2013年1月30日水曜日

ご機嫌コントロールの疲弊性





関心の持ち方の問題であって、今の若い人たちはまったく他者に無関心というわけではない。ただ、自分とのかかわりのなかで、それこそ相手が自分のことを、どう思ってるかという、そういう関心の持ち方です。
自分をどう見ているのか、愛してくれているかとか。
自分がどう思われているかと言うことには、ものすごく関心がある。
(ほどほどに豊かな社会 香山リカ 橘木俊あき ナカニシヤ出版)













◇不安をエネルギーにした交流は仲を深めない


たとえば、社会人になると接待という業務があります
この接待は、相手を言い気分にして、より良い仕事を自社が獲得できるようにする行動のこと。

つまり、相手のためではなく、自分のために相手を気持ちよくする。

こういう接待での本当の目的は
「自分の印象をなるべく良い方向に持っていくために相手の機嫌をコントロールする」という主役が、相手ではなく自分である行動だといえます・


社会人としては、「相手の機嫌をコントロールするための気づかい」は査定の大きなファクターになる。
ただ、接待は疲れます。神経をすり減らします。

接待が疲れる最大の理由は、「自分がどう思われるか」を気にしている点です。
「自分が主役」である「気づかい」をしてしまうと、人間はとても疲れてしまいます。

どういうことか、ちょっと説明を。


■「疲れる気づかい」=「自分がどう思われるか」

「疲れる気づかい」をしている人は、実は「自分が相手からどう思われるか」を気にしています。
相手からよく思われたい、相手か嫌われたくない、相手を怒らせたくない、などという思いがそこにあるのです。
ですから、「疲れる気づかい」をしているとき、実はそこで気にしているのは「相手」ではなく「自分」のことだと言えます。

なぜ疲れるのか、という理由の一つがここにあります。
「気づかい」で消費するエネルギーは、単に相手のために使われるのではなく、
「自分はどう思われているのだろうか」と相手の顔色を読むことに使われるからです。


また、「自分が相手からどう思われるか」というタイプの「気づかい」では、
相手の反応によって大きな影響を受けます。
相手が喜んでくれればほっとしますが、そういう様子が見えなければ、
「はずしてしまった」と自分を責めたり、「怒らせてしまったのだろうか」と不安にとらわれたり、
あるいは「感謝の気持ちが無い」と相手を責めたりすることにもなります。


相手の顔色によってこんなに気分が乱高下してしまうようでは、疲れてしまいますね。

 

 


■「不安」をエネルギーにすると疲れてしまう

「自分がどう思われるか」ということを気にする心は、基本的に「不安」です。
「こんなことをしたらどう思われるだろうか」「これで大丈夫だったのだろうか」「相手はどう思っただろうか」
というのは、いずれも「不安」の思いです。

不安をエネルギーにして「気づかい」をすると、間違いなく疲れてしまいます。

不安に取り付かれているときの私達は、心配な点にばかり目がいくものです。
これは、不安がどういう感情であるかと考えれば当たり前のことだと言えます。



など次々と不安な思いがわきあがってくるのは、そのためです。

そんなふうにチェックばかりして不安に思い続けていたら、疲れてしまいますよね。
また、単に不安を抱えるだけでなく、不安な点を埋めようとして、さらなる「気づかい」をしなければ、と思う人も居ると思います。
それもまた、疲れにつながっていきます。







「誰だって悩みはあるんだからさー」



どれくらい苦しいか、こればかりは経験したことのない人間にはわからない。
苦痛と言うのは簡単に一般化できるものではないんだ。
個々の苦痛には個々の特性がある。

(1Q84 BOOK3 村上春樹 新潮社)




◇「みんな同じなんだから…」の二面性



「みんなそうだよ」っていう慰めの言葉、あんまり好きじゃないなぁって前から思ってたけど、母親をはじめ、ある程度人生が軌道に乗っている人たちは口々に言う。
“みんなと一緒だから安心”みたいなニュアンスだけど、つらさや思いは人それぞれ。
反論はしないけれど、分かってもらえないんだろうなっていう諦めのみ残る。


 

■「誰でも悩むよね!」


悩みを打ち明けられたときに
どういう反応をするかで、その人がどう話を受け止めたかがわかるものです。

たとえば、人からひどいことを言われてへこんでしまった、
でもそんな「弱い」自分も許せない、と思っているケース。
あるいは、自殺してしまった父親を許せないと思っているけれども
亡くなった人のことを悪く言うことはいけないとも思っているケース。

あるいは、将来に対する不安があるけれども、
そのような不安を持つことは「男らしくない」と思っている男の子のケース。


このようなケースでは
「そんなにひどいことを言われたら、誰でもへこみますよね」と応じると
「話してもいいんだ」という気持ちになります。
自分の感じ方が、特殊なものでも恥ずべきものでもない、ということがわかると
安心するからです。


 

■「誰でも悩むんだから、気にするな!」


ただ、一方で、「誰でも同じ」と言われると、ショックな場面もある。


たとえば、「誰もが同じく悩んでるんだ。自分が特別だと思うな!」という場面。

「将来が不安なんだ」と打ち明けたら、
「その年頃にはよくあることだ」と返されてしまうと
それ以上、話す気がなくなります。

「つまりそういうわけだから、もう話さなくていいよ」というふうに聞こえるからです。

本来、そこで期待されるコメントは「どう不安なのか、もっと理解したいから、詳しく話して」というものでしょう。
そこに込められているのは、相手という個人への関心です。





■ポイントは「決め付け」


一つ目のパターンでは、本人が自分の悩みに対して
「よくない感じ方」と決め付けてしまっており、それが苦しみの原因になっています。
そういうときに「誰でもあること」と言ってあげると
「決め付け」を手放して楽になる効果があるのです。

一方、二つ目のパターンにおける「誰にでもあること」は
それ自体が相手の話に対しての「決め付け」ということになります。
決め付けられたほうが不満に思うのも無理のないことです。





 

■親の安心のために作られた価値観


ある女性の話り:
「私は小さい頃からまわりと一緒の方が親が喜ぶ、安心する、とこどもながらに思ってしまっていて、自分を出すことを    
 抑えてきたんですよねf^_^; 違和感はめちゃめちゃありましたが。
 いろんな人がいる、と今は思いますが、基準が自分、じゃなく親であったことはちと悲しいなと。」




2013年1月16日水曜日

酔っ払った時に赤ちゃんがえりする夫たち




もし、神経症的要求をしていると気づいたら、自分は小さな子供のように甘えているのだと思うことである。自分の欲求を正しく理解することで、その不満からどれだけ救われるかわからない。
この世の中には、幸いにして甘えの欲求を小さい頃に満たされた人もいるし、不幸にして満たされなかった人も居る。
何でもなく情緒的に大人になれた人もいるし、七転八倒してやっと大人になった人もいる。
それはそれぞれの生まれた環境の問題である。

そんな幼稚な気持ちが自分にあるとは認めたくない。

説明できない自分の感情というのは、何か基本の欲求から眼を背けていることをその人に告げている。理由もなく不愉快になるのは、何か自分の欲求を自分が隠しているからなのだ。

自分が隠しているもののなかで最も一般的なのは、幼児性である。

(愛蔵版 自分に気づく心理学 加藤締三 PHP研究所)より抜粋






◇母親に垂れ流せなかった不満を妻に垂れ流している

 




■受け止めてくれる存在を求めている


旦那が酔っ払って、雑音としか思えないグダグダな戯言を妻に向けて吐く。
子供の頃は、無秩序で意味の無い話を垂れ流すことが許される時期だ。
理路整然となんかしていなくても言い。
親にどれだけ自分の話を聴いてもらえたか、受け止めてもらえたかという安心感が大事なのだ。
子供が親に何でも話したいのは「僕の事、愛してるのかな?」ということを確認しているのである。

 

■子供をやらせてもらえなかった欲求不満


人間は子供を通過してからしか大人になれない。のであるから、
親にしてもらえなかったことを、妻に向かって行っているのである。
どうでも言い話を、永遠と垂れ流すという、子供の頃に満たされなかった欲求不満を妻をゴーストにして解消しようとしているのである。

ただ、本当は母親にしてもらいたかったことなので、
この愚行は死ぬまで、あるいは夫婦が解消されるまで続く出ある。

自分が小さい頃、学校であったことを無意味に垂れ流す行為を残念ながら、旦那の母親は許さなかった。
子供らしい話の仕方、支離滅裂で全く面白みのない話であったとしても、安心して話してスッキリすることで、
子供は安心感を得てカラッポになって、また明日、学校で友達と遊ぶのである。

しかし、”無駄で意味のない会話”を禁止されていて、ずっと欲求不満を溜めていた。
だけど、大人になるにつれて、論理的に話すことを要求されるようになるし、面白くない話を聞いてくれる相手は、そうそう存在しなくなる。

こうして、満たされなかった子供の頃の欲求は、大人になっても消えることはない。
どんなに社会的に大人として認められるようになろうとも、個人的な欲求不満の解消にはつながらないのである。
 



2013年1月7日月曜日

「俺を怒らせる気か!!」




◇不機嫌なのは子供が悪い子だから?

親は自分の生まれる前から不機嫌だった。
親が不機嫌なのは親の情緒未熟性が原因であって、
自分と言う存在が原因ではない。

それなのに、あたかも自分という存在が原因であるかの如く、
親は自分を責めた。

それだけに他人の感情に責任を感じるというおかしな感じ方が自分の中に根付いてしまった。
そうなると、どうなるか…
大人になっても相手が満足していないと、それを自分の責任と感じてしまう。



■私は自分の感情をコントロールできません!!


たとえば、「俺を怒らせる気か!」という言葉はたいへん興味深い言葉だ。
なぜなら「怒らせる」という表現は「相手が自分の気持ちをコントロールしている」と言っているのだ。
責任転嫁でもありますが、自分の気持ちを自分でコントロールできないと告白しているようなものだからだ。

実際には、同じ状況で全ての人が怒るわけではない。
だとすると、ある事象について怒っているのはその人自身で、
その人の考え方やそれまでの生き方の問題であると考えることが出来る。

 

■親の「境界線問題」を背負う子供たち


ただ、親側の感情コントロールの未熟さに、子供は翻弄されてしまうのが大問題なのだ。
その人だかなら、勝手に未熟な人間のままで居ればいいのだけれど、子供が犠牲になる連鎖はいただけない。

このような家の子供は、「自分は悪い子で親が不幸に感じているのは自分のせいだ」と感じることが多く、
そのことは子供にとって最大の罪悪感になってしまう。

 

■親の境界線の問題


このような問題を抱える人は
どのような環境で育っているのか、というと
親も境界線の問題を抱えていることが多い。

よくDVや虐待の加害者が
「相手が自分を怒らせた」という言い方をしますが
これも「境界線」問題の顕著な例の一つです。
自分を怒らせないように気を使うのは相手の責任、
というような考え方は
まさに「境界線」の深刻な障害であると言えます。


暴力の加害者にも関わらず「お前が怒らせたせいだ」と
言われてしまうと、本来自分の責任ではないことまで自分の落ち度だと感じてしまい、
自尊心が低下する。


そして、「相手を怒らせないように気をつけなければ」と
境界線の引けないコミュニケーションパターンを続けてしまうことが多い。


自分自身が「境界線」問題を抱えていると
往々にして同じ視点を子どもに求めます。
「あの人の機嫌が悪かったのは、あなたが何かしたからではないか」
というようなことを言われ続けて育つ子は、当然のこととしてそのような視点を
自分でも身に付けていきます。

一方、「あの人は不機嫌で辛そうね。何かあったのかしらね」と
親が言うのであれば、子どもも同じようにとらえるようになります。

また、何か言うたびに親が「お父さんのせいだと言うのか?」
というふうに自分に関連付けて反応してしまうような環境では、
子どもは常に「こんなことを言ったら相手にどう思われるだろう」と
心配するようになります。

つまり、相手の機嫌にのみ、左右される毎日になってしまい、
相手の機嫌ばかり気にする性格や考え方が定着してしまう。


■顔色を読んであげないといけない親


大人の顔色を読まなければならない環境で育つと
なぜ境界線をひくことが難しくなるのでしょうか、
それは、「自分が相手にどうして欲しいのかを表現するのは自分の責任」という
考え方が身に付かない、からです。

親が「言わなくても自分の心を察して欲しい」というタイプの人だと
子どもは顔色を読むようになり、
親が感情的に怒るようなタイプの人でも子どもはやはり親の顔色を読むようになる。

なぜかというと、「自分が何をしたか」で叱られる子供は
自分の価値観と自尊心を育てることができるが
「親の機嫌がどうか」で叱られる子供は
相手の顔色を伺うようになってしまうからだ。

相手の機嫌という判断の基準がなくなってしまうのだ。

これは例えば、親がアルコール依存症というような場合も同じことがいえる。。

親がどのくらいアルコールの影響下にあるかで反応がガラリと違うからです。
いつ地雷を踏むのか分からないので
常に親の顔色を窺いながらビクビクしていなければなりません。

大人の顔色を読まなければならない環境で育つと、
なぜ境界線を引くことが難しくなるのでしょうか。

それは「自分が相手にどうして欲しいかを表現するのは自分の責任」という
考え方が身につかないからです。

相手の不機嫌が本当に自分のせいだったら
相手がそれを伝えるべきなのです。
うまく言えない人もいるでしょうが
それはその人の問題で
その人自身の課題として努力していく必要があるのです。
それを「自分が読み取ってあげなければならないこと」と思うことは
相手の成長の機会を奪うことにもなる。

自分側の問題を「相手の責任だ!」といって、相手に丸投げするのは、まさに病気と呼んでも良いかもしれない。

また、そのような考えがちな人は
他人にも同じように求めます。
自分がどうして欲しいかを表現しなくても相手は察するべき、というふうに思ってしまうのです。
そして、そうしてもらえないと
「相手は自分をないがしろにした」と感じてしまうのです。

これもまた大変ストレスのたまる受け止め方で対人関係のトラブルにつながる。

意図しない”自己犠牲精神”で生きる人生は
事故不在の虚しさに悩む日々を呼び込んでしまうかもしれない。



 


■一貫性の無い親に育てられたら


子どもの精神的(心=感情)の成長に必要な環境的要因は「一貫性」だ。

ものさしが大人の機嫌次第で変わると戸惑う。
同じことをしても暴力的に怒られることもあれば、
まったくお咎めなしとこともある…
そこから学ぶことは
良識とか常識といったものではなく
単に相手の顔色を読むことや、主体性の無さ。

良い厳しさとは
「ものさし」がしっかりしていることなのだ。

親の言うことがしょっちゅう変わる家では
子どもは何を信じて何に従ってよいかがわからない。
子供が精神的に安定した人間に成長するためには、一貫性のある生活が必要。

言動に一貫性のない親を持った子どもは
安定した人間関係について学ぶ機会がありません。

親に一貫性が無い家庭では、家族の間に深みのある人間関係が
育つ余裕がありません。


そういう家で育った人は、ほとんど必ずと言っていいほど
人付き合いや愛情関係に自信がなく
また人に対して依存的になる傾向が増す。



彼らが人に依存的になるのは、ちょうど、自分がもつことのできなかった
心の安定した親を探しているようなものです。


一貫性の無い親の元で育った人は、内面に強い孤独感を持っているようです。

彼らは人との温かな接触や人間的な関係を渇望していますが
その一方で、人を信用することがなかなかできません。

さらに、一貫性の無い親は「自分の行動は正常で、他の人のほうが間違っている」と子供にいうことがあります。
子供は内心、「家の中で起きていることは異常だ」と感じていても、
親は「そうではない」といい続けるわけです。
そのため、子供は自分の感覚を信じるか、それとも親の言っていることを信じるか、
という二者択一を強いられます。

前述したように、
特にまだ幼い子供は、たとえ自分が受ける感覚と違っていても、
親の主張を信じることが多いものです。

それは彼らの生存が全面的に親に依存しているためです。
そのため、小さな子供は親の言動が支離滅裂であることになかなか気づきません。






2013年1月6日日曜日

過保護が本当に意味するところ



過保護=(自分達にとって都合の)良い子を作る


◇過保護は子育てを楽にするため!?

過保護は親が自分の不安をコントロールしきれていない状態
だとすると、過保護にするのは子供のためというよりは
「親がコントロールし易い子供」を作ること=「良い子でいなさい!」ということを
暗に伝えている事
になるのではないだろうか?
そして、”良い子”にしていることで親は誉めてくれるから、親に誉めてもらうために、
”良い子”として育っていくと、「相手に管理されるための人生」が徐々に固まってきて、
なぜか息苦しく感じる子供が出来上がってしまうので無いだろうか。


 

■母親の世界に閉じ込められる??

大人になったとき、ストレスにさらされたとき、
人間関係に悩んだとき、
仕事がうまくいかなくなったとき、そんなときにどう行動するかという基礎は
その人の育つ過程・環境の中で育まれまる。

たとえば、
問題にぶつかったときに、どう乗り越えるかを子どもが学ぶ前に
母親が問題を取り除けてしまう。
子どもがストレスを抱える前に
ストレスの少ない環境を母親が整えてあげる。

こんなことが繰り返されると
子どもの精神的成長は止まってしまう。
問題にぶつかったとき、どう対処すればいいか…
その能力を身に付けないまま大人になってしまうと
何かあったときに他者に責任を転嫁してしまいがちになってしまう。

小さな子どもは一緒に居る母親の心理状態に用意に影響を受ける。
母親が心理的に安定していれば小さな子どもも心理的に落ち着いている。
母親が心理的に不安定だと心理的に落ち着かなくてぐずりだす。

そして、満足している子どもほど、母親の心理状態の影響を受ける度合いが少ない。

 

■過保護といい子は要注意


過保護というのは、大人が先回りして「正解」を教えてあげたり、
代わりにやってあげたりすることを言う。
これは子どものためにやっているように見えますが、
実際は、大人が「子どもに任せておいたら失敗するのではないか」という
自分の不安をコントロールできない結果として起こっているものなのだ。

子どもが自尊心を豊かに育てていくためには
きちんと試行錯誤をすることが必要。
試行錯誤をしないと、自分にそれなりの自信を持てるようになれない。
ヨチヨチ歩きの子どもに対して、
転んだらかわそうだから、と転ぶ前にいつも抱っこしていたら、
いつまでたっても歩き方を覚えないし、
転ぶのを避けるための筋力もつかない。



心の成長も一緒です。



傷ついたらかわいそうだから、と傷つく前にいつも「正解」を与えてばかりいたら、
強い心は育たない。
挫折に弱い、自尊心の低い人間になってしまう。


過保護にせずに試行錯誤できる空間を作ってあげると言うのは
大人自身の不安をコントロールすることでもある。

親がどれほど不安か?を基準に介入するのではなく
介入が子供にとってどれほど必要か?を判断の基準に。

 

■良い子というのは曲者

良い子というのはあくまでも大人から見たときの”良い子”(=コントロールし易い人間)であり、
子供の側からみれば、試行錯誤をすることも出来なかった、ということなのです。

まんまと器の小さい大人の犠牲になってを育てる機会を奪われてしまうのだ

子供の試行錯誤、自己を確立するための挑戦の結果、失敗をしたときに、
その尻拭いをする能力が無い、あるいはそれが面倒だからといって、
子供をコントロールしてしまうのは、それは、子育てではなく、単に大人側が己の未熟さに目を伏せえているだけであって、
”子どもな大人”に育てられた子供はどうなってしまうのだろうか…

2013年1月5日土曜日

「アレキシサイミア増加」と「未熟な大人の相関」について




◇身体がしゃべり出す時代

ネットがリアルを侵食すること、そして余裕の無い社会においてはアレキシサイミア(感情語喪失)は、
加速度的に増えていくのだと思っている。

余裕の無い(あるいは未熟な)大人たちの犠牲になるのはいつも子供だ。
この連鎖を断ち切るのは大人が自分の未熟さと向き合っていくしかないと思っている。

人間と向き合うこと、相手の表情を逐一確めながら対話することを避けて生きることが可能になった現代においては、精神的に未熟な大人が育ちやすい社会だと思っているからだ。


 

■大人を演じさせられる子ども


最近の子どもたちの幼少期は
自分のことを本当に理解してくれたという経験を持てることが
少なく、逆に親の喜ぶ顔を見たくて、
ピエロのような役割を演じるこどもたちが増えている。


その一方で、現代社会では
中高生の過食症や薬物依存、援助交際などの性的逸脱行為や犯罪行為などが
社会問題として取り上げられている。


 

■感情を表現する能力を失った子どもたち


子どもたちは大人が考える以上に情緒面の柔軟性を持っているはずで、
ある程度の年齢になれば、少々のストレス負荷が予測される場面でも
子どもたちが難なく適応している様子を見ると、
子どもたちの内面で起きている事象を軽視してしまうことがある。

子どもに柔軟な適応力があるがゆえに、
周囲の大人たちはなんら問題がないという錯覚を起こすことがあるが。
親からすればそういう子どもたちは
親の言うことを聴く、いわゆる優等生であることが多い。
嫌なことや辛いことがあれば、
はっきりといえる子どもはまだいいほうです。
これに対して、それが言えない子どもたちは「優等生」や「模範生」を演じているのである。




■感情に名前を付ける作業を試行錯誤する機会を!


子供の感情(≒心)をケアする余裕の無い大人が増えるということは子供自身が自分の感情と言葉を内部で一致させる機会を失ってしまい、
負の感情を感じていたとしてもそれを、どう表現するのか分からないしどう処理すればいいのかの試行錯誤をする段階に突入することすら出来ずに心身ともに、理不尽に削られていって、”あの子強い子だね”っていうA song for的な孤独とダメージを抱えることになっちゃうんだ。





■言葉の力への信頼を取り戻す出会いが


身体でしか表現できない状況を受容し、身体がしゃべることの有害性を説き、 ”言葉は届く”ということを教えて(思い出させて)くれる出会いが、どうかあって欲しいと思う。
愚痴や文句を言える人間ってのは、実は強い人間で、本当に弱いのは