2017年10月28日土曜日

自分は「変な人」という感覚を覚える理由




感情を共感してもらう喜びを積み重ねないと「変な人」という自覚が生まれる







■「寂しさを感じないように生きる」、そう決めた

学校ではいじめられました。
みすぼらしい格好をしていたからでしょう。
それにおとなしかったから。

学校の帰りはいつも1人でした。
神社によって帰りました。
猫が来るんです。
給食のパンをポケットに入れてもって行きました。
最初は夕方帰ろうとするとついてこようとしました。
追い払っていきましたがそのうち、ついてこなくなりました。

ダメだって分かったのでしょう。
でも、翌日はまた神社で待っていてくれました
嬉しかったです。
そして、夕方まで
そこで猫と過ごしました。
楽しかったです。



話し相手だったんですね



でも車に轢かれて死んじゃったんです。
学校の帰りにみんな猫が死んでるって騒いでいたので
あとから1人でそこに行ってみたら口から血を流して死んでいました。
両手でかかえて神社までつれてきていつもの場所に寝かせました。
夕方まで一緒に居ました。

暗くなってきて、いそいで縁の下に隠して家に帰りました。
何日か同じように猫と一緒に居て
それから、穴を掘ってお墓を作りました。
誰にも分からないようにしておきいました。



小さいときから一人ぼっちだったんですね。
誰にも分かってもらえなくて、ずっと1人で我慢してきたんですね



すみません、こんな話をしてしまって…。もう時間ですよね。



■心を閉じた瞬間

それから二度と感情を話すことはなかった。
「寂しかった」「辛かった」「悲しかった」という気持ちを表現する言葉はなかった。
怒りもなかった。
彼は、それらを封じて生きてきたのだ。
その感情を認めてしまったら彼は生きてこられなかったのだろう。


「自分の本心を言わなくなったのは8歳のころです。」
分かってもらえない、言ってもわがままと言われてしまう。
それで口を紡ぐようになりました。
ある寒い冬の夜、何でだったかは覚えていませんが
母に叱られて部屋に戻り布団をかぶって泣いていました。
身体を丸めてひざを抱えて、でも、すーすーとつめたい風が入ってきて
寒くて身体が震えていました。
毛布か布団がもう一枚あればと願ったのですが言っても「わがまま」といわれてしまうと思って何も言いませんでした。
たった一つのジャンバーを着て布団に入りなおしたら
少し温かくなってきました。

涙がにじんできて
ジャンパーの上に落ちました。
あのときから、たぶん、自分の気持ちを言わなくなったと思います。
1人で生きていくと決めたのでしょうね。

自分は”変な人間”だと思ってきました。
小さい頃、友達から「お前、ヘンだよ」って何度も言われたことがありましたけど
分かりませんでした。
人と一緒に居ると緊張して疲れてしまうので一人の方が楽でした。
それが「変」だったのかもしれません。
自分は周りの友達とは違うんだなぁって思いました。

いつも次はどうしたらいいかって考えていたので友達と遊んでいてもどこか安心できないところがあってそれで「変な」行動を取っていたのでしょうね。
周りを警戒していつも緊張している、ぎこちない、溶け込めない、
変な奴だったんです、
1人で居るときが一番安心でした。
猫と居た時間は今でも一番の安心の時間です。





変な人間から普通の人に戻るには
遮断してきた「寂しさ」を感じられるようになることが不可欠だった。



■寂しさの制限を解除するステップ


彼は、自分が「楽」になることが申し訳ないと感じる人間である。
だから、睡眠が改善し、体の疲労がとれて、「うつ病」が治ったら、
すぐにでも働かなければならないと思っている。
そして働き始めたら、診察も終わりにしないといけないと思っている。



時間はかかったが、彼はぐっすり眠ってもいいと思えるようになり、
ご飯を食べておいしく感じてもいいと思えるようになった。
いつの間にか身体の緊張もとれてきた。
その時、最初に感じたのは「肩こりがひどい」ことである。
生まれてこのかた肩が凝ったことはなかった、というか、正確にいうと、
肩凝りを感じたことはなかった。
ずっと緊張して生きていると、肩凝りは感じない。
少し緊張が緩んで、初めて肩凝りは感じられるのだ。

普通が分からない


◇親とのつながりを持てないと世界は希薄化する



■普通が分からない…


「何か、うまく生きていけないんです」と彼女(38歳・外資系の専門商社勤務)は話し始めた。


私はずっと生きづらさを抱えています
うまく生きられなままにここまで来ました。

いろいろやりつくしてしまった感じでそれでもうまく生きられない。
疲れているのかな、早くこの人生が終わって、と思ってしまいます。
このまま生きていくのだったらもう嫌だなって思います。

うまく言えないけれど、子どもの頃からずっと「平気なふり」をしてきました。
今も本当は平気で、だから、仕事をしているし、生活しています。
30歳の時にカウンセリングを受けて「よくグレなかったですね。母親を恨まないと治りませんよ」といわれたのですがよくわかりませんでした。

恨みならいくらでもあるけど…という感じでした。
でも、自分の話しをして余計に疲れました。
通じない、というか、何を話したらいいのか分からなくなりました。
20歳の時にはACの集会に行きました。
そこではみんな親への不満を言い合っていました。
それは真実だなあと思って聞いていました。

私にも親への恨みはあります。
でも、そういう切実さ、熱心に訴えるようなリアリティはないと思って
やっぱりいかなくなりました。



彼女は淡々と話し続けた。

なんでも客観的に見えて、困るときがあります。
見えすぎるのでどれを選んでいいかわからなくなります。
並列に見えます。
そんな時に人から何か言われるとそれを選んでしまいます。
自分に基準がないのです。家がちょっと変だったのっで
確たるものを別に捜し求めていたんだと思います。
「これがあれば私は大丈夫」というものを欲しがっていました。
家の中には無いとわかっていました。
外にあると思っていました。
でも、外にはありませんでした。


彼女の訴えはフワフワととらえどころがなかった。

ハッキリしているのは人生に満足していないということだが、
苦しいとか悲しいとか痛いとかがない。
普通は「満足していない」の背景には自分が期待していて実現できなかったもの、
求めたが得られなかったものがある。
それで、苦しい、悲しい、痛いになるはずだ。

しかし、大川さんの話の中には
もとめているものが何かが見えてこない。
彼女は何も求めていないのか?
そんな人生もあるのだろう?

ちょっと考え込んだ後、彼女は話を続けた。


私の劣等感は普通じゃない、ということです。
仕事が終わって美味しいものを食べに行くとか女同士でおしゃべりを始めたら止まらないとか、仲のいい友達と海外旅行に行ったりとかそれが普通なんだと思います。私にはそれがありません。

人と違う自分が怖い…
仕事はミスをしないようにいつも緊張しています。
普通に出来るようにこうしていれば普通、と思って平気になるように緊張してきました。
ずーっと緊張して生きてきました。
みんなと同じように生きようと思って、
緊張して生きてきました。
でも、うまく生きられません。

最近、急にイライラしたり、突然落ち込んだりしています。
落ち込むのは前からあるけれどイライラは最近で、それが強くなっています。


たんたんと語っていた彼女は最後に、
「……もう疲れてしまいました」と言って、目に涙を浮かべた。






■孤独感ではなく「孤立感」

また、彼女と同じように不思議な感覚を語ってくれた29歳の男性がいる。
「僕は、小さい頃からずっと”人と関われない孤独感”」を抱えていると背負ってきた。
それで自分は「人と関われない孤独感」について考えてきたけど
本当はそうじゃないと思った。
僕のは「そこにいられない”孤立感”」だと思った。
僕1人だけ人と違うんじゃないか、という孤立感。
「孤独」じゃなくて「孤立」なんだと思ったら、悲しかったけど、
少し霧が晴れた気がした。そういう自分を認めてあげないといけない。



■家は人とは違っていたらしい

小学生の時、友達の家に遊びに行きました。
その子のお母さんは「お母さんのイメージ」に近かったです。優しい人でした。
小さいながらも、お母さんと言うのはこういう人なんだって思ったような気がします。
その子とは高校まで一緒でした。
その子のが家の話をするのを聞いていると家族と言うのは一緒に考えてくれるんだとか
一緒に出かけるんだとか、不思議な感じがしました。

自分の家とは違うな、と思っていました。






■人生のスタートラインに家族が居ない

カウンセリングで自分を語り始めると
人は自然と小さい頃の家族の思い出を語るようになる。
この世界で行き始めた時の最初の人間関係、
それは自分の人生の出発点、人付き合いの土台があるからこそ、悩みの源でもある。
だから、自分を振り返ったとき、
話が家族に及ぶのは必然なのである。
しかし、いつまでも家族の事を話そうとしない。
語りたくない理由があるのか。
あるいは人生のスタートラインに家族がいなかったのか。





■何かがズレていた母


家族の事を詳しく聞いてもらったのは初めてです。
聴いてもらえて嬉しかったです。
私も先生に聞かれて、母親が人と違っているところを色々と思い出しました。


あなたは大変な家庭で育ったんですね。
失礼な言い方ですけど、普通とはだいぶ違う家庭環境だったと思います。
大川さんのお母さんは普通のお母さんとは違うところがありますよね。それであなたは人とは違う苦労をしたと思います。
辛かったと思います。

あなたは親に自分の気持ちを受け止めてもらったことがないんですね。


ええ、友達の母親とは違っていました。
やっぱり、母親はおかしなところがありますか?

ええ、残念ですが、そんな風に思います

母親は、人の気持ちを察することが出来ないんだろうと思ってきました。
いつも「自分は悪くない、悪いのは全部、周り」で…、反省するということができない人でした。私には理解できません。

母親にはなにか、病気とか障害とかあるのかと思ったことがあります。
認知症とか思いましたけど、昔からだと違う。
でも…今日は言ってくれてありがとうございます。
そういわれたのは初めてです。

大川さんは、それ以上聴こうとしなかった。
彼女の心の中には静かではあるけれど、大きなショックが広がっているようだった。





■親が「いない」と心理システムが出来上がらない

大川さんの母親に「発達障害」があるのは間違いなかった。
医学的には「軽度発達障害」の部類に入るだろう。
その元で育った恵子さんは
「ネグレクト」に近いものを受けていたと考えられる。

大川さんは衣食住の世話はしてもらったが、精神的なケアを受けることがまったくなかった。
つまり、誉められたり、叱られたり、甘えさせてもらったり、厳しく教えられたり、一緒に考えたり…という親子の交流が無かった。

それが、心の成長に致命的な「傷」を残した。
もちろん、母親が悪いわけではない。
母親は子どもを育てるのに一生懸命だったに違いない。
しかし、残念ながら人間理解の「能力」が低かったので、子どもに生き方を教えることができなかった。

恵子さんは「母親を知らない」。
だから、恵子さんは「子どもになったことも無い」。
そして、親の生き方をコピーできなかった恵子さんには「普通の」心理システムができなかった。



子どもは母親を通じて、この世界を知り、自分を知り、人を知り、社会を知っていく。
その最初の手がかりが小さい頃の母子関係の中にある。
毎日、子どもは母親の反応を見る。
それを基準に自分を知る。
自分は、いい子であるか、悪い子であるか、
そういう自分が分かる。

しかし、恵子さんには母親のポジションを取ってくれる人がいなかったので
彼女は自分がいい子なのか、悪い子なのか、
うまく出来たのか、出来なかったのかわからなかった。
だから、自分がどこにいるのか、自分が誰なのかを確認できなかった。
彼女は自分を知らないままに大人になった。
恵子さんの母親は食事を出してくれただろう。
でも「美味しいかい?」とは聞いてくれなかった。
すると、恵子さんはそれが美味しいものなのか、
普通のものなのか、あるいはマズいものなのかを確認できない。
身体は美味しいものを食べて、満足を感じているが一方で、それが何なのか理解できない。
この食事は人間的に社会的に喜ぶべき事態なのか、あるいは、ただの普通の出来事なのか、その結論が出せないのだ。
出来事の強弱がなくなり、全てが並列になる。


美味しいものを食べてお母さんと一緒に喜ぶという体験は、人と共感する原点である。
それが人間関係を作る土台になる。
つまり、美味しいものを食べると人は嬉しくなる。
それを確認してくれる人がいると
美味しいという自分の感覚が母親のそれと繋がり、共感が生まれる。
美味しさは自分の身体が感じている、全く否定しようのない、明確で確実な感覚だ。
それを他の個体である母親と共有できる。
人と人とのつながりができる。
生まれてから何度も繰り返されたその関係の先には
母親以外の多くの人々がいて、
さらにその先に社会があるのだ。
さらに、美味しさから始まった人との共感は
楽しさや嬉しさ、悲しみや苦しさへと広がり、
人とのつながりを強固にする。
こうして、自分の身体の喜び、自分の感情は
社会の共通の基盤である心理システムにつながっていく。
しかし、母親が「美味しいかい」と聞いてくれないと
「美味しいから、満足、うれしい、よかった」という体験は
人間関係の中で確認できないままに
ぼんやりとしてしまい、やがて消えていく。
世界との関係が希薄になる。
子どもは人々が共通して求めているもの、
人との繋がりを確信できないままに
大人になってしまう。
そうして彼らはふわふわした、とらえどころのない存在感の中で
生きている。
自分には「美味しい」の確信がない。
それが彼らの「孤立感」であり、「普通」でないことの感覚なのである。



■母親の障害を受け入れる

「先生、私の母のおかしなところ、障害ですよね、どんな障害なのですか?」
4ヶ月たって、彼女はあらためて、母親を知る覚悟が出来たのだろう。
私医学的な説明を伝えた。

軽度発達障害の一番の障害は
人間関係の理解が十分にできないことである
他人が何を考えているのかを推測できないので、
子どもの気持ちが見えない。
だから親の立場に立てない。
子どもと一緒に共感したり、
喜んだり、落ち込んだりが出来ない。
子どもからすれば
自分をわかってくれない人、ただ同居している「あの人」になってしまう。
同じ理由で、社会の共通の理解、つまり「普通のこと」が何であるかを理解できないから、
子どもにも常識、つまり、当たり前のことや、何がよくて
何が悪いかということを教えられない。…と説明した


ありがとうございます。よくわかりました。
小さい頃から、母親には相談できず、結局は
あの人のなだめ役をやってきました。
興奮し始めると止まらない人でした。
分かってもらいたいのはこっちなのに…
誰も相談相手がいませんでした。
自分で決めていくしかありませんでした。
だから、いつも自信がなかったんです。

母親の事実、自分の家の事実、そして自分が「普通」でないことの事実を知った。

■何も解決していないことが分かりました
母親の事実、自分の家の事実、そして自分が「普通」でないことの事実を知った後も、大川さんは同じペースでカウンセリングに通ってきた。
何度か、「分かってもらえて嬉しかった」と語った。
それが心の安らぎになっていることは確かだった。
その証拠に、彼女の生活は少し、変わった。買い物とか映画とか美術館とか、前と比べると出かける機会が増えた。
仕事と生活の緊張感も、少し、和らいだ。
しかし、彼女の孤立感は埋まらなかった。
彼女は話し続けた。

やっぱり独りぼっちでした。
長い間ずっと緊張して生きてきました。
私の今までの時間ってなんだったんだろうって…考えます。
自分が無条件にここに居ていいという実感が持てません。
みんなに受け容れられているという感じを知りません。
「みんなと一緒」がないんです。
そこだけ欠けています。
本当はそこの気持ちを埋めたかったんです。
そう思ってずっと生きてきました。
でも、それが自分の努力では埋まらないと分かりました。
うすうすは分かっていましたけれど、それがはっきりして重いです。
家に帰って鍵を開けて部屋に入ったときに
私は分かってくれる家族が欲しかった、みんなと同じになりたかったんだな、と思いました。
でも、そういうことを考えるのはもう疲れたというのが正直あります。
だから、クリニックに来るのも気が重いです。

小さい頃から自分の気持ちにフタをしてきました。
産んでくれなければ良かった。
選べるんだったらあんたたちのところには来なかった…
そう言いたかった。
それが言えた。それはよかった。
でも、何も解決していない。
ここにきて、自分が悪くないと分かってよかったです。
自分の気持ちをいえてよかったです。
でも…何も解決しないことも分かりました。