2013年4月16日火曜日

心が弱いのは共感が足りないから





○主題

共感と心の強度について



○総論

共感とは心の根幹を形成する最重要構成要素だと思っている。
つまり、「幼い頃の共感された回数と質」が心の強さに比例しているのだと思う。











◎まとめ結論


共感とは母性のことである】



共感(母性)が心に根付いていないければ、心の弱い人間に育つ。




心が弱いと、人格と社会的な能力との区別を付けにくくなってしまい、就職活動などで不合格になると、
「社会的な能力」ではなく「自分に人格そのもの」を否定されたと受け取ってしまい、「就活うつ病」みたいなものに感染してしまう。





「社会的な能力≒父性」であり、父性の厳しさを乗り越えていくためには揺るがない母性が根付いていないと、いちいち人格否定と受け止めてしまい、心のダメージが蓄積されてしまう。



母性→父性の順番でしかあり得ない。



社会に厳しさに耐えるためには(父性が身につくためには)母性と言う基礎工事(≒共感)がしっかりと幼少期に行われていないと、心の脆い人間が出来上がってしまう可能性が高いのではないかと結論付けた。


























◇共感を奪われた心脆き大人






ーー共感的雰囲気を子守唄のように求めるB子さん(前編)




B子さんは40代前半の、おしゃれで身だしなみのよい女性である。
主訴は心気症。
若い頃に一度結婚しているが、夫の実家との折り合いが悪く、すぐに離婚して実家に戻ってきたと言う。



B子さんの話す内容は、身体の不調についての心配が専らで、ようやくそれがおさまったかと思うと、身近な人間関係についての愚痴が延々と繰り返されるだけであった。

セラピストは熱心に聴いていたが、あまりに進展がないので「B子さんの側にもそれなりに自分のあり方を振り返って見直すほうがよいのでは?」と感じずにはいらなかった。

あるとき、そのことを正面から伝えるとB子さんは言った。





「私がカウンセリングに通っているのは、せめてここでは私を否定せずに、”そうねそうね、あなたの気持ちは分かるわと何でも相槌をうって欲しいからです!私が欲しいのはそれだけです。それがないと毎日の生活で私は耐え切れないからこそ、ここへきているのです。 ここに着てまで批判的な言葉なんか聴きたくありません!」








B子さんの言葉を聴いてセラピストは、「B子さんの内面は脆く支えが必要なんだ」という思いと「B子さんの望む反応をするロボットにならなければならないのか」という疑問も持った。
B子さんとの面接の中でセラピストが次第に感じていったのは「B子さんは現状を打開しようとは望んでいないのではないか」ということだった。



自分の現状を何とか変えたいと望む気持ちがあってこそ、堂々めぐりや停滞を打開するための「解釈」を受け入れたり、みずから求めたりするわけである。
自分の現状は代わらないと思い定めて、その時間を耐えていくために心を慰める「子守唄」のみを求めるとなれば、耳障りな「解釈」など聴きたくも無いだろう。





40代になっても実家に同居し経済的にも支えられているB子さんは恵まれた立場なのだろう。
きっと親に甘やかされて育った。


…たしかに形の上ではその通りなのだが、子ども時代、娘時代のB子さんは、「いつも親に気を使っていた」という。
父親はワンマンで、家庭をかえりみることが少なく、「養われている妻子が文句を言うはずがない」と決め付けているような男性であった。


そんな父親に心が満たされることなく、しかも表向きは、「善き妻」として夫にあわせてきた母親は、
その鬱憤のはけ口をB子さんに求め、ときには叱り飛ばすとかと思うと愚痴を聴かせ役にし、買い物のお供をさせるのが常であった。




お供をすれば、高価な洋服のひとつも買ってもらえる反面、B子さん自身が選んできたものは決して誉めたことのない母親であった。



B子さんがやってみたいということも、ます「どうせ失敗するのではないか」とか「お父さんに知られたら困る」との理由で常にひきとめようとする母親でもあった。


そのうちB子さんは、母親にあてがわれたもの以外は、自分から手を出さない性格の娘になっていったという。



ちょっとした悩み事を母親に相談した場合も、ありのままの気持ちを汲み取ってもらえないどころか、どういうわけかすぐに父親に筒抜けになっており、見当ちがいの叱責や助言がと飛んでくるのが落ちであった。



「あんなに父のことを愚痴っている母が、なぜ私のささやかな相談事をすぐに父にご注進するの、本当に口惜しい思いがしました。それを母に言っても、ちっともわかってくれようとしませんでした。私の話をしみじみと聴いて、わかってくれたような気がするのは犬のトムだけでした。 大型犬で、犬小屋も大きかったので、私はそこへもぐりこんでトムに慰めてもらっていたのです。犬だからどういう風にわかってくれていたのかはなんともいえませんが、じっと私の顔をみてクーンクーンと泣き、 時には泣いている私の顔をペロっとなめてくれました。そんなとき、母も父もわかってくれないことを、トムだけはわかってくれているよ確かに感じました。」






…ちなみに、B子さんの「風景構成法」では、人物はすべて棒人間で、犬だけが立体的にしっかりと大きく描かれていました。


















 

■感情表現が世界へのパスポート


小さい子どもには自分の感情を感じ表現できる環境がなにより必要である。


自由な感情表現を身に付けた子どもは積極的に人と関わりたいという気持ちになり、さらに表現力やコミュニケーション能力を洗練させていく。


しかし、虐待的な環境にいる子どもたちは親から感情を押しつぶされ、
自由な表現を許されないためにやがて感情を麻痺させ
無表情で無気力、無感動といった状態に陥ってしまう。



そして、そうした子どもたちはやがて他者に対する関心をもつことができなくなり、
自分の感情をうまく表現できないために周囲の人々とトラブルを起こしたり、いらいらしてキレやすい傾向を持つと指摘される。


幼い頃より、他者から共感された経験が乏しい子どもにとって他者への共感をもつということはとても難しい。


自ら共感されてはじめて他者への共感が芽生え、
やがては人の気持ちをおしはかり、尊重することが出来るようになるのである。


このように考えると
子どもへの要求が”しつけ”として許容されるにはまず親が子どもの気持ちを尊重し共感し、安心感を与えることが大きな出発点となる。
他者に共感できず、感情の表現方法もわからない子どもは自ら判断し、行動を修正していくために必要な”主体性”という素地ができあがっていない。

最低限の主体性も育っていない子どもに”しつけ”といっても、それはただの、”おしつけ”でしかない。


子どもが親から怒鳴られたり、たたかれたりしたときに覚えた理不尽な思いは成長してもなかなか消えることは無い
しかし、そこで自分が受けた仕打ちを「理不尽だ」と受け取るのか「自分のために成ることだ」と受け止めるのかは、
ひとえに子どもの共感力、主体性にかかっている。














 

■共感を返してもらって心は形成されていくから…




子どもは誰でもそうですが、思ったことを、感じたことをそのまま表現します。
遠慮もしなければ、お世辞も言いません。

「ママ、ママ、あのね」と何かを話そうと思って母親に話しかけます。
「見て!見て!」と、自分の素晴らしい発見を周囲の大人に伝えようとします。



自己評価、自己肯定感を育てられなかった人たちとは、
こういうときに「忙しいからあっちに行って!」「うるさいわね!」と言われてきた人たちです。




さらには「そんなことで喜んじゃって」「そんなこと、大したことないよ」と言われてきました。
また、多くの親は怖いといって泣いている子どもに共感するどころか、「怖くない、怖くない。そんなに泣くようなことじゃないでしょ」と、その素直な感情を否定してしまいます。




何かが上手くいかなかったり、気に入らなかったりして、癇癪を起こしている子どもの腹立たしさや口惜しさに寄り添うのではなく、「うるさい、黙れ」と叱責します。


友達同士や兄弟姉妹の間でケンカが起きたときにも、「そんなことぐらいで騒ぐことないのに」と、根拠なく、よその子どもや年下の子どもをかばいます。
年上の子どもや我が子の感情はいとも簡単に無視されてしまうのです。



衣食住に困ることがない。
いつも美味しいご飯やおやつが用意されている。
申し分のない養育環境を整えてくれていても心理的には誰からも寄り添ってもらえなかった。
いつも1人ぼっちだった。味方がいなかった。




それが当たり前だったから、寂しいとも思わなかった…。
というよりも、自分が寂しいと感じていることさえ分からなかったし
寂しいということの意味さえわからなかった。



幼少期の虐待、暴力がなかったとしてもそこには見も凍るような無関心があります。

さらに、最も深いところにあるのが、人生の初期に母親との愛着関係が結べなかったことからくる傷と悲しみです。
母親に受け入れてもらえなかったという怒りです。




その傷に対して癒しを進めていかなければ、対人恐怖は軽減していきません。
親に共感してもらえなかった怒りや親を信頼することができなければ
悲しみは増していく。対人恐怖、というか人間が嫌いになる。
最も嫌いなのは自分。
何よりも明らかなことは「人が怖い」というのは、それほど深く傷ついてきた人だという事です。










 



■共感とは100%の肯定



では、共感できない親と共感されずに育った子どもたちについて考えて見ましょう。


辞書で共感を引くと共感とは他人や誰かの考えや主張に「そうだね」と感ずること、
他人と自分とが同じ感覚を共有している感覚を持つことにあります。

ここが分かりづらいのですが、「共感」と「同感」は違います。
「共感」は、あくまで相手がそう感じていることを認めること。
究極的には、「私はそう思わない。あなたとは違う考えだけど、あなたはそう思うんだね」と相手の気持ちや主張を認めることです。



相手と考えが違っても良いのです。



一方の「同感」とは、「そうそう。同じ!」と他人が持つ考えや感情が自分と全く同じだと感じることです。
同じ感情を共有できる相手と近くなった気がしますね。



でも、親子、夫婦、友人など、さまざまな人間関係において、私達に必要なのは「同感」ではなく、相手の気持ちを認める「共感」なのです。

たとえ、相手の考えや気持ちに100%納得できなくても、それは何の問題もないのです。





「親から見捨てられた体験」と言われてもピンとこなかったという方が多いかもしれません。

親から充分に「共感」されて育ってきたかと問われても、それがどういうことか分からないと言う方もいらっしゃるでしょう。


では、あなたは、自分の考えや主張を親から認めてもらってきたかと問われたらどうでしょうか。
あなたはそのときそのときの気持ちや感情を親から「あなたはそう思っているんだね」「そう感じているんだね」と認めてきてもらったでしょうか。


むしろ、「分かってもらえない」「言ってもムダ」と思ってきたのではないでしょうか?







実のところ、家庭で暴力があるなしに関わらず、
心の弱い人は、親から共感されずに育ってきているのです。
成人が近くなって心の弱さが浮き彫りになった人は、「問題の無い家庭環境で育った」と思っている人が多いのですが、じつは共感という心の形成の根幹を担う要素を与えてもらっていないのです。







 

 

 

■共感=「受け入れてもらえる存在なんだ!」




子どもは本来、自分の喜怒哀楽を親に共感して欲しいものです。

とくに、自分が嬉しいときには
親にも同じくらいたくさん喜んでほしいと強く願っています。
「おいしいね、楽しいね、よかったね」と共感してもらうことが子どもにとっては最高の幸せなのです。


ところが、親と喜びを分かち合うどころか不機嫌になられたりイライラされたりすると子どもは深く傷つきます。
自分の気持ちを踏みにじられ自分の存在すら否定されたと感じて落ち込むのです。

このように心に傷を負った子どもは二度と傷つくまいとして身を護ろうとします。


自分の幸せに嫉妬された子は親を不機嫌にさせないように自分の喜びを殺すようになります。


嬉しいとき、親に嫉妬されて育った子は自分が喜びさえしなければ親は不機嫌にならない、と考えます。


そのうえ、このような家庭で育ってしまうと
「自分が喜びを回避する=親から見捨てられない」という「契約」にとって結ばれる関係になってしまう。


そして、この契約関係こそが人間関係の基本だと認知し
全ての人間関係に応用してしまうのです。






 

 

 

■共感が信頼を築き、自信を生む



「そう、そうだったの。悔しいね」
「気持ちはわかるよ」
などの共感の言葉。

子供の話を聞くときは、ぜひ加えて欲しい言葉です。



この言葉で子供は「お母さんが話を聞いてくれた」という喜び異常に
「お母さんはわかってくれた」と感じます。


共感が出来上がると、子供はその後も、どんどん自分の気持ちを伝えるようになります。
共感が信頼と自信につながる。





















ーー後編




セラピストは、B子さんはもっと主体性を持てば、自分の人生を新しく切り開いていけるはずだと考えていた。
いつまでも親元にとどまっている必要はあるまい。
自分自身の生きがいを見出せば、身体症状や人間関係にこだわりつづけることもなくなるのではないか。


何とか彼女のそういう前向きの姿勢をとってもらいたいと思うのだが、彼女にはそうできない何かがあるのだろう。


それはおそらく、幼い頃、親から適切な共感的反応を得られなかったことに由来する「満たされなさ」にかかわりがあるのではないか。


満腹感を味わった子どもは、さっさと食卓のもとから離れていくのに、満腹感を味わえなかった子は、いつまでも食卓のまわりでグズグズしているようなものであろうか。




B子さんがセラピストに求めていたのは「トムのような母親」の役どころだろう。
セラピストは人間であるため、トムのように純粋にはなれず「至福のひととき」を共有することはまず無理であろう。
しかし、できるだけそれに近づく努力が必要であろうと考えられた。










***









B子さんは、幼い頃、親からの共感的応答を求めて得られなかったことで、
決して満たされて安定することのない「傷つき易い心」を抱えていきているといえよう。


それをかかえながら、表面的にはしっかりと取り繕い、それなりの矜持をもってやってきたといえる。

しかし、ある時点で息切れを起こしたからこそ、心理療法の場を訪れることになったり、
自分の満たされなさを言語化することになったわけである。

B子さんは、母親が自分に愛着を向けてくれいるとの安心を抱けずに生育したのだろう。
母親に自らの欲求不満という苦痛を受け入れてもらった実感のないB子さんは苦痛に持ちこたえることはできない

離婚したのもそのことが一要因にあるのかも知れない。

しかし、そんな脆弱な心で非共感的な両親の元では必死に苦痛に耐える自分を演じているのだ。



だからこそ、治療の場ではせめて、共感を得たくて仕方がないのだ。






強烈な共感欲求(≒肯定欲求→母性を求める)は幼少期に行われなければいけないものだった。
きっと、治療の場でどんなに優れたセラピストが共感を与えてくれたとしても、B子さんの共感不足は満たされることが無いのだろう。

どんな時代も、どんな裕福な家庭であっても、
子どもは、親との心の触れあいをあくなく求め続けているのである。


共感の数と心の強さは比例しているように思えた一例であった。




























<参考文献>
共感と解釈 成田善弘 人文書院
ちゃんと泣ける子に育てよう 大河原美以  河出書房新社

2 件のコメント: