。
  そうして女性10+ 件の性欲10+ 件が勝るのが、40代から50代にかけての時期なのです。それだけではありません。
  エストロゲンの減少によって肌の老化が起きます。すると肌が薄くなり、身体が敏感になる。それがセックスの快感の高まりにつながります」
 生物学的に見ると、40代は妊娠できるほぼ最後のチャンスといえる。そのため、性欲と同時に生殖器の反応や愛液の分泌といった性機能が高まることもあるとされている。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20130515/dms1305151531012-n1.htm












○社会心理から考える



現代社会では30代に突入したからと言って10代20代と遜色ない身体を維持している女性も普通に存在しているでしょう。
ただそれはあくまで見た目というか外側だけ。

本質的には10代20代の女性の身体には叶わないでしょう。

認めたくないことだろうけど、女性はそのことをちゃんとわかっている。
10代の時に30代の女性よりも選ばれることが多かったってことは、自分が30代になったときには同じことが起きるって事だ。
そういう意味でも女性は年齢に非常に敏感で若い女性に対して厳しい態度をとる。





つまり、10代20代の女性の身体は弾性から求められる確率が高い。
それは市場価値が高いということ。
市場価値が高いのだから、しっかりとした取引先に高値で売りたいと思っている。
だから、性欲の解放にも慎重になる。
市場価値があるものを安くしか買わない男に、わざわざ安値で売ることをする必要がないのだ。







ところが、20代が終われば、残念ながら市場価値は下がってくる。
下がってくると言うことは、買い手市場になる。
買い手市場なんだから、10代20代のときのように、「私の身体は高価だから」というプライドを捨てやすくなる。
そのときに、「簡単に身体を許してはいけない」よりも「性欲の解放」を優先することができるようになる。




市場価値が高いときには出し惜しみしていた性欲を、市場価値の下落と言う現実によって女性としてのプライドをおろしやすくなる。
そのときに、自分の中にある性欲を否定しなくてすむようになる。




だからこそ、20代が終わり30代になると、性欲が増す。
増す、というより「自分の中にある性欲をプライドによって抑える必要がなくなる」といったほうがいいかもしれない。

2013年5月6日月曜日

秋川リサさんのケアノート


ショートステイに行くための荷造りを母の部屋でしていたとき、ノートを見つけました。
何だろうと思いページを開くと、

「娘の人生のために私は犠牲になった」
「孫が生まれても嬉しくない」

それは、母が60歳の頃に書いた日記だったのです。
最初は信じられませんでした。
言葉の一つ一つが胸に突き刺さり、読んでしまったことを後悔しました。


父の居ない家庭で私は10代から芸能界で仕事を初め、母の暮らしを支えてきた自負がありました。
それを全否定されたみたいで、平静でいられない自分が居ました。

こんな気持ちで介護を続けられるのか。
だからといって逃げ出すことはできない。
相反する思いの中で続ける母の世話はつらいものでした。






介護生活がつらくなったとき、「お母さんがいるからあなたがいる。感謝の気持ちが大切よ」などと励ましてくださるかたもいます。もちろん、その通りです。

しかし、介護を続けていると、心の底に眠っていた確執や葛藤が、意に反して表面化してしまうことがある。
それを理解してもらうことは難しいことです。



今回の経験で知ったのは、1人で抱えて込むのは無理だと言うことです。

(2012年2月12日 読売新聞)

2013年5月1日水曜日

母性なき所に父性を受け入れることは出来ない





◇母性という根源的な土台は築かれているか


昔は自己肯定感が育った子どもが多かったから、学校の先生は規律を教え込めばいいだけだった。
しかし現代は家庭で自分を受け入れてもらえていないと感じている子どもが多い(自分を受け入れてもらう=母性で満たされる)



子どもは自分の感情を充分に優先してもらう体験にある程度満足していないと規律やルールを守れるようにはならない。
なぜなら、自分の気持ちを最優先にしてもらえない(ルールのほうを優先するという)と自分を否定されたように感じてしまう。
自分の感情を受け入れてもらってある程度安心感を得た子どもでなければ、規律を受け入れることはできない。



気持ちを受け入れてもらう(母性)が土台にあってこそ社会的な規律(父性)を受け入れることが出来る。
土台が無いところにはどんな建物も立ちませんしたったとしても脆い。





社会の規律を守れる子供に育って欲しければ、親の先生も、「その子はある程度の母性は備わっているのかな?」という視点を持つことは、非常に重要だと思われる。


家庭で母性が育っていないなら、悲しいけれども学校の先生達がそれを補ってあげるか家庭での生活に介入していくしか(現実では無理かもしれないが)社会に適応できる子どもにそだてるという子ども中心の子育てに軌道修正する道は残されていないのかも知れない。


















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実際に、体育の時間の跳び箱が楽しくて、チャイムがなってもやめたくない。
次の授業がはじまると、すねて、かんしゃくを起こしてひっくりかえっている、というような小学校一年生の場面で考えて見ましょう。
こういうときに、どういう声かけをすることが、子どもの成長に役立つのか、ということなのです。
そのような場面で、一生懸命に「どうしたの?」と声をかけてあたふたしていた教育実習生に、ある先生は「甘えだからほうっておきなさい」とアドバイスをしたそうです。


この場合、感情コントロールが幼い段階にある子どもが、自分の欲求の制御が困難で駄々こねている場面です
それにたいして教育実習生のように、一生懸命にかまってあげる対応をすることは確かに甘えを助長し、もっとぐずぐずを長引かせるということは、
この先生のご指摘の通りだと思います。
「甘えだから」というのはそのとおりでしょう。

しかしながら、「甘えだから放っておく」という対応は
子どもが感情をコントロールできるように育つために役立つかというとそれは大いに疑問なのです。


佐藤先生:
そうでうすよねぇ。小学校に入学する前にそこがクリアされているお子さんは、チャイムがなったから気持ちを切り替えることはできるわけですよね。
そこができないってことは、その前の段階での課題がクリアされていないってことですから、できないところから補ってあげないと、だめですよね。
ついつい、学校だと、年齢相応にできるのがふつうというところで考えてしまうので、甘やかしてはいけないと思うのですが、放っておくと、
そのままの状態で学ぶ機会がないってことですよね。

ですから、小学校一年生にしてはとても幼くて三歳児くらいの感情コントロールの段階だとしたら、三歳児レベルの声かけが必要と言うことになります。



佐藤先生:
とういうことは、「もっと跳び箱していたかったんだね」「次の時間になっちゃって、できなくて、とっても残念だったね」って言う感じですね。





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■母性生→父性性が正しい

母性生が十分機能していないのに父性性を働かせるのは不可能。
母性性という保護的な力によって基本的信頼感が育った上に父性性によるルールが与えられることで有効に機能します。


基本的信頼感があれば、注意やしつけや、大きな声や強い口調で言わなくとも
子供の心に届きます。


しかし、それがないと、いくら言っても子供は言う事をきくようにはなりません。
むしろ不満や不信の気持ちを強く持つようになります。



したがって、母性生の欠けた家庭で育った子供は保育園でも次々とルール違反をします。


保育士に母性生を求めるために
必要以上に自分をアピールしようとするのです。



父性(社会的規律)の前に母性(ありのままの子どもの受容)を

「家庭ではいい子なのだから…」はネグレクトだ!





◇親の前で素で居る事を許されない子ども達



大人がそうであるように、人間は安心できる相手にしか自分の素を見せない。
会社ではできる人を演じていても、恋人の前では甘えている…これはまさに「安心できる相手=本当の自分を出せる」ということである。


そして、当然、子どもも安心できる場所でしか素は出さない。
さらにいえば、素になれる場所が確保されてこそ、社会で求められる役割を演じることが出来るようになるのである。
ところが、どうも、バブルが終わったくらいから、子ども達が素を見せれる場所がなくなっているようなのである。



どういうこと、以下に示してある。















 


■親に十分「わがまま」を言える子は園では手がかからない


「親の前ではいい子なのに、園では大変手がかかる子供」が
この20年くらいの間に目立っている。
そういう子どもと言うのは先生を独り占めしようとして
「自分だけの先生になって!」という要求を行動で示す。

そして、その欲求が満たされないと
そういう子は弱い子を攻撃しに行くようなのである。
親に気を許せていないから園で本性が出る。
子どもは安心できる人の前でしか反抗できません。






■幼少期の社会的不適応行動は成長してからつづくことも

一見、聞き分けがあって、親からは「いい子」に見えるので園で大変手がかかる子どもは将来は心配なのです。
家庭で「いい子」に見えても、
園では暴れていたり、わがまま放題だとしたら、ご自身が親として失敗されている。

「家庭ではいい子なのだから、暴れるのは保育士が悪い!」っていうのはお門違い。







*****


佐藤先生:
気になっているのは、小学校一年生の子ども達です。
30人以上のクラスだと、もう大変で、こっちのけんかを仲裁している間に、あっちでけんかがはじまり…といった具体で、
なかなか集団でいっせいに集中するということは、ほんとにむずかしくなっています。
ところが、授業参観とか運動会とか、保護者が参観においでになるときには、みんなみちがえるほどに、立派になるんですよ。
どうしてこんなにちゃんとできるのに、保護者がいないときには、できないんだろうって不思議に思っています。
かといって、保護者の前でちゃんとしているこどもたちをみていると、これはほんとじゃないでしょ?
ほんとはもっと甘えたいんでしょ?と思うことも、たびたびあります。



本来、小学校低学年のうちは、まだまだたくさん甘えたい時間ですし、おうちで甘えることが必要な時期です。
ですから、おうちでぐずぐずして泣いている子ども、身体から溢れ出てくる不快感情をそのままおうちで受け止めてもらえている子どもは、
意外と学校ではちょっとがんばって、それなりに社会性のある行動をとることができるという段階なんですね。
逆に、おうちで良い子をしていると、学校で足りない分を補うように幼い側面を出してきてますので、いつもは三歳児の集団のようで、
保護者が参観にくると6歳児になるというような状況が起こっているのだと思います。



佐藤先生:
そういえば、家庭訪問したときに、おうちでまだまだ甘えん坊で、学校でちゃんとやれているか心配ですっておっしゃるお母さんのお子さんは、
わたしからみると、学校ではちゃんとやっているお子さんだったりすんで、どうしてだろうって、思っていました。
そういうことなんですね…。
逆に、お子さんの事を、うちの子はしっかりしているのでまったく心配していないんです、とお話になるご家庭のお子さんが、学校で養護教諭にべったり甘えたり、
すぐにかっとしたり、赤ちゃんみたいになっちゃったりするということがありますね。


(ちゃんと泣ける子に育てよう 大河原美以  河出書房新社) より




*****





















■保健室だけが救い



だれもまだ登校してこない早朝に学校にやってきて
保健室の前で用語の先生がやってくるのを待っている生徒も目立つようになった。

しかもそういう子どもの中には
授業が終わって多くの生徒が下校してしまっても
そのまま残って、
いちばん最後まで帰らないでおこうとする子どもが
目立ってきたのです。

保健室の先生に
「帰らないでくれ」と訴えるようにもなった。


これはどういうことかと言うとこの子達は安らぎの場を求めて、
一生懸命になっているということなのです。

自分の学校やクラスよりも、家庭の方にやすらぎがあれば家庭のほうにいようとしますから不登校になります。

ところが、自分の家庭よりも
保健室のほうが大きな安らぎの場ということになれば登校拒否ではなく帰宅拒否になっています。

近年になって、保育園の幼い子どもにも
そういう傾向をハッキリ見せる子どもが目立ってきました。








 


■やすらぎの場の経験が少ない


こういった子ども達は
本当の安らぎの場にいて育てられた経験が十分ではないのでしょう。

学校の保健室に長く居ようとする生徒や夕方親がむかえにきたときも
なかなか帰りたがらない保育園児をみてますと彼らはそうだと思います。
親に対する本当の依存経験が不足しているのです。

ですから、自分に自信もないし
周りの人を信頼できないのです。
場合によっては
親に対する信頼感も少し弱いのかもしれない。

家族の中でやすらげなくなると家庭内暴力になる。














 

 


■人の嫌がることをする理由

繰り返し同じいたずらをするとしたら
その子は小さいときから、めぐまれた環境で優しく育てられた経験が不足しているのだと思います。


あるいは、望んだことを満たされながら育てこなかった。
優しく育てられてこなければ、やさしさというのは身に付かない。


そして、それだけ人に対しても、不信感を強く持ってしまうものだと思います。




ですから、人の嫌がることをするということは
「こんなことをしても僕のこと好き?」と、愛情を確めているわけですね。
見捨てられ不安を体験していて、それを恐れているのかもしれない。



それは決定打ではないかもしれない
「そんな子を生んだ覚えは無い。勝手なことばかりしてもうお母さんは知りません」
「あなたのような子はどこかにあげてしまうから」と、
軽い気持ちで言っていたかもしれません。


このような親からメッセージを繰り返し言われて育った子どもは心理的にはいつか捨てられるという気持ちが
心の底に積もってしまいます。


ですから、いつも親や周りの人の関心を得ようと
それが相手に嫌がられるものであっても、
そのことによって愛情を確めようとしている。





これは子どもだけでなく
恋愛中のカップルなども相手の感情の確めるためによくやる行動です。











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さおりさん(24歳)は清楚で上品な感じの女性です。
さおりさんは、恋愛がうまくいかない、という悩みを抱えていました。
「渡して、根っこからのわがままで、自分でも嫌になるんです」というさおりさん。
話を聴いていくと、男性との付き合いが深まり、だんだん親密になってくると、すごくわがままな自分が出てきちゃうんです、とのこと。

さおりさんのこころには、「たとえわがままな悪い私でも、見捨てず愛して欲しい」というたいへん強い思いがありました。


さおりさんはカウンセリングを受ける前から、そのことにうすうす気づいていましたが、
カウンセリングで話し合うなかで、心の底にあった「わたしは悪い子だから愛してもらえないんじゃないか」という深い怯えがあることに気づきました。


その怯えは、両親の言いつけを守らなかったときに、ひどく叱られた経験を繰り返して作られたのでした。


もし彼氏が寛容になってわがままに耐えると、さらなる要求をします。
そのとき、さおりさんは、心の奥で、「じゃあ、もっと悪いこんな私でも愛してくれる?」と試しているのです。
もちろん、自分自身がそんなことを思っているとは気づいていませんでした。


しかし、いつか彼氏も耐えられなくなり、別れを切り出します。
このとき、「ほら、やっぱり、私が悪い子だから愛してもらえないんだ」と、もとの信念の正しさを確認すると言う悲劇を繰り返していたのでした。

子どもが望むことを親に教育する



◇「愛することは愛されたものしか出来ない」を超える!



私達は与えられたものしか与えることが出来ない。
与えてもらえなかったものを後世に伝えることは出来ない。


共感、優しさ、甘えたい気持ち、自他の境界線…これらの子どもにとって親から与えられるべき庇護を与えられなかった子どもは、残念ながら自分の子どもにも、これらを与えてあげることが出来ない。


我が子を愛したいと思っているのにいざ、我が子を育てていると、どう接してあげればいいのかわからず、結局思い通りにならない我が子を憎く思ってしまうことさえある。



そんな悲劇は、繰り返したくない。





どういう場面で親からの愛情が必要で、その愛情を伝える方法は何か。
そういうもの与えられずに育った大人が我が子にそれを与えるためには、外部からの協力が必要かもしれない。
ただ、それには親自身が「私は親になるには未熟」という、ある種の自分の弱さを受け入れる強さが必要なのだが…

親の能力の低さよりも子どもの成長を優先する覚悟が親には必要だといえよう。









 

■「愛を伝える方法」を教育する


最近日本でも紹介されているPCIT(parent-child interaction therapy)という治療法がある。
これは親がイヤホンを通じてモニター室からの指導を受けながら子供と一緒に遊ぶという治療法である。
DV被害に遭った母子等がこの治療法を受け、その効果が知られている。
そこで最も強化されるスキルが、子供を褒めると言う事と、
セッション自身をいかに楽しくすると言うことである。
そしてそれを指導者が親に対して同じ事をする、という形で促す。
つまり指導者がワンウェイミラーの向こうからは親の動きを見守り、
マイクを通して母親のヘッドフォンに向かってそのパフォーマンスを褒める。




※PCIT

親子相互交流療法Parent-Child Interaction Therapy(PCIT)は、
子どものこころや行動の問題に対し、親子の相互交流を深め、その質を高めることによって回復に向かうよう働きかける行動学に基づいた心理療法です。
http://pcit-japan.com/index.html






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「一昨日、娘が保育園から帰って来たときです。じっと黙っているので、どうしたの?何か嫌なことがあったの?と聴いたら、
 菜奈がポロポロ涙を流しました。私は自然と娘の頭を抱いて、よしよししてあげました。
 そんなことをしたのは最近なかったんです」
「その日、どうしてできたのか、自分ではわからないのですが、自然とそうしていました。
 娘は頭を私の身体に押し付けてきました。
 私は何も言わずに娘の頭をなでていました。
 そうしたら、ふーっと力が抜けてきて、温かく不思議な気持ちになりました。」
「今思うと、私が許された気持ちになったようでした。
 菜奈は私を必要としている。自分は必要とされていると思いました。自分が”いる”ことが”いい”ことなんだ、私は”いていい”んだ…あのときは、焦りが消えて、時間がゆっくりと流れていました」






小さい頃から誰にも助けてもらえず、一人ぼっちで生きてきた。疲れた。
「もういいか…」という諦めの気持ちがわく。静かに消えてしまいたいと思う。
でも、菜奈ちゃんが自分を必要としてくれる。
自分の存在を認めてくれている。
娘は自分が長年押し殺していた「甘える」という気持ちを思い出させてくれる。
それを自分は許せなかった。
でも、今は「菜奈は可愛いな」という気持ちが彼女の緊張を解く。
菜奈ちゃんの甘えを許せているということは
自分の甘えを許し始めているということだ。




*****











 

■子供はただあなたを愛し、あなたに愛されることを望んでいるのに


自尊心が低く、自分が愛に値しない存在だと思っていたら、
そんな自分が愛することがそれほど価値の高いものだと思えないでしょう。
自分に愛されることが子供にとって何よりの癒し、などということが
あるわけがないと思い込んでいるのです。

物をつい、買い与えてしまう人の中には、自分の愛情よりも物の方が価値があると思っている方もいますが、
決してそんな事は無いのです。


どんなに自尊心の低い親であっても、
子供にとってはかけがえのない親。
親の愛情には、間違いなく、どんなものよりも価値があります。
子供は親から愛を感じることが、何よりも嬉しいのです。







○子育ては「自分が愛される」体験



「私自身の自尊心が低いのだから、自尊心の高い子供なんて育てられない」
「私自身、コミュニケーションが苦手なのだから、子供のコミュニケーション能力なんて高められない」
などという感想を持っているお母さんも多い。
親になったからと言って、急に完璧な人になれるわけではないし、
実は、親自身も「心配の子育て」によって、「足りないところ」ばかりに注目して育てられていたということが少なくありません。

そして、その結果として、
自尊心に何らかの問題を抱えている、という親は決して「稀なケース」ではないのです。



 

 


■子供とのかかわりが親に癒しを与えてくれる


子供との関わりを通して、自分を癒す体験というのは、どういうことでしょうか。
それは自分について「足りないところ探し」をやめるということです。
自分に本来、備わっている力に目を向け、それに気づき、子供をはじめとする他人とつながりということなのです。




■条件付の愛



条件付きの愛ばかり与えられて来た人は、
どうしても人目を気にするようになりますし、
本当の意味で自信を持つことが難しくなってしまいます。
つまり、自尊心が低い人は、「条件付きの愛」しか知らない人、
ということが出来るのです。








■無条件の愛はいつまでも続いていく

親に対する「条件」が始まるのは、一般には思春期に入ってから。
思春期は大人になるためのプロセスなので、親の事を客観的な目で見るようにも成ります。
親という人間を、自分なりに位置づける試みが始まるのです。




でもそれまでは、どんな親に対しても、子供は無条件に愛を向けてくれます。

「自分の親がこの人でなければよかったのに」などという考え方をすることはなく、
親は親として受け入れて、どのよにすればその親とうまくやっていけるだろうかということだけを
考えるのです。

客観的に見れば親としての機能が、かなり低いと思われるような親に対しても、
子供は無条件に愛し受け入れている、という事実には感動を覚えることもしばしばです。



意識される部分では、
「○○の家のお母さんみたいな親だったらよかったのに」「親の○○なところが許せない」
などと思うのですが、
実際のところ、どんな親のことも見捨てることができないのが子供というものです。

大人になってからも、どこかしらに「無条件の愛」が残っているのです。


虐待された子供が自尊心を決定的に損ねるのは、これが原因です。


自分を虐待する親のことを「不適切な人間」としてみることができれば、
親の態度から自分の価値をそのまま決めることはないはずです。

しかし、子供は親に大して「不適切な人間」と評価を下して自分から切り離すことをしないので、
ただ親のありのままを受け止めます。


そして、
「親をこんなに怒らせるなんて、自分が何か悪いことをしたに違いない」
「親をこんなに不機嫌にさせるなんて、自分はよほど出来損ないに違いない」という思いを
育ててしまうのです。









■無条件の愛で子どもが親を救ってくれる


子供が持っている無条件の愛は、子供側から優しさなどの形で自発的に伝えてくれることもありますが、
親が心を閉ざしているとなかなか感じられないものです。
ですから、子供の愛を感じられるかどうかは親次第。
子供から無条件の愛を感じられるような態勢を作ることが、
子育てにおける一番の幸せだといえ、他ではなかなか味わえないものです。



初めての子の場合、子育ての経験がないのは仕方ないとしても、
「子育てを楽しもう」という気持ちを持ってみることはできるでしょう。
「何とか失敗せずにやりくりしなければ」
ということよりも、むしろ、あまり長くは続かないこの甘い時期を楽しもう、
ということに意識を向けてみませんか?