2013年4月30日火曜日

女性の一生は努力では好転できない??




◇自分が強くなるより男性を喜ばすほうがコスパが良い



 

■強い女は嫌われる社会



男性の場合には努力して能力を高めることに無条件に価値が置かれますが
女性の場合には有能であることが男性の自尊心や慰撫の邪魔者になってしまいます。
このため女性は、ある年齢になると
自分が有能であることに疑惑を持つ傾向があります。
女性が成功することに恐怖心を持つことを指摘し
「成功恐怖」と命名する向きもあります。


こうしたことのため、女性は有能でもストレートに自信に繋がらず
ましてや全体的な自己肯定感を拡大できません。


高校で生徒会長を務めた優秀な女子学生でさえ、
つきあっている男子生徒には試験の成績が自分の方が高かったといえず
いつも相手より低かったと嘘をついていたと言います。









 

■女性の容貌と自己肯定感





男性の場合は能力を高めることが評価され、
その能力は努力により獲得できます。

これに対し、女性の場合には
容貌やスタイルが重視され、その容貌やスタイルは努力で補える余地があまりありません。



このため、女性においては
容貌が自己肯定感と大いに関係することになります。
このことは男性の意識の中だけのこのではありません。


実際に美醜によって女性の世界には大きな差異がもたらされます。
可愛い女の子は、より多く注目されより多くの笑顔を向けられ、より多くの好意的場面を提供されます。


裁判でさえ、美醜が関連してしまう可能性があり、
同じ犯罪をしても被告が美人の場合、刑が軽くなる傾向がアルということです。














 


■女性にとって身体はイライラの対象




子どもは家庭で母親と父親の関係を見ており
女は男と同じように社会で活躍することは出来ないのだ、ということを知ります。


そして実際、それを裏付けるかのように生理が始まる。
月ごとに気分の落ち込みや身体の変調がもたらされます。
生理はそれだけで女性の自己肯定感に否定的な影響を与えている可能性があります。
確実に訪れる自分ではコントロールできない出血。
自分で自分の身体を統制できない無力感。



ある女子学生は
「自分の身体は」という言葉に自由に続きを書くことを求められて
「絶えず管理しなければならない、やっかいなもの」と書いています。
別の女子学生は「イライラの対象」と書きました。

こうしたことが
男性と同等にやってく意欲を少なからず挫く作用をするのです。







 

■女性の人生は先天的な要素で決まっている?


見た目麗しい女性はそれだけで幸福な人生を得る有利な位置にいます。
この事実を認識し、受け容れることは
それまで頑張ってきた女の子には大きな落胆になります。


とりわけ、自己肯定感を生めるために勉強を頑張ってきた子には破滅的な事態になることがあります。
これまで努力によって作ってきた自己肯定感が
まったく無意味であったかのように感じられてしまうからです。



大部分の女の子は
生まれつきの容貌と頑張りとを心の中で折り合わせて男子と、専ら競い合うよりも
男子に好まれる女性になろうと生き方の舵をきります。


すなわち、自分の女性性を受け容れます。



ところが、こうした女性性を受容できず
中世的なままに留まろうとする女子がいます。



そうした女の子は
それまで異常に勉強において過度の努力にこだわります。



化粧や装飾品を拒否し、男の子を遠ざけるなど
自分の性的要素を拒絶する傾向を強めます。



逆に、勉強や運動などで自己肯定感を持てなかった女の子は思春期以降の身体的成熟により
性的魅力に自信を持つようになることがあります。



そうした女の子のなかには
地道に頑張ることとの調和が取れず、
もっぱら身体的魅力に頼って自己肯定感を得ようとする人がいます。

性的身体を強調する服装をし異性との性急な性的接触に走ったり
異性を翻弄することで自己価値を感じたり、身体的魅力をお金に換えるなどの行動をとることもある。




加齢と共に女性の身体の価値は減少していきます。
そして、やがて、閉経として女性の重要な一面を失うという
年齢に至ります。

もちろん、男性も年とともに体の美しさを失いますが
男性の場合、
それまでに達成した社会的価値や内面の深みなどが評価基準とされます。
ですから、歳をとること自体がもたらす無価値感は
女性ほど強いものではない。
それよりも
仕事上で用済みとされることのほうが自己肯定感を揺るがすことになる。

「子どもの中の正解」に共感してあげたい!





◎まとめ

自分なりの正解を肯定してもらう=共感
共感の数と質=自己肯定感
自己肯定感が高い=相手の正しさも認めてあげることが出来る(自分の正しさを認めさせなくても自己肯定感は既存されないから)


社会の常識を受け入れていくためには幼少期に子ども独特の感覚を肯定してもらう、という土台が必要。
その土台が無いと、少しの事で自分自身を否定されたと思って傷ついてしまう。
















◇「挑戦したい」という気持ちへの共感


共感=(社会的には間違っていたとしても)あなたがそう思うなら正しいわ!と肯定してあげる



共感≠達成したい結果
共感=達成したいと言う気持ち(あるいは行動)を尊重して(たとえ大人からみれば失敗するであろうと確信できる事でも)試行錯誤させてあげる

社会の正解を知っている人であっても、子どもの子どもらしい発想に共感してあげることは出来る。

子どもに失敗させてあげるのは大人の役目。
子どもを待ってあげるのが大人の役目。
子どもが挑戦しようとすることを邪魔して大人が結果を与えようとするのは、
子どものためでなく親が子どもが失敗するかもしれない…という不安に抱えることの出来ない弱さが原因。







■社会より「子どもの中の正解」を肯定してあげたい


社会に適応できる人間に育ててあげたいというのは親の願いでしょう。
しかしながら、社会に適応する大人になるためにこそ、幼少期には社会の正しさを教え込むのではなく、
「子どもの中の正しさ」を肯定してあげることが大切なのである。
親も元は小さい子供だったからわかると思いますが、子どもは子ども独特の、大人からしたら妄想かとも思えような世界観を持っていますよね。
ビームが腕から出て怪獣をやっつける、とか社会的な正しさからいえばありえないことでも子どもは本気で出来ると信じています。
そういう幸せな世界を充分に楽しむことを経てはじめて、子どもは社会に適応するために「社会の正しさ」を学んでいくのです。

子どもの独特の世界観を肯定してあげることは共感であり、その共感という土台があってこそ、子どもは揺るがない自己肯定感を育てていけるのです。

社会的な正しさを教え込む前段階として、子どもが持つ子ども独特の世界観を親が否定して小さな頃から現実を教え込むのは、近道なんかじゃないのです。














○「自分の中の正解」を肯定してもらったか





エリカさん(34歳)は中学校の先生です。めまい、食欲不振、睡眠障害などの症状で内科を受診し、
「心理的なことが原因ではないか」とのことでカウンセリングを勧められてわたしのオフィスに来られました。




■相手の間違いを厳しく批判する心理とは?



エリカさんによると、彼女の勤める中学校は荒れた地域にあり、いじめや不登校など生徒らの問題行動が多いことに加え、先生同士の関係も悪いそうです。
彼女は、職員会議で他の先生達と言い争いになることがあります。
ほかの先生の意見に対して「そんなやり方は駄目ですよ!」とか、「それは生徒のためになりません!今すぐやめてください!」と批判するのです。


エリカさんと同じように癒されない怒りを抱えている先生たちもおり、彼らはエリカさんに感情的に反応して言い返します。
すると彼女はそれに対して「なんて言い方をするんですか!あやまってください」と返したりして、会議はまるで喧嘩の様相を呈したこともあるそうです。


エリカさんは、「他の先生が間違っているから、それを指摘している」と信じていますし、もちろん他の先生の意見が間違っている場合はあるでしょう。
しかし、彼女が「私が正しい、あなたが間違っている」と一方的にみなして相手を責めるせいで、先生達との仲は悪くなっていました。
彼女が訴えるめまいや食欲不振などの症状は、そのことから来る仕事のストレスが一因でした。





 

■「私が正しいと認めて欲しい」



エリカさんのカウンセリングが進むにつれ、彼女にも私にもわかってきたことがありました。
それは、エリカさんは幼い頃から親に、自分の正しさを認めてもらえず、「あなたは間違っている」というメッセージを送られて口惜しい思いをして育ったことです。
彼女がとくに強烈に覚えているのは、小学校低学年の時の夏安い実の自由課題を巡る出来事でした。




***


エリカさんは、夜空を眺めて星座を描くことにしました。
彼女は、星と星を思うがまま自由につなぎ、想像を膨らませて「うさぎ座」「おわん座」などを作って描きました。
それをお母さんに見せたところ、
「こんな星座はないわよ。それに、この星座もないわ」
と繰り返し訂正されたのです。
エリカさんはせっかく見つけて楽しく描いた彼女の星座を否定され、泣いて怒りましたが、お母さんは冷淡でした。

ちなみにエリカさんのお母さんは、大学で物理学を専攻した成績優秀な女性でした。

新学期になって学校に夏休みの課題を持っていくと、担任の先生は笑顔で受け取ってくれました。
しかし、のちに理科で星座の時間になったとき先生がおしえてくえる正座は、エリカさんがみつけたものとは違うものばかりでした。

そのころ、お母さんは、再び理科の教科書をみて、
「私が言ったとおりでしょう。あなたの星座は違うのよ」と、彼女に正しい星座を教え始めたのです。


エリカさんは屈辱感を感じましたし、口惜しかったのですが、そんな感情は押し殺してお母さんのいう事を黙って聞き、テストのために、「正しい星座」を覚えたのでした。



***



エリカさんは両親とのそんな経験を重ねるたびに、「私が正しいと認めて欲しい」と感じました。
そして、その願いを、大人になっても繰り返していました。






















■失敗、挫折する機会はあったか?



私達には、失敗の危機に挑戦して自分の可能性と力を伸ばし、自分の良さを発揮して自分らしく生きたい、
という自己実現を求める強烈な衝動があります。

失敗や挫折は必要なのです。
まずは挑戦し、失敗を乗り越えてついに達成したときにこそ、成功の悦び、成長の喜びが得られるからです。

何でも親が先回りしてやったり、状況を万全に整えたりしていると、子どもは失敗を克服する成長の喜びが得られませんから、
いつまでも自信は付きません。

子どもは過保護な親から次のようなメッセージを受け取ります。
「あなたは能力が低いから困難に挑戦しても失敗するでしょうし、失敗の痛手から立ち直る強さもありません。
 だから、親であるわたしの保護と力が必要です」
これでは自信が持てるはずがありません。
こうした理由から、過保護な親に育てられると、慢性的な自信欠如感を抱えて育つことになります。


さらに、「親はわたしを無条件に愛し、認め、受け入れてはくれない。親の課す条件を満たさなければ愛してくれない」と強く感じて育つほど、
失敗が怖くてものごとに挑戦することが難しくなります。











○「自己実現」の悦びを味わってきたか?


■立ってパンツをはきたかった3歳の女の子

おとなになってからも「自信がもてない」と感じる原因の多くが、
親の過保護な養育態度にあります。
子どもを過度に守ることで、誰もが強烈に持っている「自己実現を求める衝動」を実現する機会を奪ってしまうからです。
ある3歳の女の子の例を通して、自己実現を求める衝動についてお話します。




***




3歳の女の子がいる、ある若いご夫婦の自宅を訪ねたときのことです。
女の子は育ち盛りの元気な子で、部屋中を跳ねてまわって遊んでいました。


しばらくするとその子はトイレにいったのですが、戻ってきたときにはスカートの下にパンツをはかないままだったので、
お母さんがその子にパンツを渡しました。

畳の上にお知りを付けてはけば簡単にパンツをはけるのですが、どうやら「わたしも大人のように立ってパンツがはきたい」と思ったようです。


彼女は、立ったままパンツをはこうとしますが、平衡感覚に乏しく筋力も弱いその子にとって、重い足を持ちあげ立ったままパンツをはくのは至難の業でした。

何度も何度も失敗を繰り返したのち、ついには一つの穴の両方の脚をズボッと勢いよく突っ込んで、
脚がぬけなくなってしまいました。
その子は床に座り、パンツを両手で持って顔を真っ赤にしてヒイヒイ、ヒイヒイと引っ張るのですが、どうしても抜けません。


その間、お母さんは何をしていたと思いますか?
ただ、ニコニコと女の子を見守っているだけでした。


その子はとうとう涙まで流しながら苦闘していました。

そうしてついにパンツから両脚を抜くことができました。



そのあとも立ち上がってパンツをはこうとして苦闘を続け、小一時間経ったころ、ようやくパンツをがはけました。
後ろ前が逆でヘンにたぶついていましたが、彼女にとってそれはどうでもよいことで、
ついに大人のように立ったままパンツがはけたのです。
それは彼女にとって、自己実現を求める衝動を充足する成功体験になっていたのでした。

ちょうどそのとき、わたしのテーブルの上にケーキが出されていました。


女の子は苦闘のあとでお腹が空いたことでしょう。
それをみて「私もケーキちょうだい」と言いました。
ところが、あいにくその家にケーキはもうありませんでした。



お母さんが「ケーキはなくなっちゃった。そばボーロならあるけど、それでいい?」と尋ねると、
「うん」とうなずいて、その子はお母さんが持ってきたそばボーロをおいしそうに食べていました。

その子にとって、パンツを立ったままはけたことは、自己実現の悦びの体験になったのでした。
苦労が大きいほど、失敗の可能性が高いほど、成功したとき・成し遂げたときに大きな喜びを味わえるのです。

もし、その女の子が立ったままパンツをはこうとグズグズしているのをみて、親が「何をしているの!?こっちに来なさい!」と言ってはかせると、親はその子から、自己実現の悦びを得るチャンスを奪ったことになります。


子どもが助けを求めたときではない限り、親が先回りして、子どもが自分の力で挑戦するチャンスを取り上げてしまえば、「成長したい」「自分の力でやってみたい」という挑戦への欲求が満たされず、深い不満を感じることになります。






そんなとき子どもは、なぜ不満を感じるのか、自分でもわからないかもしれません。
親は自分のためにしてくれたのだから、文句を言うのは理に合わないからです。

 

 








■わがままは愛情を求める叫び


さきほどの3歳の女の子の例で、かりにお母さんが子どもに代わってパンツをはかせたとします。
もし女の子がそのあと「ケーキをちょうだい」とねだったとき、
お母さんが「もうケーキないのよ」と応えたら、女の子は怒りだしたかもしれません。
なぜなら、お母さんは彼女の「自分の力でやってみたい」という欲求を無視したため、彼女は「お母ちゃんはわたしの気持ちを大切にしてくれない」
と感じるからです。そのうえ、「ケーキちょうだい」という「私の気持ちを大切にして欲しい」という愛情欲求まで否定されたら、
「あなたにはあげる愛情はないのよ」とお母さんに言われたことになるのです。
もしそうだったら、女の子はそばボーロでは納得せず、
「イヤだー!ケーキがほしい!!」と駄々をこねたことでしょう。

そんなとき親には、子どもがわがままを言っているようにしか思えず腹がたちますが、子供の身になれば、それは親の愛情を求める必死の訴えなのです。










 

■不安のコントロールには結果よりもプロセスが重要


過保護は家族の不安の押し付けであるといえるが、
過保護な家族に、なぜそんなことをしたのかと聴くと、
「失敗したら本人が落ち込むと思ったから」「失敗したら本人が苦労すると思ったから」などという答えが返ってくることが多い。
あるいは、家族がどんどん他のやり方や可能性を指摘しまって、本人が混乱していることが多い。

家族の役割は、仮に結果が多少気にいらなくても、そのプロセスを尊重して受け入れることである。
先回りしていろいろなことを心配したり手配したりしているような家族には、何を心配するとか、いつ心配するかも、
本人のペースに任せるべきだということをよく説明する。









 


■共感と同感のちがい


では、共感できない親と共感されずに育った子どもたちについて考えて見ましょう。
辞書で共感を引くと共感とは
他人や誰かの考えや主張に「そうだね」と感ずること、
他人と自分とが同じ感覚を共有している感覚を持つことにあります。

ここが分かりづらいのですが、「共感」と「同感」は違います。
「共感」は、あくまで相手がそう感じていることを認めること。
究極的には、「私はそう思わない。あなたとは違う考えだけど、あなたはそう思うんだね」と相手の気持ちや主張を認めることです。
相手と考えが違っても良いのです。
一方の「同感」とは、「そうそう。同じ!」と他人が持つ考えや感情が自分と全く同じだと感じることです。
同じ感情を共有できる相手と近くなった気がしますね。
でも、親子、夫婦、友人など、さまざまな人間関係において、私達に必要なのは「同感」ではなく、相手の気持ちを認める「共感」なのです。
たとえ、相手の考えや気持ちに100%納得できなくても、それは何の問題もないのです。



ここまで読み進めてきて「親から見捨てられた体験」と言われてもピンとこなかったという方が多いかもしれません。
親から充分に「共感」されて育ってきたかと問われても、それがどういうことか分からないと言う方もいらっしゃるでしょう。
では、あなたは、自分の考えや主張を親から認めてもらってきたかと問われたらどうでしょうか。
あなたはそのときそのときの気持ちや感情を親から「あなたはそう思っているんだね」「そう感じているんだね」と認めてきてもらったでしょうか。
むしろ、「分かってもらえない」「言ってもムダ」と思ってきたのではないでしょうか?

実のところ、家庭で暴力があるなしに関わらず、
実に多くのACの人が親から共感されずに育ってきているのです。

人は共感されないと腹が立ってくるものなのです。
共感されることなく育ってきた人が
やり場のない怒りやイライラを抱えていたとしてもそれは何の不思議もないのです。













■共感(承認)をもらうことで揺るがない自信が築かれる


子どもは誰でもそうですが、思ったことを、感じたことをそのまま表現します。
遠慮もしなければ、お世辞も言いません。

「ママ、ママ、あのね」と何かを話そうと思って母親に話しかけます。
「見て!見て!」と、自分の素晴らしい発見を周囲の大人に伝えようとします。
自己評価、自己肯定感を育てられなかった人たちとは、こういうときに「忙しいからあっちに行って!」「うるさいわね!」と言われてきた人たちです。

さらには「そんなことで喜んじゃって」「そんなこと、大したことないよ」と言われてきました。
また、多くの親は怖いといって泣いている子どもに共感するどころか、「怖くない、怖くない。そんなに泣くようなことじゃないでしょ」と、
その素直な感情を否定してしまいます。
何かが上手くいかなかったり、気に入らなかったりして、癇癪を起こしている子どもの腹立たしさや口惜しさに寄り添うのではなく、「うるさい、黙れ」と叱責します。
友達同士や兄弟姉妹の間でケンカが起きたときにも、「そんなことぐらいで騒ぐことないのに」と、根拠なくよしの子どもや年下の子どもをかばいます。
年上の子どもや我が子の感情はいとも簡単に無視されてしまうのです。


衣食住に困ることがない。
いつも美味しいご飯やおやつが用意されている。

申し分のない養育環境を整えてくれていても心理的には誰からも寄り添ってもらえなかった。
いつも1人ぼっちだった。味方がいなかった。


それが当たり前だったから、寂しいとも思わなかった…。
というよりも、
自分が寂しいと感じていることさえ分からなかったし
寂しいということの意味さえわからなかった。
幼少期の虐待、暴力がなかったとしても
そこには見も凍るような無関心があります。

ACとは、この親の無関心によって自己肯定感を育てられなかった人たちなのです。
そのために、ACは自分を価値あるものとする自己評価が大変低くなっています。

自分に価値がないと思えば人と接することが苦手になって当然です。
そのような自己評価の土壌に、恐怖体験が加われば、人が怖くなって当たり前です。

「人が怖い」という思いの背景には、こうした明確な根拠があるのです。
そして、その「怖さ」の根底には、共感されなかったという傷つき体験が潜んでいます。
さらに、最も深いところにあるのが、人生の初期に母親との愛着関係が結べなかったことからくる傷と悲しみです。
母親に受け入れてもらえなかったという怒りです。
親に共感してもらえなかった怒りや親を信頼することができなければ
悲しみは増していく。








●参考文献
あなたの一番になりたくて ACと対人恐怖   外川智子 現代書林
「怒り」「さびしさ」「悲しみ」は捨てられる! 古宮昇 すばる舎





2013年4月26日金曜日

女性の社会進出は本当に幸せか





○第一部





◇金銭的な支えを女性が担うことは幸せか



【「稼げるキャリアウーマン&専業主夫」という夫婦モデルは幸せになれるか】



結論を言ってしまえば、私は「金銭的な支えを男性が担って女性は男性に上手に支えさせてあげる」という男女関係が最も幸福度が高い男女パターンなのではないかと思っている。
(ただし、子どもが居る夫婦の場合には、そうとも言いきれないとも思う)









まずは、引用を4つ示したい。







引用①


「ほら、沙美、いつか言ったことがあるだろう。『自分にとって都合のいい男と、愛する男が一致するとは限らない』って」

「よく覚えてるわね」

「そりゃそうだよ。プロポーズをいつするか悩んでいたころだもの。なあ、そりゃ自分のためにエプロン締めて夕飯つくって、風呂沸かしてくれる男はそりゃ都合いいさ。
 だけど、沙美、そんな男好きになれるか?」

沙美は小さく首を振る。

「そうだろ。だからオレぐらいにしておけ。オレだってたまにはめしぐらいつくるし。それに…」

ちょっとそこで口をつぐんだ。

「誰よりも沙美のことを愛しているんだからさ」


(コスメティック 林真理子 小学館)









引用②

二年前に会社を辞めて絹子の収入を支えに暮らしはじめたときに、面倒くさい諸々の義務や規範と一緒くたにそんなものは窓の外へ放り捨ててしまったのだ。
だがそれは、絹子という存在自体を、その経済的価値以外は余所(よそ)へうっちゃってしまうに等しい行為だったのかもしれない。
要するに、自分のようにさしたる理由も無く自らのプライドを引き下げてしまうと、自分と関係する人間たちの誇りをもないがしろにしてしまうのではないだろうか。


(見えないドアと鶴の空 白石一文 光文社)








引用③


116:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/04/24(水) 12:49:33.81 ID:E4pWusD10
 >>103
>そのときは彼女のためにと必死で
 >それどころじゃなかったような気もする

具体的に何したの?
 彼女を養えるよう努力した?
 
131:>>1:2013/04/24(水) 12:57:01.58 ID:fUOncG+D0
 >>116
経済面では貯金をちゃんとして、残高も聞きたそうなタイミングで見せてたよ。
あと、ストレスとプレッシャーに弱い子だったから
 マッサージ覚えて、アロマのセット買って、会話術の本買って、
 可能な限り笑顔を絶やさないようにしたよ。
 


74:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/04/24(水) 12:36:52.80 ID:lEbgYISMP
 全くもって依存しすぎだな、自律しろハゲ
自分の存在意義を相手にゆだねるから鬱陶しがられるんだよ
自分がない人間なんかと一緒にいられるわけねーだろ気持ち悪い
 ただ単に相手に尽くして依存することと、好きになることは違う
 
103:>>1:2013/04/24(水) 12:44:49.19 ID:fUOncG+D0
 >>74
そう思うよ、だから失敗したんだろうね
 

http://blog.livedoor.jp/kinisoku/archives/3762137.html





引用④

「女性からのプレゼントで男は幸せにならない!? ?」


脳科学評論家、澤口俊之によると、本来プレゼントは男性から女性へのみである。

高額なプレゼントを与えることは、
自分がこれだけお金を与えることができる、自分の財産を誇示するために行っている。

本来の贈り物は男性から女性のみで逆はない。
女性から男性に贈られても、男性は幸せにはならない。

男性は女性に比べ、プレゼントでは幸福感は高まらない傾向がある。
プレゼントを貰うと嬉しいかも知れないが、嬉しさと幸福感は別モノである。
幸福感は持続するもの。
貰った瞬間は嬉しいとしても、幸福感とは別である。
















 

 

■男性の愛は与えるもの、女性の愛は感じるもの




上記の4つの引用から私が考えたのは以下の事だ。



・「自分(家庭)を支えるために金を稼ぐ女性」を男性は本当には愛せない。
・「自分(家庭)を支えるために金を稼がない男性」を女性が好きでいる事は出来ない。




ありていな事を言ってしまえば、「男性は誰かを愛することに幸せを感じ、女性は誰かに愛されていると感じることが幸せに感じる」みたいな古びた理論が深く関わっているんじゃないかと思った。


そして、女性が「私はこの人に愛されている」と最も感じられる要素は「稼いだお金をくれる」ということなのであって、別に「疲れている時にマッサージをしてくれる」ことではないのではないかということ。

「マッサージをしてくれる男性」より「マッサージにいけるお金をくれる男性」にこそ、「私は愛されている」と感じることが出来るのだと思う。




だから、引用③の彼は、捨てられた。
彼女をサポートしようと必死に努力したが、捨てられた。
その理由の最たるものは女性にとって「私をサポートしてくれる男性」というのは「私が自由に使えるお金を化成毛くれる男性」ということだからにほかならないように思えてしかたがない。





また、引用④が真実だとするなら、「女性が稼いだお金」で贅沢な生活を送れるとしても男性の心の底では、不満が蓄積していくのではないかと思う。

「稼げる能力がある自分」というプライドももてないし、そもそも、「女性からの贈り物」でどれだけ豊かになろうとも弾性は幸福にはならないと澤口先生はおっしゃっているのだから。





男は愛を与える相手、愛を与えてくれる相手が喜んでいる姿を見てこそ、本来は、幸福感を感じることが出来る生き物なのではないだろうか。





オスが狩りをして、メスが洞窟で子どもを育てる。男が働いて女が家庭を守る。
女性にも働く権利を!という時代から、女性も働かないと社会が廻らない時代になってしまったいまとなっては、
実は猛烈サラリーマンと専業主婦という家族モデルは生物学的に考えたときに凄く幸せなパターンだったのではないかと。



男性が女性に守ってもらう(心の支えも守ってもらうことになるだろうがここでは、金銭的な意味で。)というのは男も女も、もうお互いを好きになり愛し尊敬もできないようになってしまうのかもしれない。 












 

 

■子どもがいる時には男女ではなく夫妻になるから…


ただし、子どもが居る場合は役割分担が逆になるだけなので家庭生活はおおむね満足できるものになるのかもしれない。
「子どもを育てる」という役割の中で夫婦という男女関係から「お母さん、お父さん」という「性を超えた役割分担を担う合い関係」に関係性が移行するので、
「男女という関係」という役割は子どもができれば終わらせることが出来る。
そうなれば、子どものために稼ぐのは誰であってもかわない。なぜなら「子どもを育てていけること」が家庭の最重要遂行任務になるからだ。

ただ、モーレツサラリーマン&専業主婦のときのモデル並みに父親が子育てを行うことが子どもの発育にハンデになるのではないかという懸念は残る。
シングルファーザーで最初から育てるのではなく、お母さんが存在している状態でお父さんに農耕に育てられる子どもは、ちゃんと育っていくことが出来るのだろうか…。

いつも犠牲になるのはか弱き存在だ



















○第二部




しかしながら、「女性が稼いで男を養う男女関係は幸せになれない」と結論付けるには、
もう一つ考えなければならないことがある。



それは、「ヒモ」と呼ばれる男性の存在である。




ダメンズと高給取りの女性という構図は、まったく珍しいものではない。
彼女達は「私の彼、ちっとも働いてくれなくて困ってるの~」とまんざらでもない顔で愚痴という体裁でノロけていることがある。
そして、「彼、私がいないと駄目なの」と恍惚とした表情で、しっかりと一家の大黒柱としての働きを全うする。

この組み合わせは、まさに「幸せな関係なのではないだろうか?」
「稼がない男性」にこそ、愛を感じている女性がいることも事実なのだろう。









引用①


くるむ?@k0r0m0x0  
ヒモのなりかた 
「これぐらい俺がやるよw ○○いつも頑張ってるからさ、俺といるときぐらい休んでて良いよw」 
「今日元気無いね、どうしたの?おいで」
「俺さ、お前がいないとダメだ。お前しかいないんだよ・・・。」 
この3つが言えればなれる。らしい。 
1年ヒモやってた友人が言ってた。
https://twitter.com/k0r0m0x0/status/156623061934800897







引用②

昨夜はリアルヒモメンと遊んできた。同棲してる彼女に家賃と食費を払ってもらっている強者だ。
さらにこのヒモメン、二股三股かけまくる。とても器用なのだ。なんというか、そういった類いの女性を見抜く千里眼を持ち合わせている。
ヒモは才能ですね。母性本能くすぐれるかどうかなんで、そこら辺僕、うまいと思います。天性のものです。
http://matome.naver.jp/odai/2135076937445318201











引用③




なんで看護師の旦那ってヒモみたいなのが多いんだろう?
 
   

539: 名無しさん@HOME 2010/06/13(日) 02:27:28 0
なんで看護師の旦那ってヒモみたいなのが多いんだろう?
みんながみんな、ってわけじゃないだろうけど、
知人友人に看護師が4人いるんだけど、
その旦那たちが揃いも揃ってヒモに毛が生えたような連中でさ
皆見た目だけは多少よくて、でも生活能力は限りなくゼロに近く、
自分が楽して遊んで暮らすことばかり考えてる
中には自分の親と同居させて、自分は遊び三昧、
でも看護師の奥さんには「親がいるから子供も産めてよかったろう」って、
恩着せがましい事言ってる
看護師してる知人友人達も、なぜか皆示し合わせたように、
「この人、アタシがいなきゃダメなのよ」と言って奴隷してる
奴隷したいならすればいいと思う、それで自分が幸せなら
けど、「この人(ry」って言うなら、深夜に電話かけて愚痴らないでくれ、と思う

550: 名無しさん@HOME 2010/06/13(日) 10:57:16 0
くらたまの「だめんずうぉ~か~」に載ってたけど、
疲れた感じの病棟看護師は、十中八九だめんずらしい。
やっぱ>>539の下から3行目みたいなことを思っちゃうんだって。



540: 名無しさん@HOME 2010/06/13(日) 02:54:01 0
うーん、両親が看護婦+ダメリーマン(ヒモじゃないけど、低脳で仕事が 致命的にできない)の組み合わせだけど、稼ぐ能力のない男は稼ぐ女の 匂いにはすっごい敏感。
 自分には稼ぐ能力がない男には、寄生先(稼ぐ女)を見つけないと
死活問題だから必死になるんだろうね。



544: 名無しさん@HOME 2010/06/13(日) 08:09:06 O
看護介護職は献身的な精神がないと勤まらないよ。
 頼られるのを当たり前な仕事についてるから、私生活でも頼られる→
面倒をみる→ヒモや依存型知人をつくりやすい、んじゃないかと。
あと基本が女職場だから、他の女よりいいものを、少しでも早く、があると思う。
 入院してた大学病院のナースたちを見てそう思った。

551: 名無しさん@HOME 2010/06/13(日) 11:11:23 0
…あたしがいなきゃダメな男は、誰がいてもダメな男です。

553: 名無しさん@HOME 2010/06/13(日) 11:38:01 0
>>551
名言だw

554: 名無しさん@HOME 2010/06/13(日) 11:40:19 0
>>551
男にしてみりゃ「面倒見てくれるなら誰だっていい」程度の認識だろうしねー

563: 名無しさん@HOME 2010/06/13(日) 15:29:10 0
>>551
「あたしがいなきゃダメ」=「自分がいてもダメ」とどうして思えないのか。
http://sutekinakijo.com/archives/23483949.html








 

■お金で寂しさが埋めている?


「わたしなんか、生きている価値がない」というような、人間としての根本的な自己肯定感が欠損している女性は、
「男性を支えられる私」という役割を得る事でイキイキと生きることができるようになる。

思うに、自己肯定感の欠損を埋めるには「誰かに頼りにされる自分」を感じることが必要なんじゃないだろうか。

「お前は頑張っている」「お前が居ないと駄目なんだ」「お前だけが頼りなんだ」

このような外側からの承認を浴びていないと自分を保てない女性が、最も低コストで、この言葉達を得るために「ヒモ男」の存在が欠かせないのではないだろか。
そして、その言葉を浴びている時は幸せ…なんだけど、「夜中に電話で愚痴る」と引用に書いてあるように、「幸せなんだけど何かが違うんじゃないかしら…」という言葉に出来ない不満がジワジワと蓄積されていくのかもしれない。


きっとダメンズ好きな女性が、本当に必要なのは「愛されること」なんだろうけど、残念ながらダメンズたちは「金を持っていてオレに使ってくれる女性」が好きなのであって、
別に特定の誰かを愛しているわけではない。だから、彼女達が欲しい分だけの愛情を得られる事は多分、ないのだろう。
だからこそ、ダメンズから逃れられない…というループも生み出すのかもしれない。























◎最後の結論ーー禁断の【男性不要論】



そんなことを考えていくと「女性は男性から愛(自由に使えるお金)をもらっているということに最も愛されていると感じることができる」という仮説は、
概ね成り立ってしまうのではないかと思った。

おそらく、この先、女性の方が収入が多いことは、当たり前の世界になっていくだろう。
社会経済のために男女の愛が犠牲になる時代なのかもしれない。
なぜなら、『稼げる女性が増えることは男女関係を幸せに導くか?』という命題の答えは「ノー」としか言えないと思うからである。


そして、ぶっちゃけた話として、「お金を稼ぐ役割を女性が担ったら、男性という存在は、何のために存在するのだろう?」という男性不必要論にまでつきささってしまうのではないかと懸念している。



出産は女性にしかできないし、子育ても子どもが女性を求める。
有能な男性は社会を豊かにするために奔走する役割があるだろうが、社会的な貢献をしない(する能力が無い)男性たちは、家庭というコミュニティを支えるための稼ぎすらなくなってしまったら、いったい、何のために存在するのだろう…




以上の事を踏まえると、
「モーレツサラリーマン&専業主婦」という高度成長期モデルは、最も幸福感が高かった時代だったんじゃないかと…。
そして、社会経済のために愛は擦り減っていく…「最後に愛は勝つ」は、女性の社会進出によって脆くも崩れ去っていくんじゃないかと…。



「間違った優しさ」について~社交不安障害の視点から~




◇相手側の事情まで解決しようとする人々



「他人に嫌われるのが怖い」というのがピンと来ない人には「あなたは他人が深いそうにしている状況に耐えられない人ですか?」という質問が正しいのではないかと最近は思えてきた。
目の前に機嫌が悪そうにしている人が居ると「私、何か悪いことをしたかな?」と、全て自己関連付けをしてしまう人は境界線問題を抱えている人だろう。


境界線問題の1つの問題は「相手の事情まで面倒を見てしまう」という間違った優しさにあると思う。





たとえば、私達はお腹が空いていると機嫌が悪くなる。
あるいは、ひいきの野球チームが負けた翌日は機嫌が悪くなる。
または、出掛けに妻と喧嘩すると、一日機嫌が悪くなる。


こんなふうに、考えると、「目の前に居る人が機嫌が悪いのは全部自分のせいだ」と自己関連付けしてしまうのはとても損のようにおもえないだろうか。

自分の行為あるは言動あるいは存在とは全く関係の無いところで相手は機嫌を損ねているのに、
そんな相手側の事情まで全て自分が背負ってしまい「どうにか機嫌を直してもらわないと…」と自分をすり減らして相手の機嫌を伺って行動する…
こんなことをしていれば誰でも疲れ果ててしまうし人間と関わる気力は簡単に底を付いて引きこもってしまうでしょう。


こんなふうに相手側の事情まで引き受けてしまう行為を「間違った優しさ」と私は呼んでいる。
「間違った優しさ」によって、擦り減っている人、背負わなくて良い荷物を背負っている人に届いてくれると良いなぁ~









 

■相手の事情を考えてみるという視点


私の患者さんの経験からは社交不安障害への一つの対処法として
相手の事情を考えると言う習慣を身に付けることが役に立っています。
社交不安障害という病気は
一見、相手の事ばかり考えているように見える病気です。
「相手が自分をどう見るか」ということに意識が集中しているからです。


ところが、実際の状態を見るとその反対であることがわかります。


たとえば、自分が何かを表現している時に
くすくす笑った人がいる、という場合。

自分の話を聞いて相手がくすくす笑ったとしても
「自分の話し方がどこかおかしかった」という可能性だけでなく
「相手が笑うべきではないところで笑った」という可能性もあるのです。










ーー症例


うつ病で治療を受けに来た20代女性の不二さんは
10年近く社交不安障害を持っていることがわかりました。
不二さんの家族との関係を聞いていくと虐待的な父親がいることがわかりました。

些細なことで爆発的に腹を立てられることが多く、
不二さんは常に「自分が父親を怒らせるようなことを何かしてしまったのではないか」
ということを気にしていると言います。




このパターンは他の人間関係にも及んでおり
人の顔色を伺い、自分が相手を不快にさせるようなことをしていないかということを常に気にしていました。

不二さんの父親についてよく話を聞いていくと
不遇な育ち方をしている人であることがわかりました。

また、父親は対人関係が全般に苦手で、親しい人も折らず
仕事は続いているもののかなりのストレスになっている様子でした。

父親が爆発した最近の例を詳しく話してもらうと
父親に余裕がなくなってパニックになったときが多いということが分かってきました。





パニックになると爆発する人は多いものですが不二さんの父親もまさにそのタイプでした。

その状況で父親がどれほど余裕を失っているか、ということを
不二さんも理解することが出来ました。



そして、父親が余裕のなさそうなときには距離をとる
(それまでの不二さんは、父親の様子がおかしくなってくると
 「自分が何とかしなくては」と思ってしまい、色々と話しかけていました)、
父親が爆発してしまったときには「余裕が無かったのだな」という目で見て
不二さんの問題としてみない、などろいうやり方を工夫しました。


その結果、父親との関係は驚くほど好転しました。
父親は相変わらず余裕がなくなると爆発しがちでしたがそんな父親から受けるストレスは大幅に減りました。

さらに不二さんは、
それ以外の人との関係の中でも同様の工夫を考えるようになりました。


不二さんの父親は「余裕が無いときには不適切な振舞い方しかできない人」であったと言えます。

もちろん、身近な人が爆発すると言うことは愉快な経験ではありませんが、
それを「自分が父親を怒らせるようなことを何かしてしまったのではないか」
と受け止めるのではなく、「父親はそういう人だから」と受け止めることによってストレスのレベルも変われば、自己肯定
感も変わります。



そして、父親との関係を、あたら無き陸地でうまくコントロールできるようになったという事実が
不二さんの自己肯定感をさらに高めました。


そのことが、それ以外の人との関係性も変えて行こうという動機に繋がったのだといえます。

なお、相手の事情をよく考えて見ようにも詳細が分からないということもあります。

そんなときには「怒っている人はパニックになっている人」というふうに考えてみるととても役に立ちます。


自分の事を振り返ってみても、感情的に怒ってしまうと言うときには
「予定が狂った」「自分のキャパシティを超えた」というような理由によってパニックを起こしている時だと分かると思います。

この原則を活用すれば相手がパニックになっているのだな、と思うと
「自分の問題」では無く「相手の問題」としてみることができ、社交不安もぐっと和らぎます。






******









 

■境界を設定する


相手との間に起こることは自分だけのせいではないということが
認識できれば、次のステップとして、関係性を変える方法を考えることができます。

自分が相手に何を期待しているのかを整理してその伝え方を考えるのです。
相手への期待の整理の仕方として社交不安障害の人にとても役立つのは「境界設定」と呼ばれる考え方です。


これは、自分側の問題なのか、相手側の問題なのか、という境界線をはっきりとさせるというような意味です。

満足のいく人間関係においては境界線がしっかりと引かれ、お互いの「敷地」を尊重しあうことができるでしょう。


しかし、自分が決めるべきことなのに相手が決めてしまう(相手が自分の「敷地」に入り込む)ことも多いですし
本来は相手の問題なのにまるで自分の責任であるかのように感じて
気を使ってしまう(相手の「敷地」に自分が入り込む)、ということも少なくありません。



このように「敷地」を犯してしまうと、ストレスにつながります。



社交不安障害の本質はネガティブな評価を恐れると言うところにありますが
批判を受けるようなときには「相手の問題」という要素も必ずあります。
ところが、社交不安障害になると、どうしても「自分の問題」として考えがちです。


これは相手の「敷地」に入り込んでしまっている、ということになります。


相手は出かけに夫婦喧嘩をしたために機嫌が悪いのかも知れないのに
「あなたの機嫌が悪いと、私は自分の事を責めてしまうので機嫌よくしていてもらえませんか?」と頼む、という状況を考えてみれば、どれほど相手の「敷地」に入り込んでいるかがわかると思います。



完璧な人間などいませんので、
たまに機嫌が悪い日があっても許してあげても良いでしょう。



批判を自分の問題としてとらえてしまうという病気の症状そのものは「相手の敷地に入り込んでしまっている」性質のものですが治療において対人関係上で意識していきたいのは「自分の敷地を守る」ということです。



ネガティブな評価を回避することによって自分の「敷地」を守っていると思うかもしれませんが実際は逆です。
「いい人」担ってしまうことに代表されるような自己主張の無さは相手が自分の「敷地」に入り込むのを許していることになります。


たとえば、母親が治療に関して過干渉である岳夫さんなどは、その良い例です。


相手の「敷地」に入り込んでしまうと、本来自分が引き受けなくて良い心配まで
引き受けてしまい、本来自分のせいでないことによって自分を責めてしまいます。


相手を自分の「敷地」に入れてしまうと、相手に振り回されてしまいます。



いずれも、かなりのストレスを生み出す状況であると同時に相手との関係性も損なわれます。
本当に親しく安定した関係を作っていくためには境界線をきちんと守ることが必要です。
自分の敷地も相手の敷地も尊重することが不可欠なのです。
そのためには問題が起こったときに
それが自分の「敷地内」の話なのかどうかを考える視点を持つことが重要です。






2013年4月19日金曜日

喪失体験機会の喪失





◎結論

喪失体験の欠如→心の弱さ→直面化を恐れる







「叱ったときの反応がいちばん違うんですよね。きびしく叱ったとき、昔の生徒は反抗してきましたが、最近の生徒は、反抗はしないのですが、こちらの叱責を正面から受けることができないのか、いつもクニャクニャして、視線が合わないんです」


「叱ったときに反抗する子は少ないですが、そのかわりに視線があわない。
 こちらの叱責を正面から受け止めないので、聞いているか聴いていないのかわからない…」




「このままじゃ、論文が間に合わないぞ」と大学院生に指導すると、
ほとんどの学生は、視線を合わせず、視線をそらして、直面化をさけようとするのです。


緊張感に耐え切れないがゆえの現象なのです。
(あなたのお子さん、このままでは大変なことになりますよ 諸富祥彦 アスペクト)







 

 

■喪失感に不慣れな現代っ子



平成っ子は…

・死が身近でない

核家族化によって、昨日まで一緒に生活していた人がこの世からいなくなるという体験
(おじいちゃんおばあちゃんが死ぬ)という経験を得る機会が圧倒的に少ない。(死に意味があるとしたら、生きている人間にし人間が死ぬことの意味を遺すことだと思っている)


・動物は死なない。
犬猫が殺される現場を見る機会が無い


・ファミコンのセーブは消えない。
理不尽に(自分の力が届かない場所で)一瞬にして積み上げてきた努力が消え去ってしまうと言う生きていく上で起こりうる理不尽さを体感できる機会の減少。











○まとめ


人の死とかゲームデータのセーブとか、なるべく人生の早い段階で「自分の努力ではどうにもならない」摂理みたいなものを学ばせるべき。

コンピューターは自分の望んだ結果が出るけど人生はそうではないんだよ、と。
コンピューターは命令すればその通りに動いてくれるけど人間あるいは人生は、こっち側が正しいことをしても結果がそれに伴うことはとても少ないという事を可能な限り10地位頃からちょっとずつ津免疫をつけさせる。

これも教育なのではないだろうか。

2013年4月17日水曜日

子育てを通して「境界線問題」を見直そう




◇「他人の反応を気にし過ぎる性格」と「境界線の問題」



機嫌で自分の処遇が決まるのであれば他人と関わるときに相手の機嫌を過度に気にするようになる。
次の例を見ていこう。











ーーー「幼稚園の出来事を話す」という子ども側の行動は一定


午後3時。
幼稚園の下校時間。

幼稚園児の拓君が「お母さん、きょう幼稚園でお友達とね…」と迎えに来たお母さんを見上げて嬉しそう話す。
お母さんも「うんうん、それで?」「楽しく遊べてよかったわね~」と温かい親子との会話。

次の日、いつもの下校時間のこと。
拓君は、今日もお母さんに話したいことがたくさんあります。
「お母さん、きょう幼稚園でね…」と話し始めます。
ところが、お母さんの様子が変です。
「うるさいわね、だまって歩きなさい!」とまでは言葉にしませんが、
明らかに「しゃべるな」という雰囲気です。





****






ここで、拓君(あるいは子ども)は混乱します。
「幼稚園であったことを話す」という子ども側の行為は一緒なのに、日によってお母さんの反応が違うのです。

お母さんは、その日、生理だったので機嫌が悪かったのです。


つまり、お母さんの機嫌が悪いのは拓君が「幼稚園の話をする」からではないのです。




お母さん側の問題であるのに、拓君にはそのことがわかりません。
「人間はその日によって機嫌が悪い時がある」
「自分のせいじゃないけどお母さんには不機嫌になることがある」
などという大人のルールを子ども達は知りません。


なので、「幼稚園の事を話す」という「ものさし」は一緒なのに、「お母さんの機嫌」によって、「幼稚園の話をしたときの結果」がコロコロ変わると子どもは混乱します。


そして、親の機嫌によって自分の処遇(話を聴いてもらえるか怒られるか)が決まると理解するようになると、他人の顔色を伺うコミュニケーションパターンが身についてしまうのです。













 

■親子間の境界線問題の発現



「幼稚園の話」というものさしは一定だった。なのに、お母さん側の変化が合った。

自分自身は何も悪いことをしていないのに自分を責めて常にびくびくしながら両親のご機嫌を窺うことになる。

実は、両親の不機嫌やイライラは子どもには何の関係もないところで発生していることが多いのですが子どもにはそんなことがわからない。






子どもにとって、ものさしが一定でないことは混乱を招きます。






 

■「ものさし」は「一貫性」を持たせるべき



たとえば、虐待の場合、ものさしが大人の機嫌次第で変わります
同じことをしても暴力的に怒られることもあれば、まったくお咎めなしとこともある。
そこから学ぶことは良識とか常識といったものではなく単に相手の顔色を読むことや、主体性のなさです。




思春期に心の病気になる人は、このような家庭環境が多く見られます。
一方、しつけの場合、ものさしは子どもの側の言動にあります

同じことをすれば、大人の機嫌がどうあれ、
いつも同じように注意されるのです。


良い厳しさとは「ものさし」がしっかりしていることなのです。
安全な環境の2つめのポイントは
この「一貫性」にあります。













 

 

■親が子どもに責任を負わせようとする




親が自分の感情や考えや行動に責任を持たず、子どもにその責任を負わせようとすることがあります。
これは親子の境界がねじれた状態です。


たとえば、結婚がダメになったのは子どもが悪い子だったせいだと言ったり、子どものせいでストレスがたまるから酒やドラッグが必要なんだと言うのは、子どもの責任ではないことを子どもに背負わせ、不可能な事をやらせようとすることです。



実際、こうした親は、子どもが実際に持っている以上の力を持っているかのように言い聞かせ、子どもを無謀な努力と、力不足にうちのめされる体験へと駆り立てるのです。


子どもは、もともと、親が間違っているとか、親の行動は正しくないといったように考えないのです。



子どもは、自分にとってどうしても必要な存在である親を拒否することはできないのです。
その代わり子どもは、自分が間違っていて、悪いんだと言う重荷を背負いこみます。


そうすることで、親の誤った行動をなかったことにし、少しでも安全を感じようとするのです。


その奥で本当は何が起こっているのかと言えば、外側の安全と引き換えに、心を危険にさらしているのです。









 

■境界線問題は受け継がれる



境界線問題は一人では起こらない。必ずペアが必要。
こういうお母さんは自分も境界線問題を抱えている。



お母さんが子供の時、お母さんの顔色を伺ってきた。

子どもは母親の顔色を伺うべきという境界線問題を抱えていると子どもも自分の顔色をうかがうのがあたりまえだということを無意識に行っている。
(もちろんお母さんに悪気はないのだけれども)






親の中には「境界線」の問題を抱えた人も居ます。


境界線問題とは何かというと、
それが「自分の問題」なのか「相手の問題」なのかがわからない、ということ。



例えば、過干渉というのも「境界線問題」の1つです。

ある程度のリスクを引き受けて試行錯誤するのもその人の人生なのに、
「失敗させてはいけない」と相手の領域に踏み込んで色々と行動を支持するのが過干渉だからです。



あるいは、「人の顔色を読んでしまう」というのも、「境界線問題」の1つ。
本来、自分がどんな気持ちであるかがわかるのは本人だけですし、
どうして欲しいかを伝えるのも、本人の責任ですね。


それを勝手に顔色を読んで、「不機嫌なのではないか」「本当は○○してほしいのではないか」などと気を使ってしまう、というのは一見、相手のことを考えているようですが、実は相手の領域に踏み込んだ姿勢です。



こうやって相手の領域に踏み込んでしまうと、相手は暑苦しく感じたり、
自由を奪われたと感じたりするものです。

自分が何かを言ったときに相手が不機嫌になった、という場合に
「自分が悪いことをしてしまった」「自分が空いての機嫌を損ねてしまった」という視点しか持てない、
というようなケースも、境界線問題です。

相手が不機嫌になった理由はほかにあるのかもしれないし、
仮に自分の発言がきっかけで不機嫌になったとしても、
その日の体調など、もともとの相手の状態を反映したものであるかもしれないですよね。

そういった、こちらがコントロールできない性質の話なのかもしれないのです。






 

■辛いときに自分を責めるプログラムが働く


そもそも大きな原因となる心の傷を幼年期に受けたとき、
ほとんどの人は怒りをその相手に向けずに自分自身を責めてしまいます。


それから心は異常なほど繊細となって生きますが、
それ以後、何かに付け傷つけられるたびに自分を責めてしまうのです。




たとえば、学校で強烈なイジメにあった生徒がまったく自分に悪いところはないのに「自分に落ち度があったのではないか」と考えたりしてしまうのです。
あまりにも理不尽すぎるイジメでも、相手が悪いと言う気持ちになれなくなってしまうのです。



この「自分を責めるプログラム」が家庭の中や日常的ば場面でもはたらいていると考えて下さい。
つまり、辛いことがあると子どもはいつでもそれを「自分のせいだ」と考えてしまうのです。




親に原因があったとしても、親を責める気になれないのです。




夜中に自分が布団に入ったときに、両親が夫婦喧嘩を始めたとします。
その原因が何であっても、子どもは両親の不仲をとても心配します。
その心配の程度は殆どの場合、大人が思っているものの何倍も強いのです。


そして子どもは無意識のうちに思うのです。


「自分が悪かったからお父さんとお母さんがケンカしているのではないか」
「自分なんか生まれてなければよかったんだ」
極端な話のようですが、子どもはほんのちょっとしたことでもここまでの絶望的な境地に追い詰められてしまうものなのです。





まったく無関係のことでも自分自身に責任を感じてしまうのです。




こんなふうに考える子どもはちょっとナイーブ過ぎると思わないで下さい。
幼年期の心の繊細さというのは大人の常識では測れないほどにもろく、それだけ傷つき易い存在なのです。













 

■「相手の領域」内の事情を考えてあげよう



かなり問題となってくるのは、子供以外の他人との間に境界線が引けないことです。


「自分は親としてどう見えているのだろうか」ということが不安になる時、それは子供が自分の「でき」を示すものという感じ方を反映しているのですが、同時に、他人と自分との関係性を表してもいます。


公共の場での子供の振る舞いにイライラする他人がいたとしても、それを「親である自分がうまくできていないので他人を怒らせてしまった!」としか感じられなければ、
(「自分の領域」における問題としてしか感じられなければ)、子供の行動をコントロールして他人の機嫌をとることしか考えられないでしょう。


そして、思ったように行動してくれない子供に怒りが向いてしまうでしょう。





でも、これは必ずしも、「自分の領域」の話だけではないのです。
人にとっては、「子供は騒ぐのが仕事だから、元気で何より」という受け止め方をする人もいます。
そのように人によって反応がちがうということは、
「相手の領域」の部分もずいぶんある、ということなのです。



子供の行動に他人がイライラしたときにも、
「あまり子供に寛大でない人なんだな。子供のことをよく知らないのかな。それとも、よほど体調が悪いのかな。ストレスが多い生活をしているのかな」などと、「相手の領域」内のことをいろいろ考えてあげることもできます。


すると、単に子供を「つい怒ってしまう」という反応をするだけではない、他の選択肢も出てくるでしょう。

相手を気遣って「すみません、ご迷惑をおかけして」とは言っておいても
子供を怒らない、ということもできます。



イライラした他人におびえてしまった我が子に「あのおじちゃんは、きっと頭が痛かったんだね」と言って、
恐怖に怯えないように安心させる、ということもできるでしょう。



「つい怒ってしまう」ときは、自分の「境界線問題」を考えるときでもあります。

境界線問題を改善していけば、
自分自身も生きるのがグッと楽になってくるはずです。
そんなふうに、子育てを自分自身の癒しに繋げることもできるのです。












 

 

■「境界線問題」の連鎖を断ち切ろう



こうしてみてくるとわかるように、「境界線問題」というのは、
本来、自分がコントロールできない、あるいはコントロールすべきではない「相手の領域」をコントロールしようとする姿勢のことだといえます。

中には、境界線を守ろうとする意思が全くない人も居ます。


それは多くの場合、自分自身が、境界線意識のない育てられ方をした人です。




例えば、親から虐待されて育った人は、
親から常に「相手の顔色を読みなさい」というメッセージを受けながら生きてきています。
虐待というのは、単にその人の機嫌が悪くなれば起こるもので、そこに客観的なルールはありません。


虐待されるのを防ぎたいのであれば、一生懸命顔色を読んで、大人を怒らせないようにするしかないのです。



また、虐待されたわけではなくても、「相手の顔色を読みなさい」というメッセージを受けて育ってきている人は
案外たくさんいます。




言葉でのコミュニケーションが少ない家庭に育った人に多いものです。


そして、それに従って相手の顔色を読み、
また、自分の顔色を読ませる(きちんと伝えずに気持ちをわかってもらおうとする)生き方をしていると、
それがまた子供に伝わっていくことになります。


境界線問題はそんなふうに連鎖するのです。




しかし、自分が意識することで、その連鎖を断ち切っていくことも可能です。
























<参考文献> 水島広子 怒らない子育て

2013年4月16日火曜日

心が弱いのは共感が足りないから





○主題

共感と心の強度について



○総論

共感とは心の根幹を形成する最重要構成要素だと思っている。
つまり、「幼い頃の共感された回数と質」が心の強さに比例しているのだと思う。











◎まとめ結論


共感とは母性のことである】



共感(母性)が心に根付いていないければ、心の弱い人間に育つ。




心が弱いと、人格と社会的な能力との区別を付けにくくなってしまい、就職活動などで不合格になると、
「社会的な能力」ではなく「自分に人格そのもの」を否定されたと受け取ってしまい、「就活うつ病」みたいなものに感染してしまう。





「社会的な能力≒父性」であり、父性の厳しさを乗り越えていくためには揺るがない母性が根付いていないと、いちいち人格否定と受け止めてしまい、心のダメージが蓄積されてしまう。



母性→父性の順番でしかあり得ない。



社会に厳しさに耐えるためには(父性が身につくためには)母性と言う基礎工事(≒共感)がしっかりと幼少期に行われていないと、心の脆い人間が出来上がってしまう可能性が高いのではないかと結論付けた。


























◇共感を奪われた心脆き大人






ーー共感的雰囲気を子守唄のように求めるB子さん(前編)




B子さんは40代前半の、おしゃれで身だしなみのよい女性である。
主訴は心気症。
若い頃に一度結婚しているが、夫の実家との折り合いが悪く、すぐに離婚して実家に戻ってきたと言う。



B子さんの話す内容は、身体の不調についての心配が専らで、ようやくそれがおさまったかと思うと、身近な人間関係についての愚痴が延々と繰り返されるだけであった。

セラピストは熱心に聴いていたが、あまりに進展がないので「B子さんの側にもそれなりに自分のあり方を振り返って見直すほうがよいのでは?」と感じずにはいらなかった。

あるとき、そのことを正面から伝えるとB子さんは言った。





「私がカウンセリングに通っているのは、せめてここでは私を否定せずに、”そうねそうね、あなたの気持ちは分かるわと何でも相槌をうって欲しいからです!私が欲しいのはそれだけです。それがないと毎日の生活で私は耐え切れないからこそ、ここへきているのです。 ここに着てまで批判的な言葉なんか聴きたくありません!」








B子さんの言葉を聴いてセラピストは、「B子さんの内面は脆く支えが必要なんだ」という思いと「B子さんの望む反応をするロボットにならなければならないのか」という疑問も持った。
B子さんとの面接の中でセラピストが次第に感じていったのは「B子さんは現状を打開しようとは望んでいないのではないか」ということだった。



自分の現状を何とか変えたいと望む気持ちがあってこそ、堂々めぐりや停滞を打開するための「解釈」を受け入れたり、みずから求めたりするわけである。
自分の現状は代わらないと思い定めて、その時間を耐えていくために心を慰める「子守唄」のみを求めるとなれば、耳障りな「解釈」など聴きたくも無いだろう。





40代になっても実家に同居し経済的にも支えられているB子さんは恵まれた立場なのだろう。
きっと親に甘やかされて育った。


…たしかに形の上ではその通りなのだが、子ども時代、娘時代のB子さんは、「いつも親に気を使っていた」という。
父親はワンマンで、家庭をかえりみることが少なく、「養われている妻子が文句を言うはずがない」と決め付けているような男性であった。


そんな父親に心が満たされることなく、しかも表向きは、「善き妻」として夫にあわせてきた母親は、
その鬱憤のはけ口をB子さんに求め、ときには叱り飛ばすとかと思うと愚痴を聴かせ役にし、買い物のお供をさせるのが常であった。




お供をすれば、高価な洋服のひとつも買ってもらえる反面、B子さん自身が選んできたものは決して誉めたことのない母親であった。



B子さんがやってみたいということも、ます「どうせ失敗するのではないか」とか「お父さんに知られたら困る」との理由で常にひきとめようとする母親でもあった。


そのうちB子さんは、母親にあてがわれたもの以外は、自分から手を出さない性格の娘になっていったという。



ちょっとした悩み事を母親に相談した場合も、ありのままの気持ちを汲み取ってもらえないどころか、どういうわけかすぐに父親に筒抜けになっており、見当ちがいの叱責や助言がと飛んでくるのが落ちであった。



「あんなに父のことを愚痴っている母が、なぜ私のささやかな相談事をすぐに父にご注進するの、本当に口惜しい思いがしました。それを母に言っても、ちっともわかってくれようとしませんでした。私の話をしみじみと聴いて、わかってくれたような気がするのは犬のトムだけでした。 大型犬で、犬小屋も大きかったので、私はそこへもぐりこんでトムに慰めてもらっていたのです。犬だからどういう風にわかってくれていたのかはなんともいえませんが、じっと私の顔をみてクーンクーンと泣き、 時には泣いている私の顔をペロっとなめてくれました。そんなとき、母も父もわかってくれないことを、トムだけはわかってくれているよ確かに感じました。」






…ちなみに、B子さんの「風景構成法」では、人物はすべて棒人間で、犬だけが立体的にしっかりと大きく描かれていました。


















 

■感情表現が世界へのパスポート


小さい子どもには自分の感情を感じ表現できる環境がなにより必要である。


自由な感情表現を身に付けた子どもは積極的に人と関わりたいという気持ちになり、さらに表現力やコミュニケーション能力を洗練させていく。


しかし、虐待的な環境にいる子どもたちは親から感情を押しつぶされ、
自由な表現を許されないためにやがて感情を麻痺させ
無表情で無気力、無感動といった状態に陥ってしまう。



そして、そうした子どもたちはやがて他者に対する関心をもつことができなくなり、
自分の感情をうまく表現できないために周囲の人々とトラブルを起こしたり、いらいらしてキレやすい傾向を持つと指摘される。


幼い頃より、他者から共感された経験が乏しい子どもにとって他者への共感をもつということはとても難しい。


自ら共感されてはじめて他者への共感が芽生え、
やがては人の気持ちをおしはかり、尊重することが出来るようになるのである。


このように考えると
子どもへの要求が”しつけ”として許容されるにはまず親が子どもの気持ちを尊重し共感し、安心感を与えることが大きな出発点となる。
他者に共感できず、感情の表現方法もわからない子どもは自ら判断し、行動を修正していくために必要な”主体性”という素地ができあがっていない。

最低限の主体性も育っていない子どもに”しつけ”といっても、それはただの、”おしつけ”でしかない。


子どもが親から怒鳴られたり、たたかれたりしたときに覚えた理不尽な思いは成長してもなかなか消えることは無い
しかし、そこで自分が受けた仕打ちを「理不尽だ」と受け取るのか「自分のために成ることだ」と受け止めるのかは、
ひとえに子どもの共感力、主体性にかかっている。














 

■共感を返してもらって心は形成されていくから…




子どもは誰でもそうですが、思ったことを、感じたことをそのまま表現します。
遠慮もしなければ、お世辞も言いません。

「ママ、ママ、あのね」と何かを話そうと思って母親に話しかけます。
「見て!見て!」と、自分の素晴らしい発見を周囲の大人に伝えようとします。



自己評価、自己肯定感を育てられなかった人たちとは、
こういうときに「忙しいからあっちに行って!」「うるさいわね!」と言われてきた人たちです。




さらには「そんなことで喜んじゃって」「そんなこと、大したことないよ」と言われてきました。
また、多くの親は怖いといって泣いている子どもに共感するどころか、「怖くない、怖くない。そんなに泣くようなことじゃないでしょ」と、その素直な感情を否定してしまいます。




何かが上手くいかなかったり、気に入らなかったりして、癇癪を起こしている子どもの腹立たしさや口惜しさに寄り添うのではなく、「うるさい、黙れ」と叱責します。


友達同士や兄弟姉妹の間でケンカが起きたときにも、「そんなことぐらいで騒ぐことないのに」と、根拠なく、よその子どもや年下の子どもをかばいます。
年上の子どもや我が子の感情はいとも簡単に無視されてしまうのです。



衣食住に困ることがない。
いつも美味しいご飯やおやつが用意されている。
申し分のない養育環境を整えてくれていても心理的には誰からも寄り添ってもらえなかった。
いつも1人ぼっちだった。味方がいなかった。




それが当たり前だったから、寂しいとも思わなかった…。
というよりも、自分が寂しいと感じていることさえ分からなかったし
寂しいということの意味さえわからなかった。



幼少期の虐待、暴力がなかったとしてもそこには見も凍るような無関心があります。

さらに、最も深いところにあるのが、人生の初期に母親との愛着関係が結べなかったことからくる傷と悲しみです。
母親に受け入れてもらえなかったという怒りです。




その傷に対して癒しを進めていかなければ、対人恐怖は軽減していきません。
親に共感してもらえなかった怒りや親を信頼することができなければ
悲しみは増していく。対人恐怖、というか人間が嫌いになる。
最も嫌いなのは自分。
何よりも明らかなことは「人が怖い」というのは、それほど深く傷ついてきた人だという事です。










 



■共感とは100%の肯定



では、共感できない親と共感されずに育った子どもたちについて考えて見ましょう。


辞書で共感を引くと共感とは他人や誰かの考えや主張に「そうだね」と感ずること、
他人と自分とが同じ感覚を共有している感覚を持つことにあります。

ここが分かりづらいのですが、「共感」と「同感」は違います。
「共感」は、あくまで相手がそう感じていることを認めること。
究極的には、「私はそう思わない。あなたとは違う考えだけど、あなたはそう思うんだね」と相手の気持ちや主張を認めることです。



相手と考えが違っても良いのです。



一方の「同感」とは、「そうそう。同じ!」と他人が持つ考えや感情が自分と全く同じだと感じることです。
同じ感情を共有できる相手と近くなった気がしますね。



でも、親子、夫婦、友人など、さまざまな人間関係において、私達に必要なのは「同感」ではなく、相手の気持ちを認める「共感」なのです。

たとえ、相手の考えや気持ちに100%納得できなくても、それは何の問題もないのです。





「親から見捨てられた体験」と言われてもピンとこなかったという方が多いかもしれません。

親から充分に「共感」されて育ってきたかと問われても、それがどういうことか分からないと言う方もいらっしゃるでしょう。


では、あなたは、自分の考えや主張を親から認めてもらってきたかと問われたらどうでしょうか。
あなたはそのときそのときの気持ちや感情を親から「あなたはそう思っているんだね」「そう感じているんだね」と認めてきてもらったでしょうか。


むしろ、「分かってもらえない」「言ってもムダ」と思ってきたのではないでしょうか?







実のところ、家庭で暴力があるなしに関わらず、
心の弱い人は、親から共感されずに育ってきているのです。
成人が近くなって心の弱さが浮き彫りになった人は、「問題の無い家庭環境で育った」と思っている人が多いのですが、じつは共感という心の形成の根幹を担う要素を与えてもらっていないのです。







 

 

 

■共感=「受け入れてもらえる存在なんだ!」




子どもは本来、自分の喜怒哀楽を親に共感して欲しいものです。

とくに、自分が嬉しいときには
親にも同じくらいたくさん喜んでほしいと強く願っています。
「おいしいね、楽しいね、よかったね」と共感してもらうことが子どもにとっては最高の幸せなのです。


ところが、親と喜びを分かち合うどころか不機嫌になられたりイライラされたりすると子どもは深く傷つきます。
自分の気持ちを踏みにじられ自分の存在すら否定されたと感じて落ち込むのです。

このように心に傷を負った子どもは二度と傷つくまいとして身を護ろうとします。


自分の幸せに嫉妬された子は親を不機嫌にさせないように自分の喜びを殺すようになります。


嬉しいとき、親に嫉妬されて育った子は自分が喜びさえしなければ親は不機嫌にならない、と考えます。


そのうえ、このような家庭で育ってしまうと
「自分が喜びを回避する=親から見捨てられない」という「契約」にとって結ばれる関係になってしまう。


そして、この契約関係こそが人間関係の基本だと認知し
全ての人間関係に応用してしまうのです。






 

 

 

■共感が信頼を築き、自信を生む



「そう、そうだったの。悔しいね」
「気持ちはわかるよ」
などの共感の言葉。

子供の話を聞くときは、ぜひ加えて欲しい言葉です。



この言葉で子供は「お母さんが話を聞いてくれた」という喜び異常に
「お母さんはわかってくれた」と感じます。


共感が出来上がると、子供はその後も、どんどん自分の気持ちを伝えるようになります。
共感が信頼と自信につながる。





















ーー後編




セラピストは、B子さんはもっと主体性を持てば、自分の人生を新しく切り開いていけるはずだと考えていた。
いつまでも親元にとどまっている必要はあるまい。
自分自身の生きがいを見出せば、身体症状や人間関係にこだわりつづけることもなくなるのではないか。


何とか彼女のそういう前向きの姿勢をとってもらいたいと思うのだが、彼女にはそうできない何かがあるのだろう。


それはおそらく、幼い頃、親から適切な共感的反応を得られなかったことに由来する「満たされなさ」にかかわりがあるのではないか。


満腹感を味わった子どもは、さっさと食卓のもとから離れていくのに、満腹感を味わえなかった子は、いつまでも食卓のまわりでグズグズしているようなものであろうか。




B子さんがセラピストに求めていたのは「トムのような母親」の役どころだろう。
セラピストは人間であるため、トムのように純粋にはなれず「至福のひととき」を共有することはまず無理であろう。
しかし、できるだけそれに近づく努力が必要であろうと考えられた。










***









B子さんは、幼い頃、親からの共感的応答を求めて得られなかったことで、
決して満たされて安定することのない「傷つき易い心」を抱えていきているといえよう。


それをかかえながら、表面的にはしっかりと取り繕い、それなりの矜持をもってやってきたといえる。

しかし、ある時点で息切れを起こしたからこそ、心理療法の場を訪れることになったり、
自分の満たされなさを言語化することになったわけである。

B子さんは、母親が自分に愛着を向けてくれいるとの安心を抱けずに生育したのだろう。
母親に自らの欲求不満という苦痛を受け入れてもらった実感のないB子さんは苦痛に持ちこたえることはできない

離婚したのもそのことが一要因にあるのかも知れない。

しかし、そんな脆弱な心で非共感的な両親の元では必死に苦痛に耐える自分を演じているのだ。



だからこそ、治療の場ではせめて、共感を得たくて仕方がないのだ。






強烈な共感欲求(≒肯定欲求→母性を求める)は幼少期に行われなければいけないものだった。
きっと、治療の場でどんなに優れたセラピストが共感を与えてくれたとしても、B子さんの共感不足は満たされることが無いのだろう。

どんな時代も、どんな裕福な家庭であっても、
子どもは、親との心の触れあいをあくなく求め続けているのである。


共感の数と心の強さは比例しているように思えた一例であった。




























<参考文献>
共感と解釈 成田善弘 人文書院
ちゃんと泣ける子に育てよう 大河原美以  河出書房新社

2013年4月15日月曜日

自己嫌悪は自分勝手な行為



自己嫌悪とは自分の罪をかみ締めることの出来る良心的な人間のように思えるが実は、
自分勝手で自己中心的な人間が行う行為だと思っている。



なぜかというと2つの理由がある。






一つ目は「悪かった」と思うことで許してもらおうとしている点だ。



「私が悪かった、私が悪かった、私が悪かった」と自分の世界に閉じこもって周りからの非難をシャットアウトしようとしているのです。


本当に反省をしている人は、自分が直すべき点についてもしっかり耳にいれ、自分の非を改善しようとする。


しかし、自己嫌悪という防御を行う人は、「私が悪かった」という免罪符を盾に、「何が、どう悪かったのか」ということを受け入れようとしない態度なのだ。





二つ目は、「自分が悪かった」という「反省している自分」で物事が完結すると思っている点だ。



たとえば、仕事で自分のミスで取引先に迷惑が掛かったら、現実な対処をしなければならない。
荷物が届いていなかったら、荷物とトラックの現在地をしらべて最短で届けるにはどうすればいいかと考えなければならない。
取引先の取引先が怒っているのなら、謝罪に向かわなければらない。

なのに、自己嫌悪に酔っている人は、こうした現実に困っている取引先のことをまったく考えられてない、
つまり自己中心的な人間なのだ。



自己嫌悪をしている人が自分を責めたところで、誰も喜ばないし何も解決しない。



やるべきことがあるのに「自分が悪かった」と思うことによって、全てが解決されると思っているのだ。

相手のために出来ることをしようとしないのもやはり自分勝手な人間の行うことと言える。













 


■怒ってしまう自分を責めても、何のプラスも無い



子どもをつい怒ってしまった後に自分を責めてしまう、という人は多いもの。
感情的に子どもを怒ることがよくないというのはほとんどの人が知っていますし、できればやりたくないことでしょう。
また、つい怒ってしまう自分は親として器が小さいと感じてしまうものです。

でも、自分を責めることは、実は何のぷらすにもなりません。
自分を責めるときには、「子どもに対して悪いことをしてしまった」と思ったりするので、あたかも子どものことを考えているように感じられますが、実はそうではないのです。



自分を責めてしまうとき、私達が見ている先は「だめな自分」だけ。
その間、現実の子どもにはむしろ意識が向かなくなってしまうのです。




子供は目の前にいるのに、
そのこを見てあげるのではなく、「悪い事をしてしまった自分」ばかり見てしまうのは寂しいもの。
親が自分を責めてしまうと、目の前に居る子供は取り残されてしまうのです。

子育てにおいては、「子供の現在を診る」ことがとても重要です。
そして、子供が見て欲しいのは、常に「今の自分」なのです。
つい起こってしまったときこそ、子供をちゃんとフォローしてあげたいもの。



どうすることが子どもにとって最もよいのか、ということを考えるためには、
「今の子供」を見てあげる必要があります。





自分を責めている場合ではないのです。








婚活における市場価値と自己肯定感の勘違い




◇ブランド品は所持者の価値を担保する?




(堀江貴文著 拝金)に次のような一説があったのを覚えている。


「女子高生のお前に価値があっても、お前自身に価値があるとは限らない」


JKブランド、あるいは若さ…そういうものに市場価値はあるのは間違いない。
ただ、それを身にまとっている女性に、必ず意思も価値があるとは言えない…

このことを理解していないと結婚活動の厳しさに飲み込まれていくことになるのだろう…










*****




AKB48でもスターになれるのですから、あなたの顔面偏差値でも十分プリンセスになれます。

なぜならば、男の人というのは、若くて、ちょっぴり可愛くて、あまりものを知らない、おっぱいのプリプリした女子が好きで好きでたまらないからです。一言でいえば、若い女子は、よっぽどのデブとかでなければモテます。まるで、巨大な蟻塚のそばに落とされたクッキーの欠片にたくさんの蟻たちが群がるように、あなたの股の間の秘密の蜜壷にありつこうと、たくさんの、本当にたくさんの男どもがあなたに言い寄ってくることでしょう。
http://blog.livedoor.jp/kazu_fujisawa/archives/51896854.html










ブスだけどやたら自信があって強気な子っているけど、大体親が勘違いさせてるよね。
親としては不憫さと責任を感じて?あなたは可愛い、すごいと言って育てたんだろうけど、不幸の上塗りですわ。










「勘違い」と「自己肯定感」の違いが判別しにくいのは本当に難点。

「市場価値」と「根拠のない自信(自己肯定感)」とは別物であるはずなんだけど本人も周りの人間も、その人がどっちを持っているのか判別できないからなぁ~













自己肯定感は社会的な評価(市場価値)に左右されない、「私はコレでいいのだ」「私には価値があるのだ」という存在の要になる心の姿勢。


この「私には価値があるのだ」ということと、自己を客観視して「私の市場価値は、このくらいだろう」ということの違いに気づける人と気づけない人の差は…
やっぱり、不憫に思った親が子どもの頃から「あなたは絶対にかわいいのよ」と、客観的な評価を寄せ付けないように娘の心守ってきた(つもり)のだろうか??












*******









39 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2013/04/12(金) 11:07:33.20 ID:oxFpdynP0
某結婚コンサルさんの講演会に参加したけど、帰りはみんな目が死んでたわ。
その時の話の内容がだいたいこういう感じ↓↓
 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
女子力とか仰ってる女性の、何が大きな間違いかと申しますと・・・
女子力を磨くのは「女子」のうちにやっとかないと無駄ってことに尽きるんです。
 幼少期から学生の間に、お稽古事や勉強をしっかりやっていれば「女子力」がつきます。


だけどいい歳になって「女子力磨き」なんてやっても、
それは「オバサンの厚化粧」と同じ意味なんですよね。
そんな無駄な努力をするよりも「良い歳のとり方」に力を注いだ方が、よほど美しく生きられるんです。


アラサーにもなってネイルだエステだのと必死になっても、それは内面の醜さを増すだけで、
 外見も、これは自己満足を楽しむ分には宜しいのですが、男性諸氏には醜悪としか映りません。
 昔着てた服を自分で上品にリフォームしてみるとか、
 派手な化粧をやめて、自分の年齢を受け入れた自然なメイクを心掛けるとかした方が、
 男性婚活者が結婚相手として認めてくれる可能性は格段に高くなるんです。


わかりますよ、みなさん私が古い考えなんじゃないかと思ってますよね?
しかしこれは婚活の現場で私が日々見ている最新の傾向なんです。


テレビや雑誌では、ほぼ真逆のことが言われてますけれども、
それは、言っちゃ悪いですけど、商売のための宣伝広告であって、
 婚活女性のためを考えたアドバイスじゃないんですよ。


 「最新」とか「正しい」とかいう情報は現実の男性にあるのであって、テレビや雑誌には無いんです。
そういった事をよく考えて、みなさんの婚活に対する姿勢を考え直してみてください。







43 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします


今年45才になる独身女です。
いつかは人並に恋愛をして結婚するものと思っていました。
それなのに一体どこで道に迷ったのか、ズルズルとこの年まで独り者です。(苦笑)
 幸い仕事には恵まれ、老後の経済的な心配もありませんが、
 妊娠・出産・育児を経験出来なかった事は、今でも悔いが残ります。


 敗因は、「身の程知らず」「傲慢」「狭量」。

 理想は高くない、と言いつつ結局「身の程知らず」
 若い頃、男性に媚びる(当時はそう見えていた)適齢期の友人達を蔑視し、
 「ありのままの自分」を貫く事に固執。
それがいかに「傲慢」であったか、この年になってやっと分かりつつあります。
 女としての魅力もない癖に、男性のちょっとした弱さが見えると バッサリ斬り捨てる「狭量」さ。



 男性優位に激しく抵抗しつつも一方で
(私の相手の)男性には全て私より優れていて欲しいと願う矛盾。
 共に手を携えて生きていく伴侶、と捉えられなかったのは私の方でした。
 男性達も馬鹿じゃない。
こんな私を選ぶ訳がない。
 私から見れば、皆さんはまだお若いです。
どうか同じ轍を踏まれぬようお祈りします。







9 名前:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします[] 投稿日:2013/04/12(金) 10:56:13.72 ID:bbAWXo8Q0
若いうちの、アホ男からのチヤホヤが、デフォと思い込んで生きてきたアホ女は詰む

http://blog.livedoor.jp/news23vip/archives/4436454.html




2013年4月13日土曜日

フェミニスト誕生の1事例の展開



「男になんて期待しちゃ駄目。男のやることにいちいち傷ついたりしちゃだめ」
「男に人生を左右されたりしちゃだめなんだよ」

(砂の上のあなた 白石一文) 


http://www.amazon.co.jp/%E7%A0%82%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AE%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F-%E7%99%BD%E7%9F%B3-%E4%B8%80%E6%96%87/dp/4103056525









 

■自立した女性に憧れる。精神的にも経済的にも。


お金が無いという理由で男に縛られる。
そういう女性にはなって欲しくない。
結婚はいつでも離婚できる準備が整ってから、するべきだ。







母親は専業主婦だった。私が小学生になったころからはパートだった。
金銭的に不自由をしていたわけではないが、
母親は、父にお金と言う鎖で縛られているように僕には感じられた。
お金さえあれば、経済的自立さえ出来ていたなら、
母親は苦しんでいるように、生活をまもるためだけに、
自分を殺して父親からの支配を逃れたのではないか。

そう思うと、母の忍耐力は素晴らしいと尊敬しつつも
世の中のこれからの女の子には
母のような女性にはならないで欲しいという思いも在る
だから、自立した女性が生きやすい=憧れるのだ。


対照的に、台所に居るときは母親をやっているわけで
子どもとしての期待が捨てきれない。
そして母親を思う。
だけど母親は娘がいないかのように作業にふけっているだけで
なんの交流も生まれない。

その状況では、娘には自分の気持ちを体験する余裕なんてない。
身体だけ、そこにあるっていう感じの母親をみて、
ほんとうにこころを持ちながら生きているのかどうか不安になったのかも知れません。


愛情の無い夫にお金(あるいは世間体)で縛られていた母に強烈な同情と哀れみを感じていたことが、
俗に言うフェミニストを生み出す一つの背景なのではないか?と自分の経験からは思っています。














 

 

■仕事という言い訳を盾にする父



母に同情とペアになるのかもしれないが、父は家庭には居なかった。
いや、居るんだけど、居ない。


仕事をしていないと人間としての価値がない。
仕事をして、給料を得てはじめて、社会から承認されると思っている。


男の子は身近な男性をモデルにして
アイデンティティを形成する
知らずに、仕事以外には
何も無い、仕事をすることで人間としての情緒的な交流を回避しようとする生き方を
取り込み、踏襲していた。


父は仕事人間だった。
いや、仕事が好きワケじゃない。仕事を真面目にするという生き方以外に
何もすることがなかったのだ。
そして、人間的交流を避けていた。人間と会話を嫌っていたわけじゃない。
ただ、情緒的な交流が全く行われていないのだと思った。

父親を嫌いつつも、そういう価値観を受け継いでいる自分が怖い。











 

■所詮は支配された選択



大学ではなく就職をしようとしたとき、
「私は大学に行かなかったから、同じ思いをさせたくない」と言われた。

嬉しかった。


だけどよくよく考えてみると、自己愛の補填だったのかも。

自分が出来成ったことを預けられただけで
僕がなぜ進学ではなく就職したいのか、全く汲み取られていなかった。

親の大きな期待というのは
親の自己愛、とくに傷ついた自己愛、の再生である。
それゆえ、親から投影された自己愛をひきずったまま思春期。













 

■我が子を不幸にするために生まれさせたくない





親が生活を持続するための仕事、生活を送るために必要な資源を得ることに生きることに必死だった反動なのかおかげなのか生きることを常に考えるようになった。


生活の糧を得ると言う意味での仕事は尊敬に値するくらい熱心だったが
親として、一人の人間として、生きること(難しいけど心の満足と言うか)の仕事をしていなかった。



仕事と言う自分と向き合わずにただただ働くだけの姿を見てきたせいもあるかもしれない。



生活と言う仕事は完璧だったかもしれないし感謝をしている

ただ変わりに温度のある人間関係の仕事をまったく受け継げなかった。
温度のあるものに触れなかった、とも言えるかも知れない。。





結局、結婚にポジティブなイメージがないのも
子どもを全くかわいいと思えないのも、
そのくせ、たまーに強烈に子どもが欲しくなるのも
後遺症なんだと思う。しょせん、投影同一化によって本当に助けたいのは
子どもの頃の自分って事。












 

 

 

■but I never had you,




Mother, you had me but I never had you,
I wanted you but you didn't want me


子供の頃から 母親という人に親密な感情を覚えたことは無かった。
我がままを言ったり甘えたりした記憶もない。

いや、物質的なことについては望みを伝えて事はあったかもしれない。
ただ、人間的交流を求めた記憶は皆無。


私にとっては決して気を許すことのできない常に緊張を強いられる存在だった

もちろん献身を疑ったことはない
むしろ人並み以上に構われたほうだと思うくらいだ
母親の落胆した顔を見ると幼いながらに罪悪感を覚えた。



期待に添えないことで自分を責めてきた
多くは無意識だったのかもしれない
しかし本人に自覚がないだけ かえって抜け道が無かった


子どもという存在が苦手なのも、
自分が子どもを産むことに関心がないのも、
とどのつまりは長年にわたって両親の不仲を見せ付けられてきた
後遺症のようなものなのだ、と私はそのときにはっきりと 悟った。









 

■子どもを自己愛の道具には絶対しない




>>
「子育ては親育て」などと言われていますが、私は「子育ては親の癒し」だと思っています。
多くの親にとって、子どもとの関わりは無条件の愛情を与えてもらう、人生で初めての機会となるからです。
実は、子どもを持つということは、自分を無条件に愛してくれる人を持つということ。
子どもは育っていく存在であると同時に、不完全な親を見守ってくれる愛の存在でもあるのです。
<<
(怒らない子育て 水島広子 青春出版社)



子どもを嫌うのも
過度に子どもを欲しがるのも結局は後遺症なんだよね。

子どもを作って幸せにしてあげようとするのは
一見、種の保存の本能を持っている人間として健全だけど
なんだかんだで投影同一化なんだよね。
子どもを幼い頃の自分に見た立てて救ってあげようとしているだけ。
本当にその子どもの望む幸せを援助してあげようという気持ちじゃないし
子どもを機制として利用して産むんだからどんなことがあっても
幸せを応援してあげることは出来ないんじゃないかな。

「心を守ってもらえない家系」は連綿と…








ーー症例

23歳女性
(統合失調、躁うつ、摂食障害、OD、共依存etc)
の自殺未遂から一夜明けての自己分析、の一部から症例分析。



















****



昨夜、自殺未遂を致しました。

ハルシオンを数十シート、レキソタンも数十シート、エビリファイ1シート…。
それをお酒で流し込みました。


死ねないって解って居たから、煙草喰べて、お餅が有ったのでこれだ!と思ったが父親に留められた。


9階から飛び降りるのが確実だな、と想い飛び出そうとしたら止められ施錠された。


初めての彼氏はDV。
毎日殴られ蹴られ首絞められ、過剰な束縛、無理矢理の性行為、など…。
別れを告げたらストーカー化されました。


毎日学校や家の前で待ち伏せされ、インターホンで死んじゃえ!と叫んだら次の日ナイフを持参し、だったらお前が殺せと言われました。 だけど出来なくて、逆に私が殺されそうになりました。

最期にはレイプをされ、中に出され、絶望。






アフターモーニングピルで妊娠は免れましたが、レイプがバレて母が言い放った言葉…
“その程度で済んで良かったじゃない”


その程度…?
どんだけ辛かったか解ってんのかよ…。
殺されて居た方がマシだった。










両親のW不倫が発覚した。
毎日喧嘩の嵐。
家の中滅茶苦茶だったり、父親を締め出したり。

私は免疫有りそうだったからと云って証拠の品全部見せられて。
「あんたが居るから離婚が出来ない」とも言われました。
とてもショックだった…。



母も母で、メンタル気質があると思うのですが、それは人を攻撃する形でしか…。
と、父は優しいし理解のある人なので言ってくれました。


母にも通院を勧めて下さると幸いです…。





母親も私と同じ育てられ方をされてきたらしく、泣きながら御免ね…と云われました。
虐待の連鎖。





私には遠距離の彼氏が居るのですが、共依存に陥っています。
彼氏もメンタル持ちなので…。
壊れて仕舞わないか不安。


そして私はセックス依存症で、誰かと繋がっていたい…愛されていると感じたい…
例えそれが、偽りの愛だったとしても。





セックスではないと愛情を感じ取る事が出来ないのか、過去に不特定多数としてしまいました…。
今は遠距離だから出来ませんが…。

昨夜、私は自殺未遂をしました。
強迫観念にかられて、何かしていないと落ち着かない、同じく病んでいる人の話を聞いて同調してたら堕ちちゃったみたいで…。

同時に親を殺そうとしたらしく、…覚えてないのですが、だったら私が自殺するね、と言い薬とお酒いっぱい飲んで、煙草そのまま喰べたりしていました…







****
















■親子の境界線の破綻



親との子の境界線が引かれていないと、子どもが背負うべきでない荷物を背負うことになる。

親が子どもと、まるで友人や仲間であるかのような関係をつくることがよくあります。
子どもを自分の同盟相手とみなすということは、親子の境界が存在しないという事です。
そして、子どもの年齢にふさわしくないことまで知らせてしまうのです。

不適切な情報を与えられた子どもは重荷に感じ、罪悪感さえ味わうこともあります。
これはフェアではありません。
10歳の娘に「あなたのお父さんは浮気をしたのよ」と話すことは、
子どもの安全を損ないます。

また、「お前が居るから離婚できない」というのは、子どもからしたら理不尽極まりない理由ですが、子どもは大人の世界の事が分からないので「私が存在していることがお母さんを不幸にするんだ…」と何の罪も無いのに強烈な罪悪感を植えつけられてしまう。




境界のゆがみや混乱が起こっていたり、はっきりした境界が存在しませんでした。

それは見捨てられ体験を引き起こす元にもなります。


母親はそのことを誰かに話す必要があるかもしれませんが、
その相手はおとなとしての能力があって適切なサポートや助言が出来る人であるべきです。










 


■被害者なのに責められる心のダメージ




トラウマ体験後の様々なかかわりの中でさらに傷つけられることを
「二次被害」「二次トラウマ」などと言います。


典型的な例としてはDVの被害者が
「もう少しご主人を立ててあげればよかったんじゃないの」
「あなたが相手を怒らせるようなことを言ったのね」などといわれてしまったり、
性被害に遭った人が「これからは遊びを慎むことだね」などといわれたりする、というものがあります。


すでに「自分、身近な人、世界への信頼感」を見失っている人にとって
自分が傷ついてなお、さらに傷つけてくる人がいる世界はとても危険な場所だと感じられます。


また、何と言っても本人の罪悪感を刺激するようなことを言われると
「自分への信頼感」が粉砕されてしまいます。
相手が言っていることにこそ真実があるように思えてしまうのです。



うつ病や摂食障害などの場合には病気になっているということくらいは
わかるかもしれませんがそれがトラウマに関連したものだとはなかなか気づかないことも多く「治りが悪い」ということになってしまいます。


また、病名はうつ病や摂食障害であっても
トラウマに特徴的な症状がいろいろと出てきます。



(対人関係療法でなおす トラウマ・PTSD 水島 広子 創元社)より





 











■「我慢できている自分」を感じさせてくれる相手



虐待されて育った女性はDV夫を選ぶことがよくある。
また、人から「必要としている」と言われないと、
ただそこにいるだけで自分が嫌われていると感じてしまうことがある。



普通の人が当たり前のように思っている善いことが彼女にとっては悪い事である。普通の人が
「なんでそんなバカなことやっているの!」と思う生き方が彼女にとっては善い生き方である。



こうした善宅が逆転した心理システムが出来上がってしまったのは
小さい頃から親に否定され、「悪」しか体験できなかった結果である。


(暴力を振るわれること、相手に従うこと、相手の理不尽さ、感じている辛さを「我慢」することが 被虐待者にとっては生きる指針である。その指針を達成するためには、自分を我慢させる相手が必要。だからDVをしてくれそうな男性を受け入れてしまう。我慢することが生きる指針である彼女は”我慢する自分”を感じさせてくれる相手を呼び込んでしまう。)




目の前にいる親は、暴力を振るい、ご飯も出してくれないことがある悪い親である。
でも、子どもはそれ以外の親を知らない。
自分が生き延びていくためには、その親に従うしかない。

人は誰でも生きていこうとする。
そのために必要な事をするのが「善」である。
だから、子どもにとっては目の前の「悪い親」に耐えることが「善」であり、
その逆に、耐えられずに逃げ出すことが「悪」ちなる。

悪に耐えることが「善」で、膳を求めるのが「悪」である。
こうして「普通の」人と善悪が逆転する。

善悪が逆転した心理システムに生きていると、悪に耐えていると心は安定し、善を求めると不安になる。







「悪い子」と言われると、悪い子に育つ






◇暗示はどっち側にも響く


親から「あなたは良い子ねぇ~」と言われて育つと、良い子で居ようとする。
良い子というラベルを親から貼ってもらったから、そのラベルに合わせて「良い子の自分」という中身も作り上げていく。
(ただし、良い子でいるために子どもとして自然な欲求を抑えてしまう危険性もある)


そして、「良い子ね」といわれ続けた子が「良い子」であろうとするならば、その逆もある。


ばかみたいな話ではあるが、
「あんたは悪い子ね!」といわれ続ける子は
「悪い子の自分」を保つために、「悪い事しての振る舞い」をして、「悪い子」という評価を与えてもらって自分を「悪い子」として固定化しようとしていく、、、らしい。。













 

 

■否定的な言葉ばかりかけない





多くの子ども達に自己肯定感が無い。
「自分なんて嫌い」という。

何が子ども達をそこまで追い詰めるのか。




その原因で最も大きいのが、「子どもに否定的な言葉ばかりかける親」の存在です。

「どうしてあなたは○○できないの!」「何度言ってもわからない子ね!」「あんた、バッカじゃいの!」
とどめが、「あんたなんか産まなきゃよかった!」


親から繰り返し言われる否定的な言葉は催眠術のような効果、つまり暗示効果があるのです。




だから、「どうして何度言われてもわからないの?」と親から言われ続けると、
子どもは「そうか、自分は何度言われてもわからない子なんだ」と暗示がかかって、
そのとおりに、「何度言ってもいう事を聞けない子ども」になってしまいます。


「バッカじゃないの!」といわれ続ければ、子どもは「そうか、自分はバカなんだ」と思い、
勉強をしなくなってしまうかもしれません。



親としては何気なく言った言葉かもしれませんが、子どもの心にはダメージが蓄積されていくのです。










 


■「悪い子の自分」という役割で安定


「男の子は身近な男性をモデルにしてアイデンティティを形成する。
 で、息子さんがモデルにするのが怒りの矛先を自分に向ける彼の自虐的なスタイルですよ。
 それはつまり、悪いことをして叱れる、という今の息子さんのスタイルと裏腹な関係にあります。」
「息子さんはすでに叱られるためにあえて悪いことをする、という大人との自虐的な関係性の中で生きているんです。
 恐らく息子さんは「僕は叱られる子なんだ」という自己信念を作りかけている。」






「うーん、叱られるのは、イヤだと思うんですけど…」





「ううん。息子さんは叱られるのが当たり前だと思っているんです。叱られることによって安定する。
 叱られて、泣いて、親や教師に「おまえはうそつきだ」と何度も念を押されて「僕はうそつきだ」と再確認する。」
「そして、そういう不安定さのなかで安定してしまう。」








「でも、叱ると泣いたり起こったり、とても安定しているようにはみえないのですが…」









「もちろん、安定には見えません。 ”するなするな”と言われ続けると、
  その”するな”といわれたことに対して、自分はするんだ、する子なんだと自分に言い聞かせていることになる。」
「嘘や悪いことを”するな”と言われれば言われるほど、禁止されたことを能動的にやるかのように繰り返す。」











「うーん、その「するな」といわれていることが反転してしまう仕組みが、いまいち分からない。」









「日々、怒られる。で、この「繰り返し性」が強化されていく。」
「”自分は悪い子”なんだ、”自分はうそつきなんだ”という自己像を補強していることになります。」








「その自己像は学校で”うそつき”と言われることでも補強されてしまっているんですか?」





 
「そうです。嘘つき、といラベリングをされると自分でもそのラベルを見ちゃうんです。」
「”あぁ僕は「嘘つき」なんだとね。”」
「で、半自覚的あるいは無自覚的に嘘つきな自分を証明するかのような行動をとらざるを得なくなる。」

 
 




「どうして、嘘つきのラベルが嫌だから、嘘つきのラベルを剥がそうとしないのでしょう?」





「いったんラベリングされると、払拭できるものだという発想が生じにくい。
 子どもは、貼られたラベルが正しい、と納得するしかない。
 そのラベルを疑わないまま成長すると 大人になっても同じことが起きるでしょう。」


(ファミリー・シークレット 柳美里 講談社)









※特に料理上手なわけではないのに、美味しいと褒めてもらえると、「わたし美味しい料理作れるようになる!!」と誓う。女も単純です。

メンヘラ的パーソナリティ障害としての憤死



◇飛び降りることでしか処理できない心の脆さ




124: 1 ◆ve57CRP6vE   2013/04/06(土) 02:25:50.80 ID:6bierxtci
ポプ子に問いただすと。
 死なない。
 大丈夫。
 元気になる針治療。
 構ってくれないから。
 職場にも電話した。
 職場先の人は悪いやつ。
 話も取り合わないし声も聞かせてくれない。
 以下省略。
すべて真顔でいってた
 こまけぇことはいいんだよ!
って言いたいけど全然細かくない。
 大事過ぎる。
 何故なら後日談で職場の部署が変わったのは変な女から毎日電話来るからお前を異動させたとのことwww
 洒落にならんww



129: 1 ◆ve57CRP6vE   2013/04/06(土) 02:32:42.33 ID:6bierxtci
その日を決意に別れようと思いタイミングを見て話を切り出した。
その話をした途端にポプ子は
 ポプ子「フゥフゥフゥ………」

 俺「って言う話でさすがにそれでは付き合えないの…わかる?聞いてる?」

ポプ子「フゥフゥフゥ…キィヤァアアアア~」

ポプ子はその日どっか行った。
 俺はあとを追わなかった。
 次の日仕事もあったのでチェーンをかけて寝た。




148: 1 ◆ve57CRP6vE   2013/04/06(土) 02:45:05.36 ID:6bierxtci
んじゃ再開ー
布団について2時間くらいしたところで扉がドンドンと鳴り
最初は何故か無視をした。
どうせポプ子だろ?
っと思い布団にうずくまった。
しばらくしてドンドンドンとしつこくなり、つい勢いで「ハーーーイ!」
と返事した。
しまった!っと思った瞬間に「夜分にすみません〇〇警察です!俺さんのお宅ですか?」
っと言われ慌てて家を出た。



158: 1 ◆ve57CRP6vE   2013/04/06(土) 02:52:35.06 ID:6bierxtci
警官「〇〇ポプ子さんをご存じですか?」
 俺「はい。」
 警官「ポプ子さんがこちらのお宅にお住まいでしたか?」
 俺「はい。」
 警官「先程泣きながら何度も相談に来られたんです。こちらの住所を言って。それで警察署の近くで飛び降りまして…」
 俺「はい?」
 警官「いいですか?落ち着いてください。ポプ子さんが飛び降りたんです。」
 俺「え…」




159: 名も無き被検体774号+ 2013/04/06(土) 02:53:08.86 ID:gUO+SZNV0
ポプ子「I can fly」


166: 1 ◆ve57CRP6vE   2013/04/06(土) 03:01:42.76 ID:6bierxtci
>>159
お前ら…


163: 名も無き被検体774号+ 2013/04/06(土) 02:57:53.24 ID:XBRqbz8W0
ポプ子は「そらをとぶ」をおぼえた


166: 1 ◆ve57CRP6vE   2013/04/06(土) 03:01:42.76 ID:6bierxtci
>>163
お前ら…


164: 1 ◆ve57CRP6vE   2013/04/06(土) 02:59:00.80 ID:6bierxtci
俺は警官に聞いた病院に急いで病院に駆けつけた。
どうやらODしてI can flyした模様。
 意識は飛んでいたが命に別状はない模様
なんでかわかった。飛び降りたの二階だったらしいwww
この時死ぬ気ないだろって思った。
 警官に話を聞くと俺のうちの住所と仕切りに辛い話をしていたそうで警官も相手にせず帰らせた所飛んだらしい。
しかし電話番号もわからず困っていたところ一部警官が取っていたメモから住所を辿って来たらしいそうです。
その後ポプ子入院


168: 名も無き被検体774号+ 2013/04/06(土) 03:02:31.91 ID:XBRqbz8W0
>>164
死ぬ気ないな
 ただのかまってちゃんだ


175: 1 ◆ve57CRP6vE   2013/04/06(土) 03:08:40.57 ID:6bierxtci
>>168
そうみたいね
 でもODとなんでもコンボするのはやめてほしい


http://matomade.2chblog.jp/archives/26430691.html)より











■死にたいのではなく感情処理の方法


「別れが悲しすぎて生きているのが嫌になったのね」



「ううん、それは違う。悲しいと言うより、腹がたった。
 死ぬつもりはなかったけれど、飛び降りでもしなきゃ、おさまりがつかなかった」
「裏切られて、腹が立って腹が立って、まあ、腹が立ったんだよね。単純に」
「生きるか死ぬかなんて、本当にどうでもよかったの。
  ただあの瞬間、身が焼ききれそうな怒りから逃れればよかったの。」




いまわかった。
佳穂の飛び降りこそ憤死だ。


大した理由はなくてもいい、
ただひたすら純度の高いわがままと、神々しいほどの激しい怒りが巻き起こす死が憤死だ。

死は腹立ちのおまけにすぎない。



(憤死 綿矢りさ 河出書房新社)より










 

■心ではなく行動で処理をしようとする病


Aさん(30代、女性)は
過食嘔吐、手首自傷、大量服薬等の自己破壊的な衝動行動を主としたパーソナリティ障害者である。



Aは、母親が自分に愛着を向けてくれいるとの安心を抱けずに生育した。
母親に自らの欲求不満という苦痛を受け入れてもらった実感のないAは苦痛に持ちこたえることはできず、衝迫的に具体的な形でそれを排泄することで、即座に欲求を満たそうとするようになった。



パーソナリティ障害は「病的行動を繰り返してしまうこころの病」と言い換えられよう。
それはまた「こころに留めておけない感情や思考を行動によって積極的に排泄する病」と表現することもできる。
パーソナリティ障害を持つとされる人たちは、みずからの不愉快な感覚ーー抑うつ感(罪悪感・悲哀感)や迫害感ーーをこころのなかに留めて自らのものとして容れ、触れ続けることができない。



それらの感情は、精神病のように崩れかかっている精神から漏れ出してしまうのではなく、その人によって心から”積極的に排泄され、その人のこころとの関係を断ち切られ、こころに戻ることを断固拒絶される。




Aはこうした内的状況ゆえに、母親との現実的な分離はAを混乱に陥れ、
その極度の心的痛みは頭痛や吐き気として排泄され、さらには母親との決定的な分離を回避するための自傷・自己殺害へと拡大していった。


そこには心的苦痛の排泄としての身体の痛みによって、母親の関心・愛着をひきるけることができるとAがとらえていた二重のもくろみがある。

すなわち、心的苦痛を即座に排除するあり方こそが
愛情を感じることのできる方策となっていたのである。



(パーソナリティ障害の精神分析的アプローチ 松木邦裕・福井敏  金剛出版)より

2013年4月10日水曜日

「あなたの評価」よりも優先すべき存在が…




若年妊娠の子が「母親学級受けたくない」と話してて、
理由をきくと「『あの子遊んでたからこんなことになって』という視線が辛い」。
虐待なんかの話題では「子ども産む資格のない鬼母」扱いされるわけだけど、
こういう子を孤立させて支援から遠ざけていくのは社会そのもの。




という文章を読んでの感想。










◇自分の評価 > 子供のために生きる


確かに、社会的な風潮として「10代そこそこでの妊娠」=「遊んでいて節操の無い女性」とみなされることもあるだろう。
そういう社会的プレッシャーが母親になるために必要な準備から女性を遠ざけてしまうと言う面は否定できないだろう。

しかしながら、今回、疑問に思ったのは「周りの視線が辛い」から「母親学級受けたくない」という女性側の傲慢さだ。
「あなたが周りから同評価される」かよりも「生まれてくる子どものために学ぼう」という自己犠牲のような感覚を持たなければ、いけない段階なのではないだろうか?

我執をしている場合ではない、のだと思うのだけれども…







 

 

■自分より大切にすべき存在が出来たんですよ?


そんな、「あなた(母親)が周りからどんな風に思われているか?」なんてことよりも、「生まれてくる子のために学べることは学んでおこう」っていう思考にシフトできなければ、子育ては失敗に向かうんじゃないだろうか。「この子の為になるなら私への周りの声なんか気にしない」くらいじゃないとさ。


人間は「自分がある程度満たされていなければ、他人に尽くすことはできない」のであるから、本来は、ある程度、
自分自身が満たされたから、妊娠出産を迎えるべきなんだけど、現実問題として、この母親の場合は妊娠しているのだから、たとえ自分に満たされていない分があったとしても、それを一旦脇において、子どものためにできることを考えていくべきなのだ。


極端な話、「私の事なんかどうでもいいからこの子を幸せに育ててあげよう」という感覚が芽生えなければいけない段階であるのに、この母親は未だに「周りの視線が怖い」と、自分自身に対する評価の方を優先して、母親へのステップ(つまり子供中心の生き方)を放棄しようとしているのだ。









 

 

■自分を捨てる覚悟が培われているか!?


「周りの評価を気にする生き方」っていうのは、
そんなに簡単には是正させることはないだろうけど、それでも親になるんだったら、自分の評価よりも大切にしなければならない事があるんだ。

「遊んでいる女」という烙印を押されたとしても守っていかなければならない存在があるんだ。


「自分の事を捨てる覚悟を出来るくらいに満たされてからでないと、母親になるステップを拒む」のであれば、
やはり10代での妊娠出産は避けるべきという結論が出てきてしまう。

とはいっても、「自分がいかに幸せになるかが生きている意味」という人間は、いつまでたっても、
自分を捨てるという事を出来るようにはならないと思いますけどね。








 

■他人が気になる貴方へ

「周りを気にしすぎる人」っていうのは周りの思考を悪い方向に妄想して勝手に落ち込んでいるんだ。
「私の事を悪く思っているに違いない…」っていう根拠のない確信を持っている。


でもね、他人は他人の事なんか気にしてないんだよ。びっくりするぐらい、あなたの事なんか眼中無いんだよ!
他人の事など全然どうも思ってなくて自分の事で頭が一杯なんだよ!!


といっても、「他人の顔色をうかがいながら生きる」という生き方は、簡単には是正できないので適切な治療が必要なので、本を読むでもいいしカウンセリングを受けるでも良いので、「他人に嫌われないために生きる」という苦しい生き方パターンを手放してください。



※「自分に自信がない人」は「他人の評価を気になりすぎる」傾向にあります。












2013年4月9日火曜日

真面目=柔軟性が無いだけ





真面目というのは他人を疲れさせる。ただ頑固ということだから。
(不自由な心 白石 一文 角川書店)










 

■他人と融合できないと孤独になる



真面目な性格とは、響きはいいですが、真面目すぎるのも問題です。


まず自分を苦しめることになります。
人によっては他人にそのまじめさを強要して、つきあいにくい人と思われてしまうこともあります。


自分のすることに手抜きができなかったり、すべて完璧にこなさなければ気がすまなかったり、
自分の決めたルールで自分を縛って苦しくなったり、決して良い面だけではありません。



しかし、仕事や勉強では、まじめな人は一生懸命しますから、ある程度いい成績や成果は出せることでしょう。

約束の時間や期限をきちんと守り、友達の約束も果たしますから、人からも信頼されるし、いい面もたくさんあります。
長所と短所は表裏一体なのです。


しかしならが、人間は分かっていても正しさを実行できない場面に多々直面しながら生きていくものだ。
真面目(ルールや道徳に忠実)な人は、他人の弱さ(ルール道理に生きれない人間)を許せないので他人から距離をとられてしまう。
そして、なにより自分に厳しいルールを課しているから安らぎを得られない。






 

 


■真面目というトラウマ


30代の男性、栗太さんは暴力的な父と兄の下に育ちました。

母親は父の暴力から逃げ出しており所在も不明でした。
自分たちを捨てた母親を憎んでいた。


父は経済的な安定だけは与えてくれましたが家では飲酒しており
気に入らないことがあるとすぐに手が出ました。

兄も父にとても似ており父から暴力を受けると
その鬱憤をそのまま栗太さんに向けてきました。




兄に殺されるのではないか、と思ったこともあります。
栗田さんは警察官になりました。
正義を行う仕事がしたかったのです。



組織の規律は厳しかったのですが
栗田さんが生き抜いてきた家庭環境からすればどうということはありませんでした。



警察官という仕事には栗田さんは、全般にうまく適応したと言えます。
問題が起こるのは、より個人的な関係においてでした。






もっともうまくいかないのは女性との関係でした。


栗田さんは温かい家庭を持ちたいと思っており
強い結婚願望を持っています。


相手に全般的によく尽くすのですが
少しでも相手の行動に自分への愛情を疑わせるような点が見えると怒りが爆発してしまうのです。


たとえば、栗田さんが嫌っている他人の事を
「でも、あの人もなかなかよいところがあるわよ」などと
言われた程度で恋人を殴ってしまうこともありました。



また、全体に嫉妬深く相手が何をしているのかを
いつも知りたがりました。

メールをしてすぐに返事が無いと浮気でもしているのではないかと思い、
応答があるまで何度も電話したり、相手の家の前で帰宅するまで待って居たりしました。


そんな彼の様子を最初の頃こそ「愛情の強さ」と感じてくれる相手も
だんだんと不気味さを感じて交際を続けられないと言うこともおおいのですが 
栗田さんは「別れたら翌日の新聞を見れば、俺の事故死のニュースが載っているだろう」
などというので相手も別れにくくなってしまいます。




それでも別れる相手には
「お前がどれほどひどいことをしたか、一生忘れるなよ」
などと脅すようなことを言い、
あいてをますます怯えさせてしまうのです。







***



栗田さんは仕事においては問題なく社会適応は良好です。

しかし、親しい関係を作るうえでは大きな問題を抱えています。
いわゆるDVタイプです。


全般物事をはっきりさせたがるタイプで
それが警察官という職業には適しているとことがあります。

しかし、人間を敵か味方に識別する考え方は
親しい関係には不向きです。




栗田さんは相手が自分の味方だと思っているうちは尽くすのですが
ひとたび「敵」を感じさせられると態度が豹変します。


また、敵かどうかを知るためには
相手がぎょっとするほどしつこく迫るのです。

これらの「敵か味方か」「善か悪か」という二分法が
自らのトラウマを反映したものだと言うことに
栗田さんは全く気づいていません。
栗田さんは自分が育った環境が劣悪だったと言うことは
よく承知していますし、
だからこそ温かい家庭を築きたいと思っているのですが
自分の感じ方や行動パターンにトラウマの影響が
これほど現れていると言う自覚はありません。



敵か味方かをはっきりさせる自分のやり方が極端だとは思っていませんし
そうしなければ、この世は生きていけないと信じています。


栗田さんのこの感じ方のずれは
そのまま、彼にとって、世の中は依然として「戦時下」だということを示しています。


確かに彼が育った環境は「戦時下」と呼ぶのにふさわしいところでした。


そのときに作られた症状を無自覚なまま引きずっている彼にとって
人間は全般に信頼できないものだけれども自分の味方であることを
あらゆる面で明らかにしてくれる人だけが味方なのです。


自分が嫌っている人間の事を
「でも、あの人もなかなかよいところがあるわよ」などというのは許されない利敵行為であり
そんな人を自分の私生活に置くことなどはできないと
感じられてしまうのです。



「あまりにも狭量」と感じられる栗田さんの言動も
こうしてトラウマ症状として考えると理解可能なものになります。

2013年4月6日土曜日

自己肯定感が高い人の共通条件



○総論

自己肯定感=自分を愛する能力

自己肯定感=根拠の無い自信


自己肯定感が根付くには…
前思春期という社会的な評価を受ける段階の前までに、いかに、その子を取り巻く環境(大人たち)から肯定・共感を与えられたかどうか。









◎まとめの考察

幼少期に根付いた自己肯定感は社会的な評価では揺らいだとしても、決して奪われない。
逆に言えば、社会的な評価をいくら得ようとも脆弱な自己肯定感を強化する材料にはならない。

















◇自己肯定感が根付く環境的要因について


一流企業に勤め周囲にも信頼されて容姿も端麗。空気も読めて気配り上手。
それなのに、自分に全く自信が無い人が居る。それどころか、「私なんか居なくなったほうがみんな喜ぶんじゃないか…」とさえ思えてしまう。

たいして、DQNと罵られ空気も読めず気合が空回りしている底辺派遣社員が居る。
しかし、その人はとても幸せそうに生きている。「あの人に嫌われているかもしれない…」などクヨクヨすることは殆ど無い。

この差は、どこから来るのか?


社会的には評価されている人よりも社会的な評価の低いと思われる人の方が幸せだと言うのは、
どういう要因が働いているのか。

そこには”自己肯定感”というキーワードが多分に影響しているのではないかと思っている。




以下に3人の”自己肯定感の高い”芸能人の方を例を示す。

小さな時(社会的な評価を受ける前の時期)に、愛(ここでは肯定・共感とする)を与えてもらえたならば、
社会的な評価を栄養にしなくても自分自身を愛する力は揺るがないという事を示す
好例だと思ったので引用させてもらった。








・五体不満足

・かわいくないのに出すぎというネットの評価

・うざい女という評価


こういう社会(他人)からの評価に揺るがない自己肯定感が根付いているように思われるのはやはり、
愛を沢山受けて育ったからなのだろうと推測している。



 





 

 

 

 

 

■乙武洋匡さんの場合


乙武さんがたどりついたのが「自己肯定感」という言葉。
「自分は大切な存在だ」と思う、この「自分を愛する力」。


乙武さんの「ポジティブ」は、乙武さんひとりの力でつくられたものじゃない。
 ”自己肯定感”というのは、本人の考え方のように思われがちだけれど、それを得るためには、本人の努力だけではなく、周囲の力が必要不可欠なのです。



なぜ僕は生まれつき手足がないという障害を「受けいれ」「苦しむことなく」、
ここまで人生を歩んでくることができたのか。
僕なりに考えてみると、”自己肯定感”という言葉にたどりついた。

自己肯定感とは、「自分は大切な存在だ」「自分はかけがえのない存在だ」と、自分自身のことを認める気持ち。

この”自分を愛する力”が、何より、僕自身の人生の支えとなってきたように思うのだ。
http://blogos.com/article/58749/


 




■剛力彩芽さんの場合


「美しいや可愛いというのは、自己満足が大切だと思う」と持論を展開し、
「家族や身近な人が『彩芽は可愛いね』って言ってくれるから、誰がなんと言おうと可愛いはず(笑)」
と前向きな思考を明かした。
http://mdpr.jp/021213620







 

■神田うのさんの場合


19:名無しさんにズームイン!:2013/03/26(火) 20:23:37.60 ID:TLL9tCWW
うのうざ

20:名無しさんにズームイン!:2013/03/26(火) 20:23:38.94 ID:3iiJDZ6R
うのは幸せな女だなw

21:名無しさんにズームイン!:2013/03/26(火) 20:23:39.35 ID:pzWoEGwI
うのうざwwww


23:名無しさんにズームイン!:2013/03/26(火) 20:23:42.19 ID:iT1OqCIF
うのはいい意味で鈍感なんだよな

26:名無しさんにズームイン!:2013/03/26(火) 20:23:53.77 ID:HqXMRxA9
神田うのは両親に愛されて育ったから自分にゆるぎない自信があるんだろうね。

59:名無しさんにズームイン!:2013/03/26(火) 20:24:45.57 ID:pzWoEGwI
>>26
親の影響は計り知れないよな。

90:名無しさんにズームイン!:2013/03/26(火) 20:25:28.07 ID:oEPcw9hN
>>59
それ大事だね ねらーは親に愛されて育った実感がない人が多いのかな

130:名無しさんにズームイン!:2013/03/26(火) 20:26:57.07 ID:HqXMRxA9
>>59
本当にそう思う。
 毒親に虐待されて育ったら自分に自信を持つことは困難になるよ。

http://shimasoku.com/kakolog/read/liventv/1364295243/



















▼自己肯定感の概要




 

■肯定・共感で子どもの心は育つ


人間と言うのは愛されてこなかったと強く感じたり
親から過剰な期待をかけられたような経験があると
自信を失い、「根拠の無い自信(自己肯定感)」を持つことが出来なくなってしまいます。


過剰な期待によって根拠の”ある”自信を付けさせようとすると
それは否定や拒否としか伝わらない。
だから、過剰な期待=自分を否定する人、となり反抗するのは当然。


日ごろから「~しなさい」「どうしてこんなことばかりしてるの」などと、
ダメな部分ばかりを指摘され続けている子育てをされた子どもは
相手に信頼感をあまり寄せていません。
そうすると、子どものなかに自尊心が育ちませんから「自己肯定感」は育ちにくいのです。


子どもの中には
「自分はありのままの自分でいいんだ」「自分はこのままで十分、お母さんやお父さんから愛される存在なんだ」という
気持ちを持たせてあげることで、
子どもは自分のプライドを守るための嘘をつかなくなります。





 

■自己肯定感の欠如は社会でもハンデ


幼少期や青年期に自分を認めてくれる人や
受け容れてくれる人に出会えないまま成長してしまった人はどうしても「自己肯定感」が弱くなっています。

「自己肯定感」が貧弱だということは
夢や希望や意欲がわいてこないことになりますから
それだけで大きなハンディキャップになってしまう。










 

■根拠の無い自信を!!


無条件の愛情を人から与えられることが無条件に「自分を信じる力」になります。


近年、日本人の多くは
自分の子どもに「根拠のある自信」ばかりを育てようとしています。

何かといえば競争です。特技です。



しかし、ここには問題がある。
比較で獲得した肯定感は比較で負けたときに下がる、ということ。

もっとよりよく出来る人などたくさん居るから挫折を味わう。
比較、競争でしか肯定感がもてないとしてたら
そこでやぶれたら、一気に深くまで落ちてしまう。

根拠の無い自信が育てられていると
「~さんはかけっこが早いな」「~君は勉強が出来るなあ」と
子どもも心に思うことがあっても、劣等感にはならない。


根拠の無い自信というのは
自分に対して根拠なく自身を抱くことが出来るということです。

そして、それ以前に「人を信じる力」があるということです。


この「信じる」という気持ちは
安心と置き換えてもいいでしょう
お母さんをまず信頼して、
その人から無条件に愛されることによって
「自分はここにいてもいいんだ」と思えることが
自分を信頼することにつながる
それが自律への第一歩。
http://www.amazon.co.jp/%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%AE%E6%B0%97%E6%8C%81%E3%81%A1%E3%81%8C%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%E3%81%A8-%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E3%81%AF%E3%80%81%E3%82%82%E3%81%A3%E3%81%A8%E6%A5%BD%E3%81%97%E3%81%84-%E3%81%82%E3%82%93%E3%81%97%E3%82%93%E5%AD%90%E8%82%B2%E3%81%A6%E2%80%95%E3%81%99%E3%81%93%E3%82%84%E3%81%8B%E4%BF%9D%E8%82%B2%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8-%E6%AD%A3%E7%BE%8E/dp/4883998800