2013年3月12日火曜日

就職面接がうまくいかない理由の共通背景



「ESと筆記は余裕なのに就職面接でさっぱり手ごたえがない」に始まり、
「なぜか友達が出来ない」「プレゼンが苦手」「恋人が出来ない」のようないわゆるコミュニケーションに関して、深い悩みを持っている人たちに共通していることって何だろう?


ということを漠然と考えていて、その答えが出たような気がするので書き残しておきたい。









◇鏡を得られなかった子ども達

これらのコミュ障の人たち幼少期~少年期に共通していることは、
『両親が「質問」という「アイデンティティを確立するための鏡」になってくれなかったのでは?』
だと推測している。


自分の価値観を知るためには、自分の事を相手に説明するためには、
質問をしてもらって(人物に対して関心を持ってもらって)それを積み重ねることでだんだん身につくものだと思っている。
なぜなら、自分で自分を知るためには質問されることで内部洞察が始まるからだ。

ちなみに、ここで使う”質問”とは人間的な関心の質問であり、情報のヤリトリではありません。
「いま、何時?」「タオルってどこにあったっけ?」「洗濯物出したの?」みたいなのはどれだけ質問されたところで内部洞察は進まないし、なにより、質問してくる人間と人間的な関係性は高まっていかないと思う。


人間的な関係が深まる質問というのは例えば「その学部に進学したいと思ったのはどういう経験があったからなの?」という質問。

これは、人間同士の密度が高まる質問。人間的な関心を持った質問と言える。



 

■質問に答えるうちに見えてくる自分

自分を知るには、質問をされることが重要だと思っていて、
実際に、質問に答えようとして言葉を発しているうちに「ああ、私ってこういう考えをもっているんだ」って
自分に気づけることが多々ある。


たとえば、自己PRを考えるときなんかも、いきなり書くよりも、
「学生時代に頑張ったことは?」「友達づきあいで大切にしていることは何ですか?」みたいな、項目に分かれた質問に1つずつ答えていくうちに自分の考え方や価値観に気づくことが出来て、「自分のこういう考え方と志望している会社の基本理念は一致するかも」みたいな感じで、ちょっとずつ自己PRが固まっていく。


いきなり自己PRを考えろと言われても浮かんでこなかったことであろう志望する会社との接点が、
「質問に答える」ことによって自分を知れて、見つけることができる。

そして、質問をされる機会の数に比例して、いわゆるコミュニケーションというやつは上手になっていくんだと思う。

「質問に答えようとすること=相手に自分の考えや感情を伝えること」なのであれば、これはコミュニケーションの重要な一部だと思うし、「質問をされたら嬉しい(関心を持ってもらえていると言う実感があるから)という経験」が多ければ、相手のために相手に質問してあげるということも自然に身につく。


これも必然的にコミュニケーションの機会を増やす要因になるから、コミュニケーションは上達していく。


「面接がうまくいかない」と「面接なんて余裕」との差っていうのは、きっと、質問をされる機会の差なんだと思う。
言葉で自分の事を伝え始めるのが5歳くらいだとして、実家を出たのが18才だとする。


そうすると同じ13年間でも、質問に答える機会(相手に自分の事を伝える能力を伸ばす機会)は雲泥の差がつくだろう。
「面接なんか楽勝」といっている人たちは、そうでない人たちより13年間、面接(自分の事を相手に伝える)の練習を積んできたことになる。



そりゃー面接で差がつくのは、当たり前だよね。

悲しいけれども、自分の事を相手に伝える機会の質と量は、生まれた環境によって差が出ちゃうと思う。
そして、自分の事を伝えようとする機会の絶対数というのは、
就職面接(相手の質問の意図に沿って自分の事を伝える=コミュニケーション)の場で、はっきりと差が生まれるんだと思う。

 

 


■質問に答える(≒コミュニケーション)機会の密度


幼い時は、語彙も少ないし自分の感情に名前を付けることも拙いから、親に上手く伝えられないこともあるだろう。
だけど、そういう場面でも、親のほうがコミュニケーションの手助けをしてくれれば、
コミュニケーション能力は成長していく。

たとえ、何を言いたいのか分からなくても「あなたはいま、こういう気持ちでこういうことが言いたいのかしら?」と
感情や考え方を外側から心の動きを教えてくれれば、「そうそう!そういうことが言いたかったの!」という伝わった喜びと、「ああ、私は今、こういう気持ちで、こういうことを言いたかったんだ!」とが両立する。





鏡となる大人を持てなかった子ども達が、増えているような気がする。


鏡となってくれる人=質問をしてくれる=興味をもってくれる人。

相手の質問を返す(相手に自分をわかってもらい、相手とつながりたいという欲求)機会に恵まれなかったら
自分が何を考えているのかを自分で知れないままに年月が過ぎる事になる。


相手に自分を伝えることが出来なければ、コミュニケーションはなりたたない。
コミュニケーションがうまくいかなければ(質問者の意図に沿って質問を答えることができなければ)、残念ながら、
どこの面接を受けても今の時代、厳しい結果が待っているだろう。

自分を知るためにも質問してくれる人が必要。


 

■無条件の肯定的関心=人間性への質問

「相手に受け入れてもらう秘訣は質問することです。
 ほとんどの人は相手に質問しません。いつも自己主張ばかりしているのです。
 ところが、質問をすれば相手は自分に関心を持ってもらえていると感じ、心を開きます。
 だから、質問をするのがもっとも重要なことなのです」


 

 

■無条件の肯定的関心(質問されること)を失った子ども達


親が身体や心に問題を抱えており、自分の事ばかり心配している状態にあると、子どもはその親から
「お前の気持ちなんか重要ではないんだ。私は自分の事で頭がいっぱいなんだから」という強いメッセージを受け取る。
こういう親を持った子どもは、心が健康な親なら与えてくれる愛情や注目を得ることができないので、
まるで透明人間になったように感じるようになる。


自分は存在しているのに、まるで存在していないかのように扱われるためである。
「自分は意味のある存在だ」という感覚を子どもが持つためには、親から
「そうだとも、その通りだよ」というメッセージを与えられ、それによってそのことを確認できなければならない。

だが自分の事で頭がいっぱいな両親では、子どもが心の支えに何を必要としているのかに気づくこともできない。

しかも彼女の母親は、子どもが示す感情表現に対して何も反応せず、心を通わせようともしなかった。
そういう状態のもとで、彼女の受け取ったメッセージが何であったかは明確である。


それは、「お前は私達にとって重要な存在ではない」というものだったのである。


こうして彼女は、しだいに自分が自分をどう思うかではなく、親が自分をどう思うかによって自分を裁定するようになっていった。
つまり、自分の行動が親の機嫌を良くしたら自分は「いい子」であり、親の気炎が悪くなったら「悪い子」だ、ということになったのである。


そういう子どもが大人になると、しっかりした自分のアイデンティティを持つことが非常に困難になる。



自分の考えや感情、自分が必要としていること、などを人に対してはっきりあらわすように育まれなかったため、
自分はどういう人間なのか、愛情に満ちた人間関係とはどういうものか、ということが理解できないのである。



 


■本人の感情を肯定する

感情を肯定することは社交不安障害の治療において大切な要素です。

なかには、ご家族の価値観に照らして「こんな感情を抱くなんて」と
思うようなことがあるかもしれません。
でも、感情は、どんな感情であっても、本人が感じている限り「正しい感情」なのです。
ご家族とご本人は、生まれた年代も、育った環境も違いますし何と言っても、
現在は病気を持っているかどうかという点で全く違うのです。

ご本人は、病気の症状そのものにも苦しんでいますし、ご家族に対して申し訳ないという気持ちも持っています。
それでも、ご本人が感じている以上は正しい感情である、と確信していただきたいと思います。


正しい感情には違いないのだろうけれど、もう少し詳しく様子を聞きたいということもあるでしょう。
ご本人にとって自分の気持ちに関心を持って質問してもらえるというのは悪い体験ではありません。


ただ、気をつけておきたいのは「どうしてそんなふうに思うの?」という聴き方だと、まるで
「そんなふうに思うのは不適切だ」と責められているかのように聞こえることがある、ということです。


特にコミュ障の人はネガティブな評価に敏感ですし、
実際にはそれまでの人間関係を調べてみると、身近に批判的な人がいたことが多いと思う。
自分の気持ちを話すというのはご本人にとってかなりデリケートなテーマであるということを認識した上で、
追加情報を聞きたいと思うときは、「そこのところをもう少しよく理解したいから、詳しく教えてくれる?」というよな、
患者さんへの温かい関心が感じられるような聴き方をして頂いたほうが、安全だと思います。
それきり口をつぐんでしまうことにもなりかねません。


 


■感情の表現が世界へのパスポート


小さい子どもには自分の感情を感じ表現できる環境がなにより必要である。

自由な感情表現を身に付けた子どもは積極的に人と関わりたいという気持ちになり、
さらに表現力やコミュニケーション能力を洗練させていく。

しかし、虐待的な環境にいる子どもたちは親から感情を押しつぶされ、自由な表現を許されないためにやがて感情を麻痺させ無表情で無気力、無感動といった状態に陥ってしまう。


そして、そうした子どもたちはやがて他者に対する関心をもつことができなくなり、
自分の感情をうまく表現できないために周囲の人々とトラブルを起こしたり、
いらいらしてキレやすい傾向を持つと指摘される。


幼い頃より、他者から共感された経験が乏しい子どもにとって
他者への共感をもつということはとても難しい。


自ら共感されてはじめて他者への共感が芽生え、
やがては人の気持ちをおしはかり、
尊重することが出来るようになるのである。

このように考えると子どもへの要求が”しつけ”として許容されるには
まず親が子どもの気持ちを尊重し共感し、安心感を与えることが大きな出発点となる。


他者に共感できず、感情の表現方法もわからない子どもは
自ら判断し、行動を修正していくために必要な”主体性”という素地ができあがっていない。


最低限の主体性も育っていない子どもに”しつけ”といっても、
それはただの、”おしつけ”でしかない。

子どもが親から怒鳴られたり、
たたかれたりしたときに覚えた理不尽な思いは
成長してもなかなか消えることは無い
しかし、そこで自分が受けた仕打ちを「理不尽だ」と受け取るのか
「自分のために成ることだ」と受け止めるのかは、
ひとえに子どもの共感力、主体性にかかっている。





■外側だけでなく内側も育てて


親には子どもの感情を育てる義務があります。
それは子供を産んだ以上、義務です。
義務は強い言葉ですが義務を果たすためには親が親として覚悟を決める必要があります。
親として子どもを愛する、という覚悟です。


これは当たり前のようですが、むずかしい。


親を癒してくれる存在として、子どもを愛している場合や、
親の自尊心を満たすために子どもを愛している場合には義務を果たせないからです。

親は自分の感情がラクになることばかりに感心がいっていて
子どもの感情そのものがラクになるということに眼が向いていない。


親になる覚悟って言うのは
親が親自身の感情よりも
子ども自身の感情に眼を向けて大事する覚悟をするってこともである。

 

■支える人にも支える人を


子どもの問題行動によって傷ついている気持ちを十分に聞いてもらえると
親御さんたちは自分の感情と子どもの感情を区別することが出来るようになりますから、
自分の傷つきはさておいて子どもを受け止めるということができるようになります。


親も「良い親」であることを求められると
「うまくできない私」「子育てに不安を感じる私」の部分を否定されてしまうことになり
子育てにまつわるネガティブな感情は承認されず親自身もそれを否認してしまいやすい。

そして「良い親」であるためには子どもが「良い子」を実現してくれることが
必要になるという悪循環を招きます。
親がありのまま、子育てに不安を抱えていること
子どもにいらだつことを
自分自身に認めてあげることができると、
おのずと、子どもの不安や至らないところを認めてあげることができるようになる。




 

■ネガティブを包んであげる

子どもの身体が深いな感情に支配されてパニックになって、
泣いたり起こったりていうのは子どもの感覚としては危険に晒されているという感じなのです。

怒りや憎しみなどのネガティブな感情がそのままむき出しの状態にあればそれはとても危険な感情です。

でも、大人が抱きしめることで、
安心・安全によってネガティブな感情をくるむことができると、その感情を持っていても安全な感情として
コントロールできるようになるのです。


不快な感情がいっぱいになって、泣いたりすねたりぐずったりしているときにほうって置かれると、その子は


自分ひとりの力でその危険から脱出するようになります。
それは、たくましく育つといえなくもありませんが
自分1人で生きていかなければならい子は闘争モードになって
たたかいながら生き延びていくということになります。


幼い子どもが自分を守るために
必死に攻撃的、乱暴になりながら生きていくと
結局はそれをまた叱られて、だめな子、悪い子、というレッテルとはられてしまうことにつながるのだから、かわいそうなことです。


押さないうちにはきちんと保護されるということが
思いやりのある子に育つためには必要なのです。

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